31.ひろみの帰国
31.ひろみの帰国
茶泉ひろみがすぐに店を出て家に帰った。
キッチンテーブルに、封筒や便箋を雑多に置いた。督促状が何通かある。
溜息を一つしたあと、冷凍庫からウイスキーを出した。
食器洗い乾燥機からグラスを取ると、ザ・マッカラン シェリーオークを流し入れた。
冷凍され粘性が増した液体が、ゆるやかにグラスの底に積もった。
冷蔵庫のキリ・クリームチーズを口に含んで流しこんだ。味はなかった。
要点が三つ書かれていた。
青田美濃が亡くなった。
(母だ)
ひろみにとっては心を許せる唯一の人間だった。めったに会えなかったが自然と心を通わせた。だが、母という実感はなかった。
(シスターたちが母だった……)
ひろみにとって美濃は姉のような感覚だった。今日着ているブラウスは最後に会った時にもらったものだ。
(偶然……いいえ共時性だわ)
ひろみは考えた。
(昨日から何かそんな感覚があった。だからあんなどうでもいい同僚と口論してしまった)
ひろみは悲しくなかった。そうかという感じだった。もっと泣くかなと思ったが自然だった。人はいつか死ぬものだから。生きている限りは。命を楽しむ代償だ。ゲームにはいつか終わりがある。でもスコアは出るのだろうか。この人の人生は何点。この人は何点……というように。
(美濃は何点だったのだろう。よくはないだろうな。わたしの今のスコアは……)
封筒には美濃の直筆の手紙が入っていた。「会いたい」と「ごめんなさい」と「ありがとう」が書かれていた。寂しさが伝わった。
(寂しいならそう言えばいいのに)
一人じゃあ何にもできない。
(みんな同じ。寂しいんだ。……わたしも会いたかった)
もう会えない。
(ごめんなさいはわたしのほうだ)
そんなに辛いとは知らなかったから。
(ありがとう……。産んでくれてありがとう。それだけで十分。それだけで……)
もう一つキリを頬張った。
甘かった。
ザ・マッカランをグラスに注いだ。
ボトルの濡れた汗で落としそうになる。
グラスの底から白くなった。
兄が行方不明だ。ある夜、消えたそうだ。
(どこに行ったのかしら。あの天才は。女? まさかね。わたしが自作して贈った珈琲カップだけがなかったそうだ。一王さんらしい)
で、「帰ってきなさい」と書かれていた。環は研究に熱中したいので「経営を任せたい」と書いていた。
(本心だろう。あの女が自分で人や金の管理などしたいとは思わないだろう。お金は腐るほど持っているのだ。あの女は)
ひろみは部屋を見回した。殺風景で、男の匂いがしない小部屋だった。
荷物など数えるほどしかない。
(ソニーのTV&外付けHDDくらいか。高かったのになあ……)
帰ることにした。
病院の理事に電話すると、まだ起きていた。
事情を説明した。案外簡単だった。
(後はあの坊やが上手にするでしょう。詫びにソニーをあげようかしら)
服をサムソナイト・スーツケースに入れた。
(藍墨コンビにまた会える。翼や杏にも)
翠は元気だろう。
すぐに用意ができた。
が、喪服がなかった。
(買って帰ろう。日本にはわたしのサイズの喪服はない)
もう一つの封筒に入っていたチケットを確認した。
ファースト・クラスだった。
VAIOのノートPCを開いて、インターネットでビジネス・クラスに変更した。差額で喪服が買える。本心はエコノミーにしたいが広さが耐えられない。
(他は……)
督促状をポケットに入れた。
未練はなかった。




