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23.倒れる忠/墨月に学ぶ淳

23.倒れる忠/墨月に学ぶ淳


 父の忠が病に倒れたのは、鮎川淳が高等学校の卒業間近だった。


 淳は大学を法学部に決めていた。


 人の役に立つルールをもっと詳しく知りたかったのだ。自分に何ができるかとてもその時には分からなかったが、とにかくもっともっと勉強したかった。


 高校は奨学金をもらいながらの大変な日々だった。


 朝は誰よりも早く現場に行き、父の会社の仕事の段取りを手伝った。


 叔父の平悟郎も責任者に名前はつらねていたが、職人としての腕はまあまあで、そもそも段取りができなかった。そのうえ若い職人が少しでも自分より腕を上げると不機嫌になる小人しょうじんで困り者だった。


 普段が陽気な平叔父さんなだけに、淳も強く言えない。


 それに、平悟郎には特殊技能があった。ガラクタのなかから使えるものを見つけられるのだ。これがゴミの再利用に役立った。


「誰にでも才能はかるからな」


 忠はそれだけは認めていた。


 昼は高校で学ぶと、夜は経理を手伝った。平悟郎の記帳がどうも合わないと忠が淳に頼んだのだ。平悟郎は自分の仕事を取られたと不平不満だったが、忠に間違いを指摘されるとすぐに逃げてしまった。


 忠はきちんとするならと、教会の慈善施設〔慈悲の家〕から税理士を紹介してもらって淳に学ばせた。


 夜中みんなが寝静まってから、一人で法律の勉強をした。


 今しかないと必至だった。


 推薦をもらい、学費も免除してもらえる学校は限られている。東京や名古屋の大学に進むなら、寮の費用も考えなければならない。


 できることは限られている上に、すべきことは山積みだった。


 忠としては、会社を継いでほしいというのが本音だった。また、継ぎたくないという理由で淳が親元を離れるのではないことを理解していたが、もともと忠が援助できる経済力も限られていた。


 妹のしおりは、前のようなおしゃまな小娘ではなく、美しくしとやかになっていた。


   *


 前に、淳が進学を希望したとき、忠はかなり落胆した様子だった。


「好きにしろ」


 忠はそう言い残し席を立った。家業を継ぐものだと思っていたので失望したのは事実だが、反面はんめん忠は嬉しかったのだ。


(照れ隠しとはざまあないな……。男が自分のやりたい事をするんだ。止める理由はない)


 ピアノ以外で、淳が目標を見つけてくれたからだ。茶泉医師の言葉を想い出す忠だった。家業のそれ云云うんぬんは、忠自身の我儘エゴだと知っていた。


 だが、法律を学び弁護士になってもうのがやっとの人間が何人もいることも知っていた。わざわざシスターに頼んで税理士を紹介してもらったのは、世間の厳しさを教えるためだった。もっとも、平悟郎の記帳は確かに合わなかったのは事実だったが。


   *


 土曜の朝、敏腕びんわん税理士は墨月信行すみつきのぶゆきと名乗った。


 墨月の家は文化住宅の一階だった。かなり暗い。


「はい」


 挨拶したのは車椅子の少年だった。きれいな顔をしている。もしかしたら淳より若いかも知れない。


「あの……税理士の墨月先生のお宅は……」


 淳は息子さんがでてきたので聞いてみた。


「鮎川淳さんですね。どうぞ」


 墨月が器用に車椅子を反転させ奥に向かった。


 包みを先に置き、靴を脱ぎ上がる。きちんと靴を揃える。


 整理された部屋だった。部屋を見れば性格がわかる。


 特に台所とトイレ。


 淳も改装を手伝ったとき何度か他所様よそさまのものを見たが、墨月の部屋はかなりきれいだった。


「どうぞこちらに」


 机に教材一式揃っていた。淳が持ってきた本と文房具をその横に置いた。


「お父さんは……」


 淳は聞いてみた。


「早くに亡くなりました」


 墨月がお茶を運んできて言った。


「え?」


「ジョークですよ。ジョーク」


「あっはい……」


「ジョークは人を親しくさせる魔法ですからね」


 ウィンクして名刺を渡す墨月がお茶を飲んだ。「税理士 墨月信行」とある。


「本人です。税理士の墨月です」


(アレ?)


 もう一枚には「弁護士 墨月信行」と書かれていた。


「弁護士でもありますよろしく」


 手を差しだす墨月。


 握手すると、墨月の手はやわらかかった。だが握力は十分ある。


「お若いですね」


「鮎川さんも、お若いでしょ?」


「はあ……あ、これをどうぞ」


 重い包みを渡した。


「父からです」


「ありがとうございます。……何だろうな。開けても?」


「どうぞ……開けましょうか」


「あ、おかまいなく。足がよくないだけで、そのぶん手は二倍、口は三倍です」


 笑う墨月だった。


 金雨酒造の純米大吟醸酒だった。一升瓶が二本。


「鮎川さんわかってはる……」


 製造ロット番号を見て笑みを増す墨月だった。


 普通、天才は自分の能力を他人に伝えることができないが墨月は上手に教えることができた。経理だけでなく世間のことも墨月はよく知っていた。


 その理由を淳は尋ねなかった。プライベートな話は淳自身もしたくなかったから。人に聞かれたくないことを人に聞くようなことはしなかった。


 淳は午前中で簿記の三級レベルの問題をいていた。


 教えながら墨月は仕事の電話に出ていた。かなり込み入った内容もあったがなるべく聞かないようにした。


 日曜の夕方には二級レベルの問題を解いてしまった。


 墨月は「卒業です」と言った。


 報酬は初日の酒二本だけだった。二日で飲んでしまったらしい。


 いくらするのか淳は知らなかったが手に入りにくいものだというのは分かった。大吟醸は神に供える酒だと後で知ることになる。


 それを二日で飲むとは墨月はかなりの酒豪だった。


 あの華奢な身体のどこに入るのか淳には不思議だった。


 墨月は「保険も勉強したほうが良い」と淳に助言した。


   *


 それからしばらくして、墨月が東緑が丘に家を建てた。全戸バリアーフリーの九階建てのマンションだった。一階が墨月の家で、二階から上は賃貸用だった。施工はもちろん鮎川建設だ。地下室にかなり大型の空調システムが入っていた。


 大型コンピューターの冷却用だと墨月は言ったが、自家発電システムもあり、ちょっとしたシェルターだった。


 墨月はセキュリティーシステムも最高のものを用意させた。


 地下と一階が完成したところで墨月は引越しした。


 三階部分を造っている時、大型商業娯楽施設に反対するデモ隊がマンションに乗りこんできた。施設と間違えたデモの人間が反対を訴えていたのだ。


 社長の忠がおらず、対応した平悟郎が話を聞いた。


 高層ビルに反対する言い分を黙って聞いていた平悟郎が納得して、作業員を帰らせた。


 墨月が表に出るとデモの一人が知っていたらしい。どうしてここにいるのかと尋ね、墨月が自宅だと説明した。


 納得したデモの人々が平悟郎の肩をたたき謝りながら帰っていった。


 平悟郎が一人現場に残されていると忠が帰ってきた。


「どうして帰らせたんだ」


 怒鳴る忠に平悟郎は「デモですから仕方ないんです」と繰り返すばかりだった。


 墨月が忠に事の次第を説明したが、午後からの仕事は完全に止まってしまった。


 その一件で忠は商業施設の事を詳しく調べ始めた。他にも現場があり邪魔じゃまされたくないというのが本音だった。調べるとちょうど自分が住宅として開発している東緑が丘・南緑が丘がターゲットだった。土地の転売も早々と進められていた。


 銀行からの融資で東緑が丘の一/三の宅地造成の権利をもつ鮎川建設に交渉に来るのは時間の問題だった。


 地盤がゆるく他社が開発を断念した土地を安く買い、顧客のギリギリの予算で基礎を十分に入れ耐震性を持たせ薄利多売をする鮎川には、商業施設は敵だった。


 確かに商業施設で一気に造れば耐震性は増し地域の人も便利になるだろう。


(だが今の買い物で満足している一般の家を安く欲しい人はどうなる……そして俺の仕事は)


 南緑が丘を所有する山田栄建設の土田が交渉に来たが帰らせた。


 翌日からデモの集会に忠も参加した。表に出るのが好きではない忠もこの時だけは仕方なく先頭に立った。


 先は長かった。疲労困憊ひろうこんぱいしてもなお続けたのは淳への当てつけかも知れなかった。


 しばらくして、忠が倒れた。心筋梗塞しんきんこうそくだった。幸い軽く命に別状はなかったが、忠が淳に頼んだ。「後を頼む」と。山田栄建設との交渉は難航しており、顧問弁護士の墨月も「今のままでは」と助言した。平悟郎にたくすことなど到底できなかった。淳は進学をあきらめ、副社長に就任した。他に手はなかった。


 淳は病室でぐっすり休む忠のそばで静かに泣いた。


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