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22.春女の過去/鳩太郎の過去

22.春女の過去/鳩太郎の過去


 ブルー・メタリックのメルセデスE200カブリオレ・スポーツ(BSG)が止まる。


 山田春女やまだはるみだ。いつものようにシルクブラックを着こなしている。


 今日もブルー・ダイヤモンドのチョーカーをしている。


 春女自身チョーカーの数を数えたことがなかった。好きだと言えば何でも買ってくれたから。手に入るものはすべて。


 果たしてそれが幸福しあわせかを、春女は考えないようにしていた。


 いつだって人は自分を商品として見ていたから。何の努力もなしに手に入るものなどない。


 中学生からフェラガモをいていた。どうしても欲しい靴だったから。


(オードリーに憧れて)


 親戚の叔父さんにおねだりして買った一足は今はもう履けないが大事に仕舞ってある。


(……どこかにあるはず)


 フェラガモを履いて自分の歩き方を変えた。より優雅に見えるように。魅せるように。この歩き方は努力の結晶なのだ。


 春女は歩調をゆるめた。


 通り過ぎる人が振り返る。男性はもちろん女性も。


 靴職人が言っていた。「その人がどんな人生を歩んできたか靴底を見れば分かる」と。


 水商売の女性がお客さまを判断する基準が、時計と靴とかばんだ。


 小物や足許にどれだけ気を配れるか。


 春女が大阪の北新地きたしんちでトップでいられたのは単に魅力だけではない。お客さんに対する営業とは別に、完全にお客さんを見抜いていたからだ。


 いくら高級な靴を履いていても靴の裏まで気を使う男性はいない。


 建設関係の男性らしく無骨だった山田鳩太郎やまだきゅうたろうの革靴は年期が入っていたがきれいに磨かれていた。


 明らかに自分で磨いていた。


 席を立った山田の靴底は真新しかった。


(靴底を替えてる?)


 たいていの男性は靴を使い捨てにする。


 それから毎回チェックをいれるようになった。興味があったのだ。


 部下の土田つちだも品がいい。


 接待で来た初日から一週間連続で来ていた。毎回違うお客さんを連れて。


 それほど高くない生地だがイージーオーダーのスーツを着ていた。


 六日目に初日の靴になった。つまり五足は最低持っていて、それを毎日替えていたのだ。スーツのように。


 人間は毎日汗をかく。靴を履いた足からもコップ一杯分。


 汗は約三日で自然に乾燥するのを知っていた春女はいくら気に入っていても同じフェラガモを毎日履くようなことはしなかった。それに乾燥した靴に足を入れるのとそうでないのとは雲泥の差がある。


 自分で磨き、そんな知識を持ち、靴を張り替える勤勉さに春女はれた。


 実際他に女がいるようだったがそんな事は関係なかった。


 春女は言ったのだ。「結婚しましょう」と。


 春女は北新地きたしんちでの自分の賞味期限を決めていた。


   *


 求婚された当時、山田鳩太郎は三十半ばで独り者だった。


 この世界にはとおのころからいる。


 父の命令だった。


 父は絶対だった。服従していた母は幼い息子が傷だらけになるのに何も言えなかった。


「早く一人前になれ、時間がない」


 それが父の口癖だった。


「早く、早く一人前になれ」


 何でも父に教え込まれた。自分で自分の道具を手入れするのも基本だった。


 身体からだで教えられた。


 少しでもサボるとすぐに鉄拳だった。いま思えば教える父も必死だったのだろう。


 しかし子供の自分に分かるはずがない。


 恐れ、うらんでいた。


 いつも殴られた。


 殴られ殴られ一つ一つ覚えていった。


 いつか殴り返してやろうと思っていた。


 殴り返せるまでに身体が成長した十七で父が死んだ。


 現場の帰りの交通事故だった。父に過失はなかった。


 それからずっと働き通しだ。


 満足に高校に行けなかったが、経済新聞は毎日読んでいた。


 裏をかかれたら生きていけない。バカに思わせておくのも手だ。


 社会に出て分かることだが、学校の教諭は社会のことを何も知らない。コンビニエンスストアのバイトぐらい教諭のインターンに導入すればいいと考えていた。感謝の意味を知らずに「ありがとう」を繰り返す教諭を鳩太郎は許せなかった。


(明日を知らず生きて行く人間のなんと多いことか)


 鳩太郎は一人だった。他には家に病気がちな美しい母がいるだけだった。


 父の遺産の株式会社は専務の取り巻きだらけだった。腕の良い税理士が入っていたので相続税は払わずに済んで喜んだが、いつの間にか専務と取り巻きの持ち株が二〇パーセントを越えていた。巧妙に仕組まれていたのだ。


 父の死も専務の差し金かと鳩太郎は疑ったが成人するまで静かにしていた。専務側の持ち株が二〇パーセント。自分は譲り受けた四〇%と母の三〇%で七〇%。


(以前は親子三人で一〇〇%だったのに)


 取り巻きとは関係ない翌桧あすなろ弁護士に調べさせてみると残り一〇%が下請会社で、以前支払の代わりに渡した転換社債からの株だった。


 専務が裏金を作ったのは明白だった。三〇%を越えているので株主総会で拒否権も発動できる。


 翌桧弁護士は「すぐに糾弾すべきだ」と言ったが鳩太郎はすぐに行動しなかった。


 勝っても弁護費用がかかり過ぎる。


 時期を待った。


(証拠がもっと必要だ。決定的な証拠が)


 それに母に言いよる、先に妻を亡くした取り巻きの経理部長も利用したかった。母にその気はなかったが鳩太郎は油断させるために家での食事を黙認していたが絶対泊まらせなかった。


 砂時計が何度も静かに返り、待った。


 いま行動に出れば父と同じように殺されるかもしれない可能性があった。専務の裏金を知った後では事故も不自然すぎる。


 同じように父に可愛がられた土田といっしょに、楽な仕事に変えられた。専務は社長になり、会社は彼個人のものになった。


 お蔭で事故の裏を調べる時間ができた。


 よく社長は飲みに連れていってくれた。酔っても決して運転しなかったし、前後不覚にならなかった。常に死を意識していた。


 土田に調べさせた加害者は岡山県の山奥の人間だった。姉寺和馬あねでらかずま。今は妹尾和馬せのおかずま。名字が変わっていたので時間がかかったのだ。


 翌桧に財務調査をさせた。違法だが気にしない。


魚心うおごころあれば水心みずごころ


 翌桧は同性の愛人から手切金てぎれきんを要求されていた。あの時代、同性愛者だとバレると仕事がなくなってしまう可能性があった。


(色んな幸せがあっていい)


 鳩太郎はそんなことを気にしなかった。


 今すぐ現金がない鳩太郎は第三者割当増資を約束した。上場すればかなりの金額になる。経済新聞を熟読した鳩太郎ならではの支払い方だった。


 結果、当時の和馬が多重債務者だったことが判明した。債務リストは五年は消えないので残っていたのだ。


 それが神戸で事故。


 本人は親戚を頼って来たが断られノイローゼ状態でハンドル操作をあやまったと陳述した。


 当時の交通事故の業務上過失致死は最高五年。人を殺して最高五年だ。事故と殺人では雲泥の差がある。


(これが計画なら……)


 求刑は三年六か月だが、実刑は三年。


 債権者達が情状酌量を訴えた嘆願書を提出したためだ。本人は真面目に支払を行っている、と。


(収監されては回収できないからな)


 実際、大人しそうな人間だったらしい。土田が会った和馬と言う人間は。


 結局、和馬は模範囚で二年で出てきた。刑務所もタダではない。税金だ。


 一か月の使用料は会社員の月収以上だ。それも税込の。だから模範囚は早く出られる。世の中、金だ。模範だからではない。負担がかかるからだ。


(負担か……公務員も同じだ)


 父に頼まれた役所に書類を取りに行った時だ。遅いし上がっても不備だったのでまた行く事になった。帰って父に言った。「公務員なんかいらない」と。父は言ったものだ。「鳩太郎、あんな人間がウチの会社にいたらどうだ。同僚に部下に上司にいたら。耐えられないだろう。困るだろう。だからみんなでお金を出し合ってみんなで雇っているんだ。あんな人間が一人いるだけで会社は足を引っ張られる。だからみんな纏めて白い箱に入れているんだ。税金はその費用だ。厄除代やくよけだいだ」と。


 それを聞いた鳩太郎は納得した。公務員全員がそうではないだろうが、上級ではない公務員に安易な不祥事が多いのも理解できた。


 それ以来、税金に嫌悪感はなくなった。保険代だったから。


 人を殺してたった二年で出てきた姉寺和馬は妻の親の養子になった。名字を妹尾せのおとして今も個人で経営している。岡山の山奥で。建設業を……。


 翌桧が調べたリストが物語っていた。嘆願書を出した債権者には前日までに全額利子まで支払われていた。出していない会社は後日数%しか払われていない。サインするか、数%か選ばされたのは明白だった。


 今さら父が殴ってでも早く一人前にさせた理由がやっと分かった鳩太郎だった。


 泣けてきた。


 母に言い寄っていた取り巻きの経理部長を味方にして資料を手に入れた。


 簡単だった。未成年の鳩太郎が「お父さん」と言ったのだ。経理部長の嬉しそうな顔。


 訊くと最初は言いたくなさそうだったが、もう一度「お父さん」と言うと、経理部長は静かに頭を下げた。


 何度も謝った。何度も。そしてようやく、母名義で多額の借り入れが銀行にあることを打ち明けてくれた。


 母は経理部長に泣いて頼まれたのだろう。会社を救うためです。このままでは息子さんの会社が……。翌桧に帳簿を確認させたが、借り入れの必要性がないぐらい業績は良かった。


「それに……」翌桧は言った。「脱税が行われており、かなり悪質です」


 かなりの裏金があるに違いない。手が込んでいる。手っ取り早いのは経理部長が母の株を手に入れることだったが、母が頑として息子に渡すと聞かなかったのだ。そこで息子の鳩太郎に渡してから手に入れるように仕組んでいた。社長は二十歳になって七十%の株を持った鳩太郎を社長に立て、その後で全責任を取らせる気だった。


 経理部長は泣きながらそう話した。


 鳩太郎は言った。「事をえたらいっしょに住みましょう」と。それで味方だった。


 顧問税理士を味方にするのはもっと簡単だった。取締役になっていない今なら鳩太郎が脱税に問われることはない。顧問弁護士は蒼白になった。


 こちらの書類は完璧だった。


 三年経って二十歳になった鳩太郎は株主総会で満場一致で代表取締役社長に就任した。社長は役職なしの相談役になった。彼の筋書き通りだった。


 次の議案を出す鳩太郎。聞いていないという表情の相談役。書類を渡す経理部長。読み進める全員の目がだんだん変わった。土田が隣室から車椅子を押してきた。


 乗せられている男性は妹尾和馬だった。縛られているのか動けない。


 相談役の表情が消えた。


「欲しいのは株です」


 鳩太郎が宣言した。


「今すぐ返していただきたい。返していただけるなら過去は問いません」


「裏切ったのか!」


 状況を把握した相談役が経理部長に言った。


「あんたが……」


 経理部長が指を差した。


「あんなことまでしなければ!」


 土田が相談役の肩を押した。


 分厚い委任状だった。目を通すまでもない。株を返せば過去を追求しない内容だ。過去が何かは一切書かれていない。


 各々の実印も用意されている。


 土田が回収し、それぞれの印鑑証明といっしょにまとめる。


 経理部長のもある。


「え? 私のも? 私も?」


 信じられない経理部長。


 書類を手に車椅子を押し、出る土田。


 後ろの扉が大きく開き、総会に流れ込む集団。


 総会屋ではない。


「国税局査察部です」


 査察官が身分証明書と令状を上げる。


 相談役は声もない。


「ただの脱税です」囁く鳩太郎。「しばらく大人しくしてください。そうでないと……」


「でないと?」


「株主代表訴訟……特別背任罪っていう手もあります」


 相談役が溜息をついた。


「それが過去を消す代償か」


「謝ってもらっても嬉しくありませんからね」


 査察官が経理部長に近づいた。びくびくしている。


「ご協力感謝いたします」


 挨拶される。


 事を終え、残ったのは鳩太郎と土田と経理部長の三人だけだった。


 鳩太郎は司法取引をしたのだ。全ての資料を差し出す代わりに経理部長は不起訴にすると。査察が取引に応じたのは下請会社までグループ全体の資料があったからだ。


 株を持つ下請会社の取締役も取り巻き連中だったから容易だった。


 本当に会社を食い物にしていた。


 自分の人生を歩み始めた鳩太郎は総会の帰りに靴を注文した。自分の足で歩くために。


 喜び勇んで帰った鳩太郎にあれほど大人しかった母が噛みついた。


「どうしてこんなことをしたの」


 涙を流した。


「あれだけ世話になっておきながら裏切るなんて」


 口答えしなかった。どうせ母が泣くだけだった。


 父がどんな思いでいたか……。父は孤独だったのだろう。


 だから早く一人前になってほしかったのが今、痛いほど分かる。


 経理部長の株を取り上げたのも気に入らなかったようだ。惚れていたらしい。


(やはり女だな)


 鳩太郎は事の真相は話さなかった。


(話したところで信じまい)


 そして鳩太郎は家を出た。


 会社が自分の帰る家だった。


 父の残した財産・自分自身だった。


 しばらくして母が経理部長と婚約した。そうとだけ言った。


 土田に営業を任せた。業績は良かった。


 ある雨の深夜、電話が鳴った。


 外線のない応接間の大きなソファーで寝ていた鳩太郎は起こされた。


 電話を受けた土田があおざめていた。


「病院からの電話で経理部長が交通事故で……」


「……」


「……亡くなったそうです」


「はあ?」


 ソファーに座り鳩太郎が煙草をつけた。欠伸あくびして聞いていない。


 勢い良く吸う。


 煙草が見る見る燃える。


「……会社の車で接触して……当て逃げだそうです……」


 ゆっくり登る煙。


二駆にくすべるからな……次は四駆よんくにしよう」


 鳩太郎がゆっくり感想を述べた。


「死んだんです」


「誰が?」


「経理部長が……」


「そうか」


 立ち上がり上着を鷲掴わしづかみすると、煙草を適当に消した。


 まだ煙っている。


「どこだ?」


「茶泉学院大学附属病院です」


「あそこか……」


「場所は分かります」


「車回してくれ」


「はい」


 土田が深夜のオフィスを走った。


 鳩太郎は座り直し、待つ間もう一度煙草に火をつけた。


 灰皿の燃えている吸殻をぞんざいに消した。


「交通事故は恐ねえ」


 口許は笑っていた。


 クラクションが鳴った。


 笑みといっしょに煙草を消した。




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