20.美濃の動揺/転がる石
20.美濃の動揺/転がる石
ヨハン・セバスチャン・バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』から「パルティータ第二番ニ短調」(BWV1004)が優雅に奏でられていた。
急に沸いたポットが叫び出した。淳が急いで止めたが、挽いた珈琲が辺りに溢れている。
錠が開けられた棚から薬剤を出す蒼ざめた表情の美濃。処方箋には「赤沼タエ」と書かれている。
粉薬を量るが見ていない。虚ろだ。
(鍵の棚は劇薬……)
片づけながら淳が見守っていたが、明らかに作り方が違うのが分かった。
(タエさんの病状が変わったのかな)
美濃が咳をした。
「ありがとうエンジェル。大丈夫。大丈夫エンジェル。――早く届けてあげて。タエさん待ってらっしゃるから」
「あのう……」
淳が注意しようと声をかけるが無視された。
受け取る淳。きちんと包めていない。明らかに変だ。
(美濃さん……)
先ほどの処方箋が机に置かれていた。
(やっぱりいつもと同じだ)
淳は処方箋を暗記している。
「あのう……美濃さん……」
「――後で病院行くから。早く行ってあげて」
咳が続く。
「タ……エさん……待ってらっしゃ……るから」
「美濃さん……」
「――口答えしないで! 行って!」
手を上げる。ポーズだ。殴りはしない。美濃が人に手を上げたことなどない。
「早く! キャンディあげるから」
手掴みで美濃は渡した。蒼白で倒れそうだった。
仕方なく領収書とお釣りを入れた袋に、白い薬袋をいっしょに入れて薬局を後にした。
(どうしよう……)
泣けてきた。
(確かに前と同じ処方箋だった。間違いない。……でもどうしよう。これタエさんに渡したらタエさん死んじゃうよ。どうしよう……。美濃さん変だし……)
*
――…………えっ? …………あの人が? …………ほんとなの? 一王さんほんとなの? …………確かです…………茶泉が…………ご連絡が遅くなりましたが…………茶泉が…………死んだ…………はい昨日…………茶泉が…………死んだ? あの人が…………あんなに丈夫な人が…………こちらに搬送された時には既に…………どうして助けてあげられなかったのどうして…………施しようがありませんでした残念です通夜は…………あなたよく平然としてられるわね自分の父親が死んだのよ! …………茶泉がいないんじゃあ約束はあの約束は? …………子供たちはどうなるの? ひろみは? 環は? …………茶泉で養育すると会長が…………養育? よく言えたわねあの人が殺したみたいなもんじゃない私が…………私が傍にいれば…………美濃さん…………私が育てるわどこにいるの? ひろみは環はどこ? 連れて帰るわ! …………落ち着いてください今はお子さんには会えません分かっているでしょう? よろしいですか仮通夜は明日本通夜は明後日葬儀は五日後社葬ですくれぐれも落ち着いてください…………私は落ち着いてるわ落ち着いてる十分すぎるほど落ち着いてるわ…………どうして今なの…………どうして…………いっしょに暮らす約束は…………あの約束は…………残念です…………あなたは! 私なんかが茶泉と…………言い過ぎです美濃さん私はお二人の関係に賛成も反対もしていませんただ父には父の…………反対もしていませんですって? …………落ち着いてください美濃さん美濃さん…………――
*
淳は路傍の石だった。
タエの家には行けなかった。行ける訳がない。
考えて、父の事務所に向かった。
(なんて言おうか……お父さんなら分かってくれるはずだ)
そんな思いを淳はしていた。
事務所の前に、黒塗りのスバル・レガシィが横づけされていた。
業者の人たちがせわしく出入りしながら働いている。
ちょうど父の忠が玄関先にいた。
「お父さん」
遠くから声をかけるが話をしているようだ。気づかない。
忠はスーツの男性と立ち話をしていた。相手は見ればわかる。大手の建設会社の重役だ。
「お話は分かりましたが今は何ともできませんね」
はっきり言う忠だった。
「今しかないぞ。これ以上の良い条件は後では……」
「分かっています」
「分かっているなら何故だ?」
「今で精一杯なんです、土田さん。これ以上仕事を増やしてもらっても……」
「だから言ってるじゃあないか。増やすんじゃあない。利益の上がらない小屋を減らして……」
「小屋?」
眉が上がる。
「話になりませんね」
プライドを傷つけられた忠が言った。
「どうぞお帰りを」
「いいのか? 後悔するぞ」
「誰かお送りしろ」
誰も送る気はない。皆が、忠に可愛がられた真面目な従業員なのだ。
「本当に……」
なおも言う土田は信じられない顔をしていた。まさか小屋職人に断られるとは思わなかったのだろう。
「諄い!」
怒り大股で帰る土田のスーツに大鋸屑がついていた。
レガシィの後席に乗り込んだ。ドアを閉める部下は、サンルーフにも大鋸屑がついているのに気づかなかった。
「灰原を呼べ!」
車内の声が聞こえるぐらいに興奮している土田だった。
レガシィの水平対向音が消えた。
「塩!」
温厚な忠が興奮していた。よほどの事なのが淳にも分かった。
「お父さん……」
「何だ淳か。バイトはどうした? ――それは違う! 何度言ったら分かるんだ」
従業員を叱り飛ばす。
「こうだ!」
自分でしてみせる忠。
「お父さん……」
「帰ったら話そう」
タオルを額に、会話を切る忠だった。
淳がどうしようか空を見上げた。事務所の二階から平悟郎が覗いているのが見えた。忠に見られかけると、平悟郎が急いでブラインドの向こうに消えた。
平悟郎に相談する気にはならなかった。
また石になる淳。
転がる石。
教会に向かう。
白い教会が夕日で朱に染まっていた。
門から入った。静かだ。いつも走り回っている三少年もいない。
誰もいなかった。
(そう言えば今度慰問に行くってシスターが言ってたっけ……)
石が転がる。
〔バー・スマイルス〕も休みだった。閉じたパラソルの傘が赤く染まり、その影がロンギヌスの槍のように淳の心を貫いていた。
坂を登り転がる石。
止まり、転がる。
止まり、転がる。
逆回しのフィルム映画のようだ。一枚ずつ撮っている感覚。
(フィルムのように時間が戻ればいいのに。)
美濃が調合しているあの時に帰りたかった。殴られてもあの時に帰りたかった。
もっと戻る。
幸せのお裾分け。
美濃さんは静蓮を知っていた。
(〔リラクシン〕を知っていた……)
〔リラクシン〕に転がり始める小石だった。
(緑朗さんがいる)
緑朗なら話を聞くだろうし、美濃に説明してくれるに違いない。
(待つかも知れないけど……。もしかしたら岩尾さんもいるかも知れない)
取れていた教会の標語をていねいに貼り直した。
夕日が眩しい。逆光で何も見えない。
疲れて右目が見えにくい。
眼鏡をかけ直す。
右目が暗くなった。
(あれっ?)
その瞬間、転んだ。
(痛い!)
倒れかける淳。
青田美濃が蒼ざめたまま片手を上げて立っていた。
「届けてって言ったでしょう! タエさんから電話でまだ来てないって! どうして言いつけ守れないの!」
殴った左手が震えている。
倒れた淳を更に叩いた。
頭を庇ったが手にしていた袋が破れ、粉薬で辺りが白くなった。
お釣りも散乱している。
黙って殴られる淳は、ゆっくりと転がる銀色の硬貨をぼんやり見ていた。
硬貨が光り、倒れる。
「どうしてどうしてみんな言うこと聞いてくれないのどうしてどうしてどうしてなの」
咳込む。
淳が美濃の背中をさすった。
「いいいい」
手を退けようとする美濃だった。
「ありがとうエンジェル。大丈夫エンジェル」
ようやく美濃が落ち着いた。
跪いてお釣りを集めた。
淳の眼鏡が歪んでいた。
お釣りを拾う。
眼鏡が曲がっているので、ちゃんと拾えない。
右目を閉じ、左目で拾った。
「ごめんね」
美濃が肩を落とし、本当に済まなさそうに言った。
「ありがとうエンジェル。いつも心配してくれて。たまにはサボりたい時もあるわね」
地面の薬を見ながら言う美濃だった。
「美濃さん……」
「なあに。痛かったごめんね。あっ右目だった」
閉じた目を気遣う。
「ほんとごめんね。大丈夫? でも言いつけは守んないとね」
空笑いする美濃だった。
「美濃さん……」
「なあに。ほんと大丈夫だった?」
「タエさんの薬」
「帰ってまた作るわ。超特急でね」
ようやく笑顔になる。
「今度はすぐに持って行ってね」
「違うんです」
「何が」
「いつものと……」
最後の一枚を拾い終え、美濃に渡す。
「何?」
受け取る美濃。散らばった袋を見て思い出す。
「いつものと? いつものように……」
硬貨が指の間から流れ落ちる。
「そんな……私……」
「これ違うんです」
落ちた硬貨を拾い、白い袋を見せながら言う淳だった。
「私……タエさん……殺しちゃうとこだった……」
淳を見る。右目が赤い。
美濃の目から涙が自然とこぼれ落ちる。やっと合点が言ったようだ。
「ごめんエンジェルそうだったのそうだったのね……ごめんごめん……ごめん」
淳を抱いた。
「美濃さん……僕……怒られても言えば……よかったよ」
淳も泣いている。
「叩かれても……言えばよかったよ……」
美濃の胸で泣く淳だった。
抱き合う二人には見えない逆光に、静蓮がいた。
黙って見ていた。
何か言おうとしたが事情を察した静蓮は足音を消してその場から立ち去った。




