19.タエの孫/岩尾との再会/〔リラクシン〕
19.タエの孫/岩尾との再会/〔リラクシン〕
鮎川淳が可愛らしい包みの「幸せのお裾分け」を恥ずかしそうに脇にかかえながら坂を下った。
美濃がきれいにラッピングしてくれたのだ。ベビィブルーとベビィピンクのリボンが愛らしい。
淳の頭の中で、美濃の言葉が繰り返された。
『メッセージ・カードを書きましょう。……そうね。ごめんなさい、ありがとう、ぐらいかな。余計なことは書かないほうが良いわ。そう。きれいな字ね。名前と電話番号も。そう。上手に書けた』
『こんなのでイイの?』
『大丈夫。彼女、びっくりしちゃったのね。泣いてたの?』
『ええ……』
『勇気がいったでしょうに』
『僕……彼女を覚えてなかったんだ……すぐに思い出したけど。お母さんといっしょに来てたんだ。――蝶のブローチしてたよ』
『そう』
『すごくかわいかったんだ』
『そう』
『お母さんも蝶のリングをしてたんだ』
『そう』
『本人にちゃんと謝るのよ。そんな顔しないの。ルールよ。はいでーきーた。カードを挿んでと。――こっちが静蓮ちゃんと、お店の人に。こっちがタエさん。間違えないでね』
赤沼タエの家に着いた。
辺りを見回す。三人組はいないようだ。
(どこに行ったんだろう?)
最近見かけない。
呼び鈴を押す。鳴らない。もう一度押す。やはり鳴らない。
門を開け、中に入った。
緑のバイクのカウルが割れていた。
戸をノックした。
「青田薬局です」
物音がする。いる。
「誰? 誰もいないよ」
孫のようだ。声が若い。
「青田薬局です」
「薬局? いりません」
奥に帰ろうとする足音。
「タエさんのお薬をお持ちしました」
「なんだ婆さんのか」
引き返す。
ドアを開ける茶髪にピアスの少年。ドアに手をかけ完全に見下している。腕に包帯があった。
「どれ?」
「こちらです」
引ったくるようにして取る少年。名前を見て、奥に放り投げる。
「二週間分で食後に――」
「――いつもと同じだろ? 説明いいよ」
「はい……」
キャッチ=22ではなかった。
「まだ何かあんの?」
「こちらを」
タエの分を渡す。
「何これ?」
「キャンディです」
「何?」
「黒飴です」
「はあ? ナニすんの?」
「幸せのお裾分けです」
「はあ? ナニそれ?」
「そう言っていただければ」
「渡すのね。はいはい」
閉めようとする孫。
「あのー……」
「まだ何?」
「呼び鈴が……」
「電池切れだよ。だから中まで入ってきたんだろう? 人の心配より自分の心配しな!」
強く閉められる。
呆然と見上げる淳。
表札が見えた。「赤沼タエ」「奈奈美」「清」「清四郎」――四人並んでいるが、清四郎の文字だけ大きく色が濃い。さっきの少年は清四郎なのだろう。
静蓮への幸せのお裾分けを持って淳は歩き出した。
いくらなんでもさっきよりはまともに応対してくれるだろう。ベビィブルーとベビィピンク二色のリボンが揺れた。
*
リボンを手に巻く美濃。眉間に皺がよっている。
(エンジェル……。淳くんのことじゃあない。自分の事だ。私の。淳はいい子よ。言いつけを守るし何より礼儀正しい。親の教育がいいんだろうな。恋するにはちょうどいい時期かもしれない。静蓮も若いけどしっかりしている。お似合いだろう。私は淳のピアニストの時代を知らない。今さら知ろうとも思わないけれどかなり有名だったみたい。それが事故で右手が動かなくなったのは茶泉から聞いて知っている。普段の生活には困らないようだけれど。たまに遊びに来る妹のしおりちゃんもかわいい。二人ともよくできた兄妹だわ。きちんとお金を払ってキャンディを食べている。前に雇った子はすぐに口にしていた。いくらも食べられないのに口いっぱいにしないと気がすまないみたい。孤児だからと甘やかすといけない。……孤児か。私も孤児だ。必死に勉強して奨学金で薬科大まで行った。ついこの間まで返済していた。……こんなことなら行かなければよかった。……受け入れたくない。今ではあまり私のところに顔を見せなくなった。新しい女のところへ行ったのかなあ……。それならそれで別にいいんだけど……寂しい。せめて子供には会いたい。私のひろみ……環……。どうしているのかな……会いたい。……寂しい寂しい……寂しいよ)
豆から挽いた珈琲が冷めていた。
*
淳はポケットからプリントアウトした地図を出して確かめた。
(合ってる。でもどこだろう?)
電車の高架近くの教会の標語の前を行ったり来たりするが分からない。
夜の店を昼に探すのは結構大変だ。ネオンは消えているし、看板も出ていない。
淳が道行く人に聞いた。ミュージシャンだ。コントラバスを抱えている。
「すみません。教えて欲しいんですが……」
「はい。――ああこの間の」
岩尾増時だった。
「え?」
「追いかけられてたでしょ?」
「あっ! あの時はありがとうございます」
「ウィルキンソン・ジンジャーはキツイよな」
思い出す淳。岩尾のウッド・ベースが重そうだ。
「ベース? ……ピアノじゃあありませんでした?」
「ああ学校で誰もいなくてね。仕方なく。でもこれが良いんだ」
指で鳴らす真似をした。
「これが」
「へえ……面白そうですね」
「君も何かやったら?」
「前はしてたんですが……」
「何してたの?」
「ピアノです」
「いいねえ。また始めたら良いよ。今度セッション(気楽な演奏会)しよう。ところで?」
淳の可愛らしい幸せのお裾分けが気になるようだ。
「〔リラクシン〕ってお店知りませんか?」
「知ってるよ。今から行くところなんだ」
「良かった。見当たらなくて」
「行こう。ちょっと持ってくれる?」
ベースを淳に渡す。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。軽いから」
荷物を持ち直す岩尾。
「ほんとだ。軽い。もっと重たいものだと思ってました」
「みんなそう思うみたいだね。ありがとう」
「何か持ちましょうか?」
「じゃこの鞄を」
「はい」
(あった!)
高架を越えてすぐだった。二階だったのだ。ネオンも当然消えていた。
看板に〔リラクシン〕――〝Relaxin' with; Live Jazz & Fine Cuisine〟とある。
「おはようございます」
岩尾が挨拶した。
「おはようございます」
若い女性がテーブルを拭いていた。
「おはようございます」
バーテンダーがグラスをチェックしていた。
奥から責任者らしき黒服が出てきた。立ち止まり女性に再度拭くよう指示している。見る角度で拭き残しが分かるようだ。
「おはようございます」
岩尾が挨拶した。
「今日はよろしくお願いします」
拭き直した女性が二階に上がった。
「こんにちは」
淳が遅れて挨拶した。
「おはようございます」
二人にきちんと挨拶する責任者。
岩尾に「お願いします。機材の設置はこちらで」と指差す。
「手荷物は……葉ちゃん」
二階の女性を呼ぶ。
「はーい!」
元気の良い返事だ。
「二階は大丈夫かな?」
「もう終わります」
「二階の奥へ。後はいつも通りで。それから十八時来店のお客様が今日誕生日でバースデー・ソングを頼みたいんだけど大丈夫かな?」
岩尾がベースを準備している。
「大丈夫です。――でも今日はあとギターとドラムになりますんで歌なしになりますが」
「じゃあそれでお願いしますね。時間は二十時で考えてください。食事の進行で多少前後しますからスタッフのほうからサイン入れますね」
「はいお願いします」
「葉ちゃん!」
「はーい!」
二階で声がしている。
「ケーキは?」
「掃除が終わってから取りに行きます」
「お願いします」
「お名前は蒲沼葉子さんと優子さん。植物の葉に、子供の子」
書いたメモを岩尾に渡す。
「蒲沼さん……あの?」
岩尾は知っているようだ。
「そう、金雨酒造のご令嬢。双子の。お願いします」
「(納得)はい」
岩尾がメモを確認した。
「葉ちゃん!」
「はーい!」
階段を降りてくる。終えたようだ。
「ケーキの名前確認してね。葉子さんと優子さん。双子だから」
「はい! 確認します。英語です?」
「そう。それと次から二階を最初にお願いしますね」
「はい」
「あと、ケーキの合図をキッチンと段取してもらえますか?」
「はい」
「ライト調整は、他のスタッフに頼んでね。前みたいに一人で全部しないこと。だから上手くいかない。自分で何でもせずに、人に任せるようにしてね。全体で一つだから」
「はい、わかりました」
「はい、お願いします」
やっと、淳に注意がいく。
「彼は?」
淳のことを岩尾に聞いた。
「こちらに用があるみたいです」
岩尾が軽く弾きながら答えた。
「スマイルスさんのところで会ったんです」
淳は店内を見ていた。
壁や柱にミュージシャンのサインがある。
マイルス・デイヴィスは誰でも知っている。オスカー・ピーターソン、リー・モーガン、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン、チェット・ベイカー、ホレス・シルヴァー、ソニー・ロリンズ、ヘレン・メリル、レイコ・リー、そして、マル・ウォルドロン。マルのサインは数が多い。「丸」と漢字でサインしているのもある。
(……)
錚錚佼佼たるメンバーだった。
責任者に気づいた淳が再度挨拶した。
「こんにちは。青田薬局の鮎川淳です。静蓮さんに買っていただいたものをお届けに参りました」
手渡す。
「鮎川淳くんだね。青田……美濃さんの……これは?」
「幸せのお裾分けです。みなさんもどうぞ」
「ナイス!」
きれいな発音で責任者が言った。
「幸せのお裾分けか。イイね。自宅はいま出ているから、預かってもいいかな?」
「はいお願いします」
「では確かに。私は支配人の陸緑朗。……鮎川淳くんだね」
再度聞かれ頷く淳。少し考える緑朗。
「あっちょっと待ってね」
緑朗が電話をかけた。
「陸です。お疲れさまです」
広東語だ。淳には理解できない。
「小蓮は? ――ええ、いま美濃さんの鮎川淳くんが来ていまして……ええ……青田薬局の……はい……幸せのお裾分けだそうです。はい、マダム、あの淳くんです。はい分かりました」
「ごめんね。淳くん。確認したけどやっぱりいま帰れないから、お預かりしますね」
「はい、お願いします」
「それからサインをくださいと」
緑朗がペンを渡した。
「えっ?」
「どこでも好きなところに」
手を上げ壁を案内する。まるでオーディオアルバムだ。
「えっ? でも」
「私もCDを持ってるよ」
「遠慮します。僕もうミュージシャンじゃあないし」
「そう言わず、はい」
「いえ、お届けに来ただけですから。失礼します」
逃げるようにして淳は帰った。
「ミニョン」
笑う緑朗がフランス語で「かわいい」と評した。
外の階段の段を飛ばしながらで降りるのが聞こえる。
「今の子は?」
料理長が声をかけた。
「芦屋の白い宝石です。鮎川淳。天才ピアニスト」
「あーあの。しかし……」
「セ=ラ=ヴィ」
「そうだな。そうだ」
C'est la vie(セ=ラ=ヴィ)――それが人生さ。




