17.淳の留守番/静蓮とキス/幸せのお裾分け
17.淳の留守番/静蓮とキス/幸せのお裾分け
ベートーヴェンの『田園』が流れている薬局を覗く緑髪の少女。
本を読んでいる少年がいる。
図書館のラベルが剥がれかけている。
ジョセフ・ヘラーの『キャッチ=22』だ。
ヨッサリアンの仮病が使えないのがおもしろいと鮎川淳は思った。
主人公は軍隊にいて爆撃機に乗らなくてはならないのだが、乗れば撃墜されて帰ってこられないかも知れないから乗りたくない。「気が狂っていれば乗らなくていい」――これがルール(キャッチ)の一つだ。当然、気が狂っていれば乗る必要はない。片道乗車かもしれない爆撃機に進んでのる人間がいるだろうか。いない。いればそいつは気が狂っている。
正気のヨッサリアンは乗りたくないので気が狂っているフリをするが、気が狂っているのであれば診断書を出せと言われる。軍医にもらいに行こうとするのだがそこでキャッチ=22が発動してしまう。「気が狂っていれば乗らなくていい」――これはわかる。「気が狂っているとの診断書を上官に提出しなければいけない」――これもわかる。で、自分から軍医に「最近おかしいんです、気が狂っているので診断書をください」と言いに行くとキャッチ=22が働き、強制的に乗らなくてはならなくなる。
つまり、本当に気が狂っている人間は自覚症状がない。軍医に診断書を請求しに行く人間は自覚症状がある。自覚症状がある人間は正常なので爆撃機に乗らなくてはならないというものだった。
ヨッサリアンの同僚は気が狂っているので毎回進んで爆撃機に乗るのだが、彼は気が狂っているので本来乗る必要性はない。乗らなくてもいいのだから診断書を出せば乗らなくても済むのだが、気が狂っている彼が診断書をもらいに軍医のところへ行くとキャッチ=22が働き、自覚症状があると見倣なされて気が狂っていると診断されなくなり爆撃機に乗らなくてはならない。もっとも同僚は(本当に)気が狂っているので軍医になど行く気はさらさらない。酔っぱらいといっしょだ。酔ってない酔ってない。
キャッチ=22を回避する術は上官がヨッサリアンのために軍医に請求すれば可能だが、上官が請求することは絶対有りえないので結局、気が狂っていようがいまいが全員爆撃機に乗らざるをえないのだ。
(ルールっておもしろい)
淳は読みながら夢中になった。
「ハーイ!」
少女だ。
「エンジェル!」
眼鏡をかけ直す淳。
(女の子だ。かわいい)
見惚れてしまう。
「いらっしゃいませ」
ぎこちなく言う淳だった。
(誰だっけ?)
店内を見ながら淳をちらちら見る少女。もじもじしている。
「先生は?」
「いま病院に」
「薬の先生も病院に行くの?」
「人間だもん。病気にもなるよ」
「どんな病気なの?」
「人の病気は言っちゃいけない決まりなんだ(――あっキャッチ=22だ)」
「ふーんそうなんだ」
「先生に伝えておこうか?」
「ううん。いい」
少女がお菓子を選んだ。
「これ一つ頂戴」
かわいい黄色のお財布から新券を出した。
キャンディを包んで渡す。
「はい。ありがとうございます」
お釣りを渡した。
「あれっ?」
重なっている。
「二枚あるよ。はい」
「親切なのね。エンジェル」
「ふつうだよふつう」
眼鏡を上げる。
「そうかな」
「正直にしてるとイイことがあるんだってさ。僕は良くないことはできないけど」
「あたしを覚えてる?」
意を決して少女が言った。
「覚えているよ(――誰だっけ。思いださなきゃ)
「わあほんと!」顔が明るくなる。「うれしい」
コンサート・ホールにいた少女だ。母と来ていた。
「思い出した。コンサートに来てくれた?」
「うん。今でも大事にしてあるわ」
(色紙にサインしたかな。した……えっと……)
「お母さんといっしょに来てたんじゃあない?」
「うんうん」
「(名前は……色紙に書いた。確か……)静かな……」
「静かな……」
は、す、と少女が口で形を作った。
見ていない淳。
「は、す、……蓮」
視線に気づき、少女を見て分かった。
「蓮。そう、静かな蓮。静蓮」
そう静蓮だった。
「こんにちは静蓮さん」
眼鏡を上げる。
「こんにちは淳さん。――どうしてエンジェルって呼ばれてるの?」
「洗礼名がエンジェルなんだ」
「ふーん。きれいなお名前ね」
「きれいな目をしてたんだってさ」
眼鏡を上げた。
「お願いしてもいい?」
「なあに?」
「眼鏡とってもらえない?」
「うん? 外すの?」
「ええ。お願い」
「外したら何にも見えないよ。右側は」
右目を静蓮に近づける。
「左は?」
「左目はふつうだよ。度が入ってないんだ」
「ほんと?」
「うん」
外す淳。
(かわいい)
目がきれいだった。
「ほら」
眼鏡を見せる淳。
静蓮は淳の右頬に近づいてキスをしようとした。見えない右で静蓮が大きくなったので驚いて正面を見る淳。
静蓮は頬にしようとしていたが、予想外に口にしてしまってびっくりしてしまう。
「あっ……ごめん(えっなんで?)」
恥ずかしい静蓮が外に飛びだした。
入口で青田美濃とぶつかってしまう。
「ごめんなさい」
美濃が謝った。
静蓮が泣きながら走っていく。
(どうして僕が謝んなきゃあならないんだろう。まあ男の子と女の子じゃ良くないのは男の子だからなあ……あっ!)
キャンディが置かれたままだった。
「ただいま、エンジェル」
「お帰りなさい」
「今の子は?」
「キャンディ買ってくれたんだけど、置いてっちゃった」
「そう。他にお客さんは?」
「いいえ。――病院から処方箋が届いています」
赤沼タエの処方箋を渡す。いつもの薬だ。暗記している。
「はい」
受け取り見る美濃。同じでも確認する。毎回確認する。
(キャッチだ)
美濃がぼそっと鍵のかかった薬棚に呟く。
「とうとうエンジェルも女の子を泣かす歳になりましたか……」
「違うよー! 勝手にキスして帰っちゃったんだよ」
「キスしたんだ……」
茶化す美濃。
「泣くはずよね……」
「ほんとにほんとなんだって信じてよお」
「はいはい」
薬を出す。
「タエさんタエさん……と。キャンディも届けなきゃあね」
「え? 美濃さん静蓮を知ってるの?」
「呼び捨てなんだ」
背中で笑う美濃。
「そんなんじゃ……」
眼鏡を上げる淳。
「家を知ってるの?」
「家は知らないわ」
「え?」
「でもご両親のお店は知っているわ。地図を書いてあげるから、タエさんに薬を渡したら、キャンディを届けてあげなさい」
「でも……」
「でも……ですって?」
振り返り笑う美濃。
「こういう時は男の子から謝んなきゃあ」
「でも僕は何もしていないよ」
「時には何もしていないのは一番良くないことなのよ。さあ、他のキャンディを選んであげて」
「えっ?」
「一個だけ持っていく気なの? タエさんには黒飴がイイわね」
「タエさんも?」
「ええ。こういう時はみんなで分け合わないと」
笑う美濃。
「幸せのお裾分けよ」
「幸せのお裾分け?」




