002 例外は、ルールより多くて
外資メーカーの怒りの電話を、美波は事実を三つに分けて収めた。
2週目になると、彼女の席には「誰も判断したくない電話」が集まり始めた。
「──I need to speak to the person in charge. Now.」
電話の主は、外国メーカーの日本法人で、販売店の支援担当だった。英語でまくし立てているが、美波には怒っているというより、苛立ちを通り越して疲れていると言った風に聞こえた。
「──Your office told our dealers thirty days. It's been sixty. Twenty-three customers are waiting, and every one of them calls me. Not you. Me.」
30日。30日。23人。男は数字だけを叩きつけるように並べた。
「──Who is responsible for this? Give me a name.」
「I understand. May I have the application numbers? I'd like to check each of them while we talk.」
男は少し黙ってから、番号を読み上げ始めた。美波は1件ずつ打ち込んだ。
23件。うち20件は通常の審査中で、受付順に処理されている。
残りの3件には不備通知が出ていた。
通知の送付先は、申請者本人ではなく、手続きを代行した販売店のメールアドレスだった。3件とも、追加書類はまだ届いていない。
それから、もう1つ。30日という数字は、センターのどの案内にも書いていなかった。
「Thank you. Let me put this in three parts.」
美波は画面の記録から目を離さずに言った。
「Twenty of them are under review, in order of receipt. The delay is on our side. I won't pretend otherwise.」
受話器の向こうで、男が息を止める気配がした。美波はさらに続ける。
「Three are missing documents. The notices went to your dealers' email, not to the customers. None of the documents have arrived yet.」
「──……The dealers?」
「Yes. And one more thing.」
美波は、マニュアルのPDFをもう一度検索した。30日。審査期間。目安。どの言葉でも、その数字は出てこなかった。
「The thirty days. I can't find that figure anywhere in our guidance. May I ask where it came from?」
長い沈黙があった。紙をめくる音がした。
やがて男は、低い声で言った。販売店向けの研修資料に書いてあった。作ったのは、自分の会社だった、と。
「I can't promise a date for the approval itself. But we'll confirm whether the notices reached your dealers, and get back to you within two business days.」
受話器の向こうで、男が長く息を吐いた。
「──……Two business days.」
「Yes.」
「──Okay. Thank you. That's the first straight answer I've had.」
通話は9分。受付終了の時刻を、3分過ぎていた。初日から残業とは。
美波は深い息を漏らしてから、3件の申請番号と販売店名を付箋に書くと、主任の机へと持っていった。
「販売店への通知の到達確認をお願いできますか。折り返しは2営業日以内とお伝えしています」
「わかりました。……すみません、ありがとうございます」
主任は付箋を両手で受け取って、モニターの縁に貼った。
「いやあ、助かりました。本当に」
奥の席からやってきた石橋が言った。心からほっとした顔だった。梶谷は、もう画面に戻っていた。木村は椅子に座り直し、何事もなかったように書類を1枚めくっている。
前田は、美波が受話器を置くまでずっとこちらを見ていて、目が合うと、すぐに画面へ視線を戻した。
美波は通話履歴を出した。
初日の今日、自分の電話機に入ったのは43件。自分で取ったのが11件。田村経由で回ってきたのが12件。残りは、ほかの審査担当からの転送と、取次だった。
「今日はめちゃくちゃ助かりましたよ。明日もよろしくお願いします」
田村が鞄を肩にかけながら言い、それから振り返って、奥の席に声をかけた。
「部長、冴木さん、本当にすごいですよ」
木村は顔を上げ、美波のほうをちらりと見た。
「そうだな」
それだけ言って、また書類に目を落とした。
フロアから人が減っていった。
藤岡は帰り際、昼間の付箋がまだ机の端に貼ってあるのを一度見て、それから何も言わずに会釈して出ていった。
山本は「明日からOJTやりますね」と手を振った。
主任だけが残っていた。
「冴木さん、初日から残業させてしまって、本当にすみませんでした。もう上がっちゃってください。電気は僕が消すんで」
「ありがとうございます。ですが、今日の処理内容と復習になりますので、あと20分だけ」
言っている先から、美波は今日の43件を問い合わせの種類ごとに並べ直した。
進捗確認、型番、写真、期限、分電盤、英語。こうしてみると、半分以上が同じ質問の繰り返しだ。答えはマニュアルのどこかにあるか、どこにもないか。そのどちらかだった。
改訂メモの続きに、それを書き足した。
パソコンを閉じる前に、Outlookのスケジュール表を開いた。明日の欄には、「09:00-11:00 OJT(山本)」とだけ入っていた。その下は、空いていた。
美波は電源を落とした。
ロッカーの鍵がないので、荷物は朝から足元に置いたままだ。鞄を持ち上げると、内ポケットで固いものが当たった。
鞄を開けて固いものを取り出す。「シン・アスカ」のアクリルスタンドだ。前の職場の机から持ち帰り、そのまま入れっぱなしになっていた。
美波は、それを少しの間眺めた。蛍光灯の光が、アクリルの縁で白く反射していた。
それから、また鞄の内ポケットへ戻した。
◆◆◆
10月2日。
この日、美波は8時過ぎに出勤した。2番目だった。
主任に挨拶を済ませ席に着く。鞄を足元に置いて、内ポケットからアクスタを出すと、電話機の脇に立てた。
9時前に来た田村が、美波の机の前で足を止めた。
「あれ? 冴木さん、ガンダム好きなんですか」
「シンが好きなだけです」
「え。普通、女性ならアスカガでしょ? シンはないでしょー? ってかそもそも、ガンダムSEEDって時点でなぁ。やっぱり宇宙世紀が……」
美波は無表情のまま何も答えず、業務の準備を進めた。昨日から田村の態度から、必要を感じなかったからだ。
田村は、訝しげな顔で美波を見てから自席に向かった。隣の席の派遣のスタッフは、パソコンを立ち上げながら、一度もこちらを見なかった。
9時のチャイムが鳴った。
山本のOJTは、最初の10分で終わった。田村から美波へ電話が回ってきたからだ。
◆◆◆
初日からの週が終わった。
帰り際、美波は通話履歴を呼び出し、対応件数を確かめる。
入って2日間。すでに102件。初日からここまでロクなOJTも受けていないのに。
勤務時間で慣らせば14時間で1時間あたり平均7.3件。1本あたり後処理込みで8分ちょっとだ。
帰りの地下鉄の中で、美波はスマートフォンの着信履歴を見た。
電話は、派遣元からはもちろん、誰からも一度も鳴っていない。
チャットメッセンジャーにも着信はない。
メールチェックをすると、求人総合サイトからが1日あたり110件前後、他に登録している派遣会社からもいずれも1社あたり20数件受信しており、求人の未読が600件近くに膨れ上がっていた。
美波は画面を消すと、眉間にしわを寄せ、深く、大きな溜息を漏らした。「はぁー」という声が響き渡り、次の瞬間、膝上に置いた鞄に顔を埋めた。
イヤホンを点けていなかった周辺の乗客たちがいっせいに美波を見たが、そんなことには当然、気づかなかった。
◆◆◆
10月2週目を迎えた。
美波の席に集まる案件は、種類が増えた。
誰かが判断に詰まると、島のどこかから「冴木さんに聞いて」と声がする。
英語ができる人、説明がうまい人、クレームに強い人など。呼び方はいくつかあったが、回ってくるものは同じだった。
誰も判断したくない電話、だ。
派遣とは往々にして、皆が嫌がることをやらさせる。そういうものだ。美波は無表情のまま、割り切っていた。
業者が顧客に誤った説明をしていた案件。
書類が足りないのに、締切を盾に処理を迫る案件。
前の担当と今回の担当とで、言っていることが違うと詰め寄られる案件。
3本目の種類が、いちばん多かった。
その種類の電話が、火曜日の午後に回ってきた。
「冴木さんに回しておきました」
2つ隣の島から声がして、ランプが点いた。
「──さっきの人は、写真はあとでいいって言ったんですよ。その前の人は、今すぐって。どっちなんですか。ってか、国民舐めてます? 補助金って、税金ですよね?」
若い男の声だった。怒鳴ってはいなかった。怒鳴る段階は、もう過ぎていた。
「申し訳ございません。いま、これまでのご案内の記録を確認いたします」
美波は申請番号で、応対履歴を開いた。2件あった。
1件目は先週の木曜、田村。『写真、後日提出で可と案内』。
2件目は今日の午前、3つ隣の席の審査担当。『写真、至急提出要と案内』。
どちらも、理由は書いていなかった。
美波はマニュアルを「写真」で検索した。23ページ。設置写真は申請時に必須。ただし、受付から20日以内であれば、追加提出を認める。
画面の右上記載の受付日も見た。今日が、18日目だ。
「お待たせいたしました。2件のご案内とも、半分ずつ正しいものでした」
「──は? 半分とかナメてるんですか?」
「写真はあとからの提出が可能です。ただし期限があります。明後日の木曜日、17時までです」
受話器の向こうが、静かになった。
「──……明後日」
「はい。木曜日17時です。それを過ぎると、申請そのものが差し戻しになります」
「──どうしてそれを最初に言ってくれないんですか!!」
美波は答えなかった。答えられる言葉を、持っていなかった。
「本日中に、期限を記載したメールをお送りいたします」
「──とっととやれよ。10秒で送れ、いいなクソババア?」
捨て台詞のような言葉と共に電話はガチャ切りされた。美波はノートを開いた。
『写真 田村:後日可/2つ隣:至急/規定:20日以内なら後日可』
その下に、同じ形の行を書き足していく。申請日と契約日の前後。保証書の型番の欄。年度ごとの様式の差。どの行も、左に誰かの名前があり、右に規定があり、その間が食い違っていた。
ノートの「改訂メモ」は、3ページ目に入った。
一足早い昼休みに入った藤岡が、こちらへとやってきた。
「冴木さん」
「はい」
「1つ聞いてもいいですか。電話を受けたとき、確認する順番って決めてますか?」
「はい」
「もしよかったら、教えてもらえますか。向学のためにも」
美波は少し考えてから、ノートの端に書いた。
番号。氏名。代行者。不備通知の送付先。
「どうぞ」
「番号で出なければ氏名。氏名で出なければ手続代行者……と」
藤岡は、それを自身が持っている小さめのノートへ写す。写し終えてから、ペンの尻でノートを軽く叩いた。
「そうか。これ、分岐になってるのか。上から順に潰せば、どこがボトルネックか、原因がウチなのか申請者さんのどっちかまで、間接的にわかるってことか」
「はい」
「ありがとうございます。助かりました」
藤岡は手帳を閉じた。その日の午後、藤岡のところに来た写真の問い合わせは、美波に回ってこなかった。
◆◆◆
2週目の水曜日。
マスコミからの電話が来た。
「補助金事務センターです。……はい。……少々お待ちください」
受けたのは山本だった。保留にして、立ち上がる。
「あの、経済系のニュースサイトの方で、本橋さんっていう記者さんなんですけど。『審査が遅れてる』っていう話を聞いたので、事務局の見解を聞きたいって」
キーボードの音が、1つずつ止まった。鳴っている電話が、誰にも取られないまま、ただただ着信音を鳴らしていく。
「広報の窓口はどこだ」
梶谷が言った。苛立った声だった。誰も答えなかった。
「ちっ」
舌打ちの音が響いた。
「と、とにかく、不用意なことは言わないように」
石橋が言った。誰に向けた言葉なのかは、わからなかった。
「上に確認してから、だな」
木村が言った。
その「上」というのが誰なのか、木村は言葉にしなかった。
主任と山本は、ただじっと受話器を見ていた。保留ランプが点滅していた。
1分。
2分。
美波はノートを1枚破ると、ペンを取った。
記者が知りたいことは、おおむね4つだ。
1、遅れは本当にあるのか。
2、あるなら、その原因は何か。
3、個別の申請について答えられるか。
4、今後どうするのか。
1は、現状、受付から審査完了までの平均日数は、公表している目安を超えている。
2は、申請の集中と、書類不備での差し戻しが多いため。
3は、答えられない。
4は、確認のうえ回答する。
それぞれの横に、今答えられるおおよその回答を書き分けた。最後に1行足した。
『個別の審査内容にはお答えできませんが、制度上の一般的な取扱いについては、確認した範囲でご説明します』
美波は立ち上がると、奥の席へ行く。美波の動きを見た主任もすぐ後に続く。梶谷の席の前に立つと、そっと紙を差し出した。
「センター長から、お答えいただくのがいいと思います。言っていい範囲は、ここまでかと存じます」
主任が告げると、梶谷は紙に目を通した。
しばらくして、梶谷は自分の電話の受話器を取り、山本に向かって顎をしゃくった。山本が転送ボタンを押した。
「センター長の梶谷です」
梶谷は、紙に書かれたことを、紙に書かれた順に話した。声は低く、ゆっくりで、威厳があるように聞こえた。
4つ目の項目を読み終えたところで、梶谷の声が止まった。
「……いや、それは」
記者が、紙に書いていないことを聞いたらしかった。梶谷の目が、紙の上を行ったり来たりした。
美波は、紙の最後の1行を指で示した。
梶谷はそれを読んだ。
「個別の審査内容にはお答えできませんが、制度上の一般的な取扱いについては、確認した範囲でご説明いたしますので」
受話器から、記者の声が漏れてきた。
「──では、遅延の責任はどなたにあるとお考えですか」
梶谷の目が、また紙の上を走った。責任という字は、紙のどこにもなかった。
美波はペンを取り、紙の余白に書いた。
『その点も含め、確認のうえ回答』
「ええ。ですから、その点も含めまして、確認のうえ、改めて回答いたします」
記者は、確認事項を3つ挙げた。梶谷はそれを、美波が差し出したペンで、紙の裏に書き取った。
電話は、それから5分ほどで終わった。
梶谷は受話器を置き、紙を手に取って、木村に渡した。
「これ、上に出す資料に入れといて」
「はい」
木村は紙を受け取り、自分の机のファイルに挟んだ。
「いやあ、さすが、センター長。やっぱり、ああいうのは貫禄ですよね」
石橋が言った。
「確か冴木さん、前は芸能事務所の広報だったって……」
主任の言葉に美波は何も答えず、自分の席へ戻った。電話が鳴っていたからだ。
17時20分。
帰り支度をしていると、会議室のドアが少しだけ開いていたのが目についた。
中から、石橋と木村の声が漏れ聞こえる。
「……来年度の枠は、まだ何とも……」
「……AI化の話は、本省のほうから……」
そこへ給湯室から戻ってきた藤岡が美波の席で足を止めた。
「冴木さんがいれば、何とかなりますね、ここ」
藤岡は屈託のない表情でそれだけ言って、自分の席へ戻り、画面に目を落とした。美波は答えなかった。
◆◆◆
翌日の昼休み。
1階のコーヒーショップでホットコーヒーを買って席へ戻ったときだった。
山本が石橋の机の前に立っているのが見えた。
「次長、冴木さんのランチ、来週あたりどうですかね」
「来週かあ。来週は監査の準備なんだよねー。まあ、冴木さんも昼休みまで忙しそうだし、無理に入れなくても、ねえ」
「ですよね。じゃあ、また」
山本は美波のほうを見て、少し困ったように笑った。美波は小さく会釈して、席に着いた。
美波はコーヒーを一口飲み、新しいファイルを開いた。
ファイル名に、「問い合わせ対応フロー」と打ち込み、1行目に、こう書いた。
『この手順書は、担当者が誰であっても、同じ回答ができるようにするためのものです』
電話機の脇で、アクリルスタンドのシンが前を向いていた。
美波は、2行目を書き始めた。
2010年からのハケンちゃんライフをエンタメにした供養小説第2話です(笑)。
自分の複数仕事場での実体験をガッチャンコして極端に振り切って煎じ詰めた、「『ハケンの品格』など組織が腐っていれば瞬殺される」という、恐るべき物語。
英語で話すの、どうなの?
自分は経験から「その時給で英語話す?」を判断しています。ハケンちゃんは、自分のスキルを投げ売りしては絶対ダメです。ただ、仕事場にとっての最終顧客があんまりしつこい場合は話が変わるかも知れません(「円滑な仕事環境構築への協力拒否」と見做される可能性があるので)。
実際、センターが外国語使用禁止の大原則の中で、「日本語しゃべれますか?」と「can you speak English?」で、丸30分押し問答になった経験もありましたので。
全4話+エピで完結します。続きをお楽しみに! ブックマークとかもお忘れなく★




