001 電話は、全部あの人へ
10月某日、補助金事務センターに着任した派遣社員の冴木美波。
今日はマニュアルを読むだけでいいと言われたが、9時のチャイムと同時に電話が鳴り出した。
派遣元になる『つなぎ人材サービス』からのメールには、契約書のPDFが1枚、添付されているだけだった。今日から就業が始まる、補助金審査事務センターの就業契約書だ。
派遣先名 一般社団法人未来型自動車普及促進協会
事業所名 未来ビークル補助金事務センター 小規模エネルギー基地設置部
勤務地 東京都港区○○○九丁目 ネオアサヒグラスビル9階
業務内容 電話問合わせ対応、審査補助、書類確認および登録など業務全般の事務
就業時間 午前9時~午後5時
就業日 平日週5日(土日祝休)
契約期間 10月1日~11月30日(更新する場合が有)
基本賃金 時給 1,800円
10月1日。着任初日。
冴木美波は8時20分にネオアサヒグラスビルの5階に着いた。
ドアの前で待つことはなかった。磨りガラスの向こうにはもう明かりがついており、窓際の席で男が1人、ノートパソコンを開いていた。
「あ、冴木さん? 早いですね」
磨りガラスの扉を開けて現れたのは、声を掛けてきたのは30代半ばの男性だった。先週の職場見学のときに一度だけ顔を合わせた、このセンターの主任だ。
「おはようございます。本日からお世話になります」
「こちらこそ。あれ。今日は森さん一緒じゃないんですね」
話に出たのは、派遣元会社にあたる、ダス・アーバイテンの営業担当のことだ。
「ああ、あの人からは、『電車が混んでいるから、一人で行って下さい』ってショートメッセージが来ました」
「森さん、前の人が来てくれたときもそんな感じでしたしね」
派遣会社の営業担当は大抵、勤務初日は一緒に来てくれるものだ。だが、美波はダス・アーバイテンに登録して以来、初めての経験だった。本当の理由は『寝坊したから』だ。前の就業先で縁あった営業さんがショートメッセージでコッソリ教えてくれた。
「9時ちょうどに山本さんが案内しますんで、それまでそこの席、座っててください。……そうそう。あとこれ」
主任が持ってきた分厚いクリアファイルを差し出した。ぱっと見綺麗だったが、よく見ると角が少しだけ丸くなったマニュアルだ。
「こちらが全体の流れなど必要なことが書かれたマニュアルです。今日はこれ読んでおいてもらえれば。電話は、鳴っても一次対応だけで大丈夫なので」
そう言って、主任は、業務マニュアルの5ページ目に書いてあるスクリプトを指差した。そこには、『お電話ありがとうございます。未来ビークル補助金事務センターでございます』と書いてあった。
大丈夫かどうかを決めるのは、主任ではない。9時から鳴り始める電話次第、ということだ。
美波は丁寧に会釈をしてから受け取ると、指定された席に腰を下ろした。
最初にスマートフォンの予定表を開く。11月30日の欄に、『初回契約満了』と入力した。次に、駅前のコンビニで買った紙カップのコーヒーの蓋を開けて一口飲む。その後、渡されたファイルの目次に目を通す。
本文より先に、どこに何が書いてあるかを頭に入れていく。中身はあとで探せばいい。
◆◆◆
8時50分。
「おはようございます。本日よりお世話になります、冴木です」
「主任から聞いたけど、早いですね。でも、まだロッカー手配とか何もできてないんで」
山本は、悪びれる様子もなくそう告げた。半年前からここにいる受付と庶務も兼ねたスタッフで、美波と同じ派遣元から来ているという。
「多分、来週には用意できると思います」
来週。
そもそも来週までここにいられる保証は、契約書のどこにも書いていない。ただ、来週までロッカーがないことは確定した。美波は無表情のまま、「かしこまりました。ありがとうございます」と言って、小さく頷いた。
「これ、名札兼入館カードです」
次に、ラミネートもされていない白い紙に「冴木」と印刷しただけの名札を手渡される。裏に入館カードらしき白いプラスチックのカードが重ねられ、100円ショップで見かける安っぽいストラップ付きのケースに収まっていた。
「ありがとうございます」
「じゃあ、案内しますね」
そのとき、9時を告げるチャイムと、いくつもの電話の着信音とが一斉にオフィスに響き渡った。
オフィスは特に広くも狭くもなかった。机も椅子もキャビネットも同じ灰色で、同じ型番のシールが貼られている。それぞれ4人の島が2つ、6人の島が2つ、座っているのは全員スーツ姿の男性だ。書類をめくる者も、キーボードを叩く者もいたが、皆、ヘッドセットをつけて電話対応しており、誰も美波のほうを見ない。
部屋の奥には、大きめの机が3つ並んでいた。「センター長」「次長」「審査部長」と書かれたプレートが、それぞれの机の端に置かれている。
「センター長、本日から入られた冴木さんです」
「冴木です。よろしくお願いいたします」
「ああ、どうも。もう電話鳴ってるから。ほらすぐ出て貰って。一次受けくらいできるでしょ?」
センター長の梶谷は、画面から一瞬だけ目を上げる素振りをしながら素っ気ない口調で一方的に告げた。美波を見ることはなかった。だが、マウスに重ねた右手は微動だにしなかった。ちらりと見える画面には、アイドルグループの壁紙と、新着メールのポップアップ。
山本に連れられ、隣の席へも挨拶をする。
「いやあ、よろしくお願いしますよ」
次長の石橋は、椅子ごとこちらに向き直った。美波の抱えたクリアファイルに目を留めると、笑った。
「分厚いでしょ、それ。どうせ誰も読んでないし、全部読まなくても大丈夫ですよ。はははは」
さらに隣の審査部長の席は空いていた。壁のホワイトボードの「木村」の欄に、「午前中会議」と書いてある。
「そうだ、次長。冴木さんのウェルカムランチ、やりましょうよ」
山本が言うと、石橋は大きく頷いた。
「いいですね。落ち着いたら、ぜひやりましょう」
「冴木さん、ここ、いつもバタバタしていますけど、落ち着いたら絶対ウェルカムランチしましょう」
「お気遣いありがとうございます」
美波は頭を下げた。石橋はもう、椅子を机のほうへ戻していた。
席は6人の島の端で、センター全体が見渡せる。背後は壁。壁沿いに出入口の扉へ歩いていく途中に会議室の扉があった。山本の席は、同じ島の対角線上。
「OJTは明日から、わたしが少しずつやりますね。今日はマニュアル読んでてください」
山本はそう言って、自分の席に戻った。
机には電話機が1台置いてあった。コールセンターでよく見るAVAYA製のものだが、この席の電話にヘッドセットはついていなかった。
フロアのあちこちで電話が鳴る音が聞こえ続ける。よく見ると、全部の席に電話があっても、欠勤者がいるのか、人は埋まっていなかった。
「はい、補助金事務センターです」
山本の声だった。
美波はマニュアルをめくりながら、聞こえてくる声に耳を傾ける。
業者からの進捗確認。
充電設備の工事業者からの書類の問い合わせ。
個人の申請者からの不備連絡への質問。
期限を過ぎた申請を「何とかならないか」と頼む電話。
制度の説明を求めているのか、怒りをぶつけたいだけなのか、判別のつかない電話。
声に混じって、着信音も次々と聞こえ続ける。
美波はマニュアルの裏表紙に、聞こえてくる会話から内容を種類ごとに正の字で付けていった。
進捗、不備、期限、型番。1時間弱の間だけで、進捗の欄だけが4つ目の正の字に入った。
隣の島にいる、ふっくらとした男は、3本に1本は「担当者に確認して折り返します」と言って受話器を置いていた。首から下げた名札には、田村とある。
10時を少し過ぎたころ、その田村が美波のほうを振り向いた。
「名前なんだっけ? あ、サエキね。冴木さん、これわかる? 型番が、カタログと保証書で違うって」
「私、初日なので……」
「あ、じゃあ、調べといてくれる?」
容赦なく言葉を被せてきた。それは、断るという選択肢を許さない明確な圧があった。
「かしこまりました。では、わかるかどうか、見てみます。保証書の型番に、末尾の記号がついているか、ということでしょうか」
「そうそう、そういうこと。わかってんじゃん。じゃ、あとお願い」
田村の顔に安堵が浮かんだ。次の瞬間、美波の電話機の赤いランプが点いた。転送されていた。
山本がギョッとした顔で美波を見てから田村の方へ振り返り、睨んでいた。
「冴木さんに回しときましたんで」
どこ吹く風とばかりに田村はそれだけ言うと、もう別の電話対応を始めていた。
「お電話代わりました。冴木と申します。ただいま資料を確認しておりますので、少々お待ちください」
「──お前らおっせーんだよ! おい! 役人ヅラでお高く止まってないで早く教えろのろま! こっちゃ客待たせてンだよっ!!」
電話の主は、九州の業者だった。声がかなり尖っている。美波はパソコンの電源を入れながら話を聞き、申請番号を聞き取って、PDF化された書類を画面に呼び出した。
朝、目次で見た「型式・型番の取扱い」は14ページにあった。開くと、末尾記号の読み替え条件が3行で書いてある。念のためマニュアルのPDF版で「末尾」を検索する。31ページのFAQにも同じ項目が出てきた。書いてあることが、14ページと少し違う。
美波は14ページのほうを採った。様式の改訂日が新しかったからだ。
「お待たせしました。末尾の記号は、色と内装の区分を示すものですので、型式としては同一の扱いになります。ご安心下さいませ。もし、それでもご心配とのことでしたら、車検証の写しを追加でご送付いただけますとより確実かと存じます」
ここで通話はガチャリという音と共に終わった。
「いやあ、ありがと」
田村がヘラヘラとした笑顔を浮かべて言った。
彼の向かいで、中肉中背の男が画面から目を離さずに話す。
「タムちゃん、初日から飛ばすねえ。ハケンちゃん、初日の洗礼だねぇ」
名札には前田とあった。
「ええー? だってここのOJTは『電話取りながら覚える』。座学だの研修なんて、ねぇじゃん」
「ここね、新人、1か月持たない人が多いんだよね」
「OJT、明日からの予定なんですけど……」
恨めしげに呟く山本の小さな声が、次の着信音にまぎれて消えた。
「一々そんなんやらないと覚えられない無能はイラネってことだろ? ほら冴木さんっ! 次、次!」
田村は小馬鹿にするような目で美波を見た。美波は、無表情のまま、次の電話を取った。
11時を回ったころ、田村がいる島の端から、穏やかな声が聞こえてきた。
「恐れ入ります。ですが、設置写真がこちらでは確認できておりませんので」
藤岡という名札をつけた若い男だった。痩せていて背が高く、仕立てのいいジャケットに身を包んでいる。まるで、ドラマに出てくる辣腕弁護士か数字に強そうな公認会計士を思わせる風貌だ。声を荒らげず、微塵も言い淀むことはない。
受話器から漏れる相手の声は、逆にどんどん大きくなっていた。送った、確かに送った、お前らが失くしたんだろ、と。
「申し訳ございません。ですが、当方にて確認できていないものを、『確認できた』と申し上げることはできかねます」
藤岡は同じ言葉を、同じ調子で繰り返した。相手の声がさらに上がる。ヘッドセット越しで、島違いでも聞こえるのだから、相当な大きさだ。
送ったと言う人間と、届いていないと言う記録。どちらかが間違っているとは限らない。届いた先が違う、紐付けがされていない、郵送だった場合は開封すらされていない。
そういったことは美波のこれまでの経験上、よくある話だった。
自分が受けた電話内容の記録などを終えたところで、美波は、藤岡が読み上げた申請番号を自分の画面で打ち込んだ。
不備あり。設置写真未着。
番号ではなく申請者の氏名で検索し直す。もう1件出てきた。別の受付番号で同じ申請者のものだった。
住所も電話番号も一致。そちらには写真が3枚、添付されている。
美波は引き出しから付箋を取り出すと、メモ書きをして立ち上がり、藤岡の机の端に貼った。
『写真、別番号で受付済。AA-0412』
藤岡は付箋を見て、ほんの一瞬だけ眉を上げた。それから、ヘッドセット越しに告げる。
「大変失礼いたしました。お送りいただいた写真ですが、別の受付番号で届いておりましたこと、確認できました。こちらで紐づけの手続きをいたします」
相手の声が、急にしぼんだ。藤岡の通話はそのまま無事に終わった。
ヘッドセットを外した藤岡の左手の薬指に、傷一つない指輪がはまっていた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ。氏名で検索し直しただけです。窓口が複数あるので、たまに番号が分かれます」
「そうでしたか」
美波は自分の席に戻った。電話が鳴っていた。
次の電話は、設備工事業者からだった。分電盤の改修費用は補助の対象に含まれるのか、と聞いてきた。
美波はマニュアルから検索していく。42ページの「例外対応」に行き着いた。そこには、「審査部長に確認」と1行だけ書いてあった。
「申し訳ございません。こちらは確認のうえ、折り返しご連絡いたします」
電話を切ると、美波は山本に声を掛けた。
「分電盤の改修って、対象になるんですか」
「あー、それ、部長に聞くやつです」
ホワイトボードの「午前中会議」は、まだ消えていなかった。
◆◆◆
12時。
フロアの半分が席を立ち、残りの半分は自席で弁当を広げている。
美波は深い息を漏らすと、机に突っ伏した。朝買ったコーヒーは、朝に開けた一口分しか減っていない。もうすっかり冷めていた。
一刻も早く、仕事に慣れなくては。タテマエ論はともかく、派遣社員なんて仕事ができなければ最悪、3日でクビが現実である。時給が安いと言ってみたところで、就業先は自分が受け取る額面の2倍近い金額を払っている。数時間で業務を把握し、仕事を回せる態勢になってナンボだ。
昼の時間帯は電話が減った。けれども、減るだけでゼロにはならない。
美波は顔を上げると、受話器の位置を手元に寄せてから、マニュアルを最初からめくり直した。
14ページと31ページ。読み替え条件の記載が食い違っている。42ページの「例外対応」は、「審査部長に確認」の一行で終わっている。
何を確認すればいいのかは、どこにも書いていない。
60ページ以降の様式は、去年の版のままだった。
美波は持ってきたノートを開き、愛用のフリクション4で、1行目に「改訂メモ」と書き込む。ページ番号と矛盾の中身、直すならどう直すか。
3行目まで書いたところで、電話が鳴った、取ってから、4分で切ると、4行目を書いていく。
5行目に「分電盤」と書き、その横に「未確認」と書いた。
このとき、美波の席の脇の通路を誰かが通りかかった。足音が、机の横で一瞬だけ止まり、また動き出す。
美波は顔を上げなかった。淡々と、6行目以降を書いた。
昼休み明け。
13時過ぎに自席へ戻ってきた木村を見つけると、美波は分電盤の件を聞いた。
「ああ、それー。前は対象にしてたんだよ。けど。今は案件ごとに見るから。資料回しといてくれる? こっちで折り返すから」
木村はそう言うと、話は終わりと言いたげに、机の一角に置かれた書類の束に手を伸ばした。
美波は「承知しました」とだけ言って席に戻ると、改訂メモの「未確認」の横に、「案件ごと(部長)」と書き足した。
午後も結局、電話はほとんど途切れなかった。田村から回ってくる電話は、3本に1本から、2本に1本になっていた。
「それ、冴木さんに回しといて」
ふと気づくと、ほかの島からも当たり前のように聞こえてくる。その言葉を口にする誰もが、今日が初日の人間に仕事を容赦なく回していることなど想像すらしていないのだろう。
美波は自分の中で割り切った。
デスクトップに表示されるPDFの検索窓には、打ち込んだ言葉の履歴が溜まっていた。
末尾、分電盤、付帯工事、期限、延長、写真、別番号、代行。
16時半を過ぎると、フロアの空気がようやく、少しだけ緩んだ。受付終了まで、30分を切った。
16時48分、前田の電話が鳴った。
「はい、補助金事務センターです。……え、あ」
前田の背筋が突然、伸びた。
「ソーリー、ジャスト・ア・モーメント、プリーズ」
保留ボタンを押して、前田は顔を上げた。
「部長、英語の客です。責任者を出せって」
木村が、書類をめくりかけた姿勢のまま止まった。何かに怯えるような目が、保留ランプの点滅する電話機に向いていた。今にも逃げ出しそうな雰囲気の姿が見える。
「誰か対応できないのか! 誰でもいいから出ろっ」
奥の席から、梶谷が怒鳴った。しかし、各々が各々の電話対応や後処理をしており、応える者は誰一人いなかった。
石橋が縋るような眼差しで主任を見ている。主任は受話器を耳に当てたまま、別の電話の相手に頭を下げていた。石橋は次に山本を見る。その山本は、当たり前のように美波を見た。
保留ランプは点滅を続けていた。誰も、それに手を伸ばさない。そして何より、今日が勤務初日、などと言える空気は完全に消えていた。
「回してください」
美波が言うと、前田は一拍おいてから、転送ボタンを押した。
美波の電話機の赤いランプが点いた。
受付終了まで、12分。
美波は受話器を取った。
「Thank you for holding. This is Saeki speaking.」
2010年からのハケンちゃんライフをエンタメにしての、供養です(笑)。
自分の実体験で、舞台はQ社、クソすぎる人間関係はV社、契約のゴタゴタと逃げ腰責任者はX社とZ社時代の受けた仕打ちがモデルです。
さすがにエンタメ全フリにしたので、センター名などは当然、全部フィクションです。
ただし、客からの罵倒描写はめちゃめちゃマイルドにしています! 実際は、今ならカスハラ訴訟迷わずGOレベルの、人格も尊厳も全否定レベル。
ところで。
お役所が、センターを「その道の運用代行兼人材派遣会社」にまかせて設立、そこの会社が別の派遣会社を通して人を集める……この仕組みだけは実話です(某T社とか、B社、AL社などは「人材派遣」と「センター運用」を全部グロスでやっておりますんで)。
ちなみにこれは二重派遣にはならないです。あくまで、「センターとして」募集になるので。
全4話+エピで完結します。続きをお楽しみに! ブックマークとかもお忘れなく★




