11月4日
■十一月四日
僕がご主人――夏見柚彦と初めて口を利いたのは、暗い暗い、閉ざされた空間でのことだった。
『お待たせしました、我が主』
ふわりと背中の羽根を羽ばたかせながら、僕は柚彦の前に跪く。
そう。例えるなら……西洋の騎士のように凛々しく、美しく、格好良く。
ぶっちゃけると、別にこんなポーズをとる必要はない。が、やはりこういうのは最初が肝心だ。僕は使える蟲ですよ、礼儀正しい蟲ですよ、と形だけでもアピールしておきたかったのだ。
「ここは……どこだ? さっきまで私は、秋丁字に襲われて……」
しかし残念なことに、せっかくの決めポーズを柚彦は見ていなかった。キョロキョロと、不安そうに辺りを見渡している。
『あ、ええと……。ご主人……柚彦サマ?』
「ああ? 誰だ、貴様」
視界に割り込むように立ち上がると、柚彦はようやく僕の存在に気付いたらしい。ムッと眉をひそめながら睨みつけてくる。
『えっと、初めまして。僕は名無しのオオミズアオです。ご主人に拾ってもらって、ここまで成長することができました。ありがとうございます』
「貴様は、あのオオミズアオなのか?」
『はい!』
「……なるほど。やはり自転車という媒体を介してでも蟲は成長するのだな。しかも、人型に変態した上に言語まで操るようになるとは……新たな発見だな……」
どうやら柚彦は、独り言が多い人らしい。しかめ面で難しそうなことをぶつぶつとつぶやいていた。
「で……ここは、どこだ?」
『結界の中です』
「……は?」
僕の説明に、柚彦はねめつく視線を送ってくる。
「結界とはなんだ? 私はさっきまで、秋丁字に追われていたはずだ。それが何故、こんなところに居る?」
『えーっとですねぇ……それは、僕が無理矢理引っ張り込んだからです』
柚彦を見つめ返しながら、僕は説明する。
『ここは誰にも入り込むことのできない秘密の場所なんです。これは、僕がサナギに変化する昆虫だからこその特殊能力で……だからここなら、秋丁字にも見つけられる心配はありません』
「それはすごいな」
柚彦はまた、感心したふうに僕を見やる。
「ならば、朝までずっとここに居ればいい……ということだな?」
『いえ、それは無理なんです』
期待を裏切るようで申し訳なかったけど、はっきりと言った。
『僕の力では、この結界を保っていられるのもあと少しの間だけです。それまでに、今後の対応を決めておきましょう。どうやったら秋丁字から逃げ切れるのかを……』
「しかし、これからの対応と言っても……」
僕の言葉に、柚彦は困ったふうに目を伏せる。
「私にはもう、打つ手がないのだ。秋丁字には狙われているし、罪を犯した負い目もあり助けを求めることもできない。全ては己の所業のせいだが、もう諦めるしか……」
『何を言ってるんです! 僕が居るじゃないですか!』
「……貴様が、か?」
威勢良く挙手した僕を、柚彦は不思議そうに見つめてくる。
『はい! 僕があなたを助けます!』
再度跪きながら、僕は柚彦の手を取る。もちろん、僕の体では本当に触れることは出来ないから、形だけ。
『あなたの願いなら、どんなことでも叶えて御覧にみせましょう。血も肉も、魂さえも、この身の全てをあなたに捧げます』
じっと、柚彦の顔を覗き込む。
間近で見て尚更実感した。柚彦は……本当に綺麗な顔をしている。
茶色い癖っ毛も、伏せると長く見えるまつ毛も、黒々とした大きな瞳も、小さな顔も。そして、ちょっと不健康そうな肌の色も。僕には全てが魅力的に見えた。
でも残念なことに、柚彦は、能面のようにまっさらな表情をしていた。
その氷みたいに強張った顔が、柔らかく微笑む瞬間が見てみたい。今は無理でも、いつかそんな表情を見せてくれるといい。
だから……その日まで、この人は僕が守ってみせる。
『さぁ、何なりとお命じ下さい』
催促するように言うと、柚彦はふっと鼻で笑った。
愚直な僕が写った黒い瞳が、ぐにゃりと歪む。
「ならば、今すぐ死ね」
『……はい?』
「聞こえなかったか? 死ねと言ったんだ」
状況をまったく理解できない僕に、柚彦は吐き捨てるようにつぶやく。
「どうせできないんだろう? だったら黙って――」
『いえ、承知しました』
ゆっくりと柚彦から手を離すと、僕は一瞬にして銀色の刃を編み上げた。
その刃先を、迷うことなく首元に当ててみる。実体がないはずなのに、ひやりとした金属の感触が気持ち良かった。
「おい……まさか、貴様……!」
ああ、柚彦が動揺してる。まさか実行するとは微塵も思ってなかったんだろう。
……僕は知っている。柚彦は、本当はとても優しい人なんだ。
今の非道な言葉も、この夢うつつのような世界で、初対面の怪しい化け物に変なことを言われたから茶化しただけだ。売り言葉に買い言葉ってやつだろう。
だから、こんなにも慌ててくれている。
『大丈夫です。ご安心ください』
……そして。
柚彦を宥めるように微笑むと、僕は躊躇することなく自身の首を切り落とした。
ごろごろごろん。
僕の頭は、椿の花のように呆気なく落ちて、転がった。
緑色帯びた白い髪が、花弁のようにふさりと床に広がる。
「き、貴様……なんてことを……」
『ご主人。言い忘れてましたが、僕は直接触れた者の思考を読み取る力があるのです。読心術が使えるのです』
転がった首のまま、僕はにこりと柚彦に微笑みかける。
「ひっ……!?」
『ご主人が本当に望んでいるのは、僕の死ではありませんね? 己の罪からも、秋丁字の魔の手からも逃げ出し、元の平和な生活に戻りたい。そう願っているのですね?』
先ほど読んだ柚彦の心の内。それを惜しげもなく披露しながら、僕は微かに頷いた。
『いいでしょう。その願い、僕が叶えます』
「そ、そんなこと……できるわけ……」
『できますよ』
ねぇご主人。言い忘れてましたが、ここは精神世界なのです。頭を切り落としたところで死ぬわけじゃありません。ここでの『首』とは、記憶の象徴なのです。
ご主人。僕は首を切り落としたことで、ご主人の犯した罪を全て忘れます。まっさらになることで、ご主人に不利益な情報を一切漏らさないようにします。その上で、僕と身体を交換してしまいましょう。
記憶を失っている僕がご主人の身体に入れば、この事件を追う者がやってきたところでご主人を追いつめることはできません。そして僕の身体に入っていれば、ご主人の魂は守られましょう。
ご主人。
ご主人。
ねぇ、ご主人。




