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愛人のいる夫から逃げ出したら、聖女と呼ばれ、真実の愛を知る  作者: 御仕舞
本編

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9/27

9 . 後悔先に立たず








 扉を開けると、通りの喧騒が一気に押し寄せた。

テセウス様は俯き加減で歩き続けている。

わたくしは老婆から頂いた袋を胸に抱きしめながら、無言のテセウス様の背中を追った。


 市場広場に差し掛かると、屋台から漂う焼き栗の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

思わず足を止めると、テセウス様が振り返り、眉をひそめる。



「なんだよ、そんなとこに立ってたら邪魔になるだろ」



 彼の声は苛立ちよりも戸惑いに満ちていた。

わたくしは、自由な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

埃っぽい空気も、人々の笑い声も、すべてが新鮮だった。

ユーリウス閣下の屋敷に閉じ込められていたわたくしの世界に、どれほど色がなかったかを思い知る。



「くそっ…!」



 広場を抜けると、テセウス様の足取りは急に遅くなった。

溜息を吐いたり、舌打ちをしたり、落ち着かない様子を不思議に思う。

それよりも、どこに向かっているのだろう。



「あの、どこに向かっているのですか?」



 わたくしの問いかけに、テセウス様は振り向きもしない。

周囲の喧騒が次第に遠ざかり、古びた建物がひしめく薄暗い路地に入っていく。

通りすがる人々の服装は擦り切れており、顔には疲れの色が濃く浮かんでいる。


 不意に足を止めた。

古びた三階建ての建物で、入口には薄汚れた赤い看板が掲げられている。

テセウス様がわたくしの手を強く握りしめた。

その掌は汗で濡れ、小刻みに震えていて、私は戸惑いながらも握り返した。



「…やっぱり無理だ」

「え?」

「帰るぞ」



 彼は踵を返し、混乱するわたくしの手を強引に引く。

しかし路地に戻ろうとした時、厚い扉が開いて、三人の男たちが現れた。

彼らは皆身なりが良く、袖口には刺繍が施されている。

分厚い唇に蛇のような狡猾さを滲ませた中年男が、テセウス様を見つけると愛想よく手を挙げた。



「おやおや誰かと思えば、昨日はとんだ無駄足を踏ませてくれたね」



 男は唇を歪ませた。

彼の視線はテセウス様の青痣だらけの顔を舐めるように眺め回し、喉の奥でククッと笑った。

テセウス様が固まる。

彼の喉仏が上下に動いた。



「…悪かった」



 男たちのうち一人、筋肉質な大柄な男が一歩前に出て、テセウス様の肩を鈍く叩いた。

その衝撃にテセウス様が呻いた。

男たちの目がわたくしの服に、髪に、そして顔に這うように移動していく。

値踏みする視線。

テセウス様に握りしめられていた手の強さが増す。



「まあ、約束の品だけは届いたのだから、罰金は倍額で許してあげましょう」

「こいつは関係ない」



 不意にテセウス様がわたくしの前に立ち塞がった。

男が嘲笑うように鼻で笑う。



「ほう?たった一日で情が移ったと」



 男たちはぞろぞろとわたくしたちを包囲するように近づいてくる。

テセウス様は歯を食いしばり、拳を固く握りしめる。

彼の肩越しに男たちがニヤつきながら迫ってくる。



「姉不孝の弟を持ったお姉さんが可哀想だ。あなたのお姉さんは今日も仕事ですよ?」



 テセウス様の顔から血の気が引く。

拳が白くなるほど握りしめている。

男はニヤリと笑い、分厚い唇が毒々しく歪む。



「病気持ちが、いつまで持つことやら」



 テセウス様の顔色が完全に白くなり、握りしめた拳が細かく震え始め、喉の奥から搾り出すような唸り声が漏れる。

だけれど、男達が近づこうとすると、



「こっちに来るな!」



 必死に大声を上げ、威嚇するように、大きな背中がわたくしの視界を遮り、男たちの下卑た視線から守ってくれた。



「姉貴には…姉貴にはもう負担はかけたくない」

「そうかい、なら」

「…代償なら俺が払う」



 一瞬の沈黙の後、男達は笑い声を上げた。



「払えないから君の姉上が働いているのにかい?バカな話だ。お前に何ができる?」

「前に断った話は有効か?有効ならその話を受ける。最初からこうしておけばよかった。誰かを犠牲にしたって姉貴が喜ぶわけもねえ。帰り道は送っていけそうにない。連れ出して、悪かったな」



 彼はそっとわたくしの手を離した。

温もりが急速に遠のき、まるで世界から切り離されたような孤独感が襲ってくる。

テセウス様は背を向けたまま、男たちの方へ歩み寄ろうとする。

わたくしは咄嗟にテセウス様の腕を掴んだ。



「あの、わたくしができる仕事だったら、わたくしがします」



 テセウス様は焦ったような顔をして首を振り、逃げろと言うが、逃げる気は微塵もなかった。

生まれて初めての経験をたくさんテセウス様には教えていただいた。

約束だってある。

だから、今度はわたくしが恩を返す番だ。



「テセウス様、約束したでしょう?わたくしのペンダントを預かるかわりに、働かせてくれると。わたくし、働きます」



 止めろ!と焦るテセウス様とは対照的に、中年男は目尻を下げて愉快そうに肩を揺らし、わたくし手を差し伸べた。



「へえ、無知な奥方様。それでは今宵から仕事を初めていただいてもいいかしら?」

「やめろ!!」



 その時、脇に控えていた巨漢が突然動き、テセウス様のお腹に拳を叩き込んだ。

崩れ落ち、呻く姿に、わたくしは心の底から湧き上がる衝動を感じる。



「…やめてください」



 蛇のような男が、即座に手を上げた。



「乱暴はやめてさしあげなさい。ここには貴婦人がおられるのだから」



 男たちが動きを止める。

テセウス様は地面に這いつくばり、喘いでいた。

二人の屈強な男がテセウス様の腕を乱暴に捻り上げる。



「行くな…!!」



 恐怖と後悔が渦巻くテセウス様と目を合わせ、小声で囁く。



「ご心配には及びません。全て上手くいきますから」



 駄目だ止めろと騒ぐテセウス様に乱暴をしないように、蛇のような男に釘を刺しつつ、微笑みを残し、わたくしは男に案内され、建物の中に足を踏み入れたのだった。











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