8 . 古着の店
テセウス様が案内してくれたのは、細い路地の奥にある薄暗い店だった。
入口の煤けた硝子戸には、歪んだ文字で【古着販売】と書かれている。
中に入ると、埃っぽい古着の山が天井近くまで積まれており、棚に掛けられたドレスはどれも擦り切れ、色褪せている。
店主の老婆はわたくしを見るなり、あからさまに鼻を鳴らした。
「どこかのお嬢様が珍しいねえ。こんなオンボロ店に来るなんて」
テセウス様は棚を漁りながら、苛立たしげに応じる。
「そこでちょっと待ってろ。お前に合う服を探してやる」
彼は山から適当に何枚かを取り出し、わたくしの身体に当てがっていく。
粗末な木綿のワンピース、擦り切れた麻のエプロン。
どれもわたくしが今まで触れたことのない質感だ。
わたくしはそっと陳列されたワンピースに手を触れた。
麻布の粗い手触り。
今まで着たことのあるドレスとは雲泥の差だ。
それでも、胸が熱くなる。
誰かと一緒に買い物をするなんて、生まれて初めてで、まるで普通の人のよう。
「これを試着してみろ」
テセウス様に促され、わたくしは試着室へ入った。
布を纏った途端、公爵夫人は消え去った。
鏡に映るのは、ただの街娘。
ぎこちなく袖を通し、カーテンを開けると、テセウス様が粗末なワンピースに身を包んだわたくしを上から下まで眺め、舌打ちした。
「…思ったより悪くねえな」
その言葉が、まるで褒め言葉のように心に染みてくる。
顔が自然とほころぶ。
わたくしはまた嬉しくて、うふふと笑ってしまう。
日に二度も笑うなんて!
わたくしの喜びが滲む声に、テセウス様は思わず視線を逸らした。
仄かに色づく彼の耳に、吸い寄せられるように視線を向けてしまう。
「貴族のくせに、こんなボロ切れで何がそんなに嬉しいんだよ」
憎まれ口を叩きながらも、彼の口元が僅かに緩んでいる。
優しい方だ。
老婆が咳払いをして、新聞を丸める音が店内に響いた。
「なるほどね、女には縁がないと思ってた坊やもでかくなったもんだ」
「おい!ちげえよクソババア!何か勘違いしてんだろ!」
「おやおや、否定することないじゃないか。アンタみたいな坊やが女の子を連れて来るなんて珍しいじゃない」
テセウス様の顔が見る見るうちに赤くなる。
「だから違う!こいつは、その、借金のかたで連れてきただけだ!」
彼はわたくしの方を指差して力説するが、その指先が震えていることに気づいてしまった。
「借金のかたぁ?」
老婆が眉を上げた。
わたくしは意味がわからず、テセウス様と老婆の顔を交互に見比べた。
「あの、借金とは一体……」
老婆がウィンクして小さな声で教えてくれる。
「坊やは恥ずかしがり屋なのさ。つまりね、この格好良い若者はアンタのことが好きで好きで堪らないってことだよ」
「てめぇ!意味わかんねえこと言ってんじゃねえ!」
彼が慌てて老婆の口を塞ごうとするのを、わたくしはキョトンと見つめた。
好き?彼がわたくしを?
テセウス様が真っ赤な顔で振り返り、わたくしを睨みつける。
「おい、違うからな!勘違いすんなよ!」
わたくしはふと微笑み、胸に手を当てた。
「分かりました。勘違い致しませんわ」
わたくしはユーリウス閣下と結婚しているのですもの。
勘違いするような関係になり得ない。
老婆が呆れたように嘆息した。
「全くもう、これだから恋愛初心者は面倒だねぇ」
「バカ言え!」
老婆はテセウス様をからかいながらも手は止めず、わたくしの着ていたドレスを手に取ると、深い皺に囲まれた目を見開いた。
「…これはどこで手に入れたんだい?」
ドレスを照明に透かし、生地の質感を確かめる老婆の手つきは妙に慎重だ。
指紋一つでもつけまいとするような緊張感が伝わってくる。
「それは、その」
「いや、いい。関わりたくないから言わないでおくれ。…本物の最高級シルク。しかもこんなに見事な仕立ては王宮御用達の職人が…」
老婆はわたくしのドレスを手に持ち上げ、角度を変えながら細部を凝視する。
その顔つきが次第に深刻になるのが分かった。
テセウス様が老婆の背後から声をかける。
「この辺りで売ったらまずいのか?」
「まずいどころか最悪さ。このシルクは特殊な蚕を使ってる。市場に出回ってる量産品じゃない。間違いなく高貴な人の持ち物だとバレるね」
わたくしは内心で不安が広がるのを感じた。
もし誰かに気づかれたら?
テセウス様がわたくしの肩を軽く叩いた。
彼の表情には少しの安堵が見えた。
「だったら燃やすか捨てちまおうぜ。こんな高級品、盗品と疑われるだけだろ」
老婆は皺だらけの手を擦り合わせながら、唸り声を上げ、考え込んでいる。
「少しでも衣服に関わる職をしている者なら、坊やの提案は発狂ものだよ。あんたらには分からんだろうが、国宝を処分するといってるようなもんさ」
老婆の視線がわたくしに留まる。
その老練な目が探るようにわたくしの顔を見つめていた。
「このドレスを一般の店で捌いたら、即刻追手がかかって牢屋行きだね」
老婆はゆっくりと椅子に腰を下ろし、カウンターの引き出しから古い羊皮紙の帳簿を取り出す。
テセウス様が焦りを隠せない声で抗議する。
「冗談じゃない!一刻も早く金に換えたいんだ!」
老婆は帳簿の頁をぱらりと捲りながら冷静に答える。
「そう簡単にはいかんさ。…それにしても坊や。このドレスにはとんでもない金だけじゃない。手間暇も掛けられている。そんなドレスの購入者がそのお嬢様なら、余計な世話だろうけど、老婆心で忠告するよ。身分が釣り合わないから、やめときな。そして、購入者が別にいるなら」
老婆は顔を青褪め、
「親だろうと誰だろうと、そのお嬢様に大層な思い入れがあるように見受けられる。高位の聖職者の手も入ってるよ。裏地に刻まれているのは守護の陣だ」
老婆の指摘に、テセウス様の顔が一瞬で強張った。
彼は反射的にわたくしのほうへ視線を走らせ、すぐに老婆を睨みつける。
「守護の陣だと? なんだそりゃ?」
「坊やは知らないだろうね。王族や貴族の子女が危険な場所に行くときに施す特別な保護の印さ。毒や刃物から身を守る効果があるんだが…」
老婆はそこで言葉を切り、厳しい目でドレスを見つめた。
「これは扱ったことのない陣だよ。緻密な意匠は、おそらく、さらなる危険に対する備えもあるだろうね」
わたくしは胸の奥が氷のように冷たくなるのを感じた。
おそらく、聖女信仰と関わりがあるのだろう。
あれだけ冷遇しておきながら、わたくしの血のみを崇拝するおぞましさに鳥肌が立つ。
「悪いが、うちじゃ取り扱えないね。その古着は無料でやるから今日のところは帰ってくんな」
老婆は重たいため息を吐き、カウンターの奥に引っ込むと古びた袋を引きずってきた。
「…この中に押し込めな。表に出したらあんたたち二人ともおしまいだよ」
袋を差し出す手は意外と優しいが、その目は冷え切っていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!このドレスは貴重なんだろ?金に換えられないって言うのかよ!」
「坊や、あんたまだ分かんないのかい。この布きれ一枚で百人の兵隊を雇えるくらいの価値があるんだよ。貴族様の私物が流通してるってバレたら、吊るされるさ」
老婆の言葉に、テセウス様は唇を噛み締め、顔を蒼白にさせて黙り込んだ。
わたくしはテセウス様の袖をそっと引いた。
「行きましょう。ここにいてはお婆さんにご迷惑をおかけしてしまいます」
「悪いね、お嬢様。坊やをよろしく頼んだよ」
口調は笑いを含んでいたが、その目には切実な懇願が宿っていた。
テセウス様を見つめる視線には、深い愛情が込められている。
わたくしが目を見てしっかり頷くと、老婆は満足げに微笑んだ。
「ありがとうよ。坊やは口は悪いけど根は優しい奴だ。大事にしてやっておくれ」




