10 . 仕事と使命
建物内部は華美に見えた。
しかし同時に香水が入り混じった澱んだ空気が鼻をさす。
一見豪華で派手なようだけど、どれにもどこかに綻びがあり、虚飾の塊なのは見て取れた。
男はわたくしをソファへ導くと、自分も対面に腰掛けた。
彼は脚を組み、不敵な笑みを浮かべる。
蛇のような目がわたくしの顔をじっくりと舐め回す。
「さて奥方様には身なりを整えていただかないといけませんね」
「その前に荷物を置かせていただける?」
「どうぞ、どこでも好きなところに」
わたくしはできるだけ高い棚の上の段に、ドレスの入った鞄を置いた。
不思議そうに見ている男に向かって、口を開く。
「テセウス様と姉君をこれからどうされるおつもりですの?」
「もちろん、お約束通り、解放させていただきますよ。私どもも二人の境遇には同情しておりましてね」
わたくしは彼らが無事かだけ確認したいだけなのに、男は聞いてもいない話を話し始めた。
「哀れな話でございますよ、お嬢様」
男はソファに深く沈み込み、ワインを注いだグラスを弄びながら語り始める。
その口調には嘲笑と憐れみが混在し、太い指がグラスの縁をゆっくりとなぞる。
「テセウスの生家は隣国では有名な貧乏貴族だったそうです。先祖代々受け継いだ荘園は手付かずで美しいままだが、収入は雀の涙。両親は古い因習に囚われ、領地を分割して売り払うなど以ての外と考えていました。困窮した末に、一家は娘と領地のどちらかを選択させられた。結果として…」
彼は肩をすくめた。
「領地を選んだというわけです。自らの決断で娘を売ったのですよ。あの男が王立学院の夏季休暇で戻ってきた時には半年も過ぎていたと。それから、出奔したテセウスが姉を買い上げるために、身を粉にして働いていた。ああなんて可哀想に。同情してしまいそうだ」
彼はグラスを持ち上げ、ワインを一口含むとゆっくりと喉を鳴らした。
滴り落ちた雫がシャツの襟に染みを作る。
わたくしはゆっくりと首を傾げた。
支配人の目が怪訝に歪む。
「だから何なのです?」
「何?」
支配人の嘲笑が途切れる。
わたくしはソファから滑り降りた。
「他人を哀れむよりも、自身を顧みたらどうかしら?わたくしにはあなたがたの方が哀れに思えるわ。繰り返された輪廻によって、擦り切れた魂の萎縮は深刻化しています。感情の鈍化や制御困難、共感力の欠如、記憶障害、易怒性。それらは貴方がたの罪によって、更に深刻化し、魂は擦り減ってしまうわ。そのままでは永遠に喪失されてしまう」
「…本当に何の話か理解しかねるのですが、貴方様が何を仰っしゃりたいのか」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべる男に、お返しにわたくしも昔話をする。
「この大陸最古の神話は当然ながらご存じでしょう?」
「…見事に会話が噛み合わないな」
「かつて大陸を覆った魔物の軍勢を祓った聖女アリアドネの話ですよ、ご存じないわけがないわ」
部屋がシンと静まり返る。
正気じゃないものを見るような視線を受け止め、見つめ返す。
「生憎あたしは他国の出でね、この国の者よりも信仰心は厚くないのですよ。神話は知ってますが、聖女様に懺悔し赦してもらおうなど考えたこともない」
男はワイングラスをテーブルに置いた。
グラスの中で、葡萄酒の赤い湖面が揺れる。
聖女アリアドネ。
かつてこの地を襲った未曾有の災厄に立ち向かった、絶望に沈んだ人類最後の希望。
魔物たちが大地を蹂躙し尽くしていた今は御伽噺の時代。
御伽噺によれば、アリアドネは神によって遣わされ、死に絶えた人類の前に突如現れた。
彼女は魔物とその頂点の魔人を、いくつかの奇跡によって打ち倒した。
《 汚濁を浄化する赤い泉 》
《 万物の闇を照らす光 》
彼女の物語は千をくだらないが、共通するのは彼女が奇跡の力を持って魔物を退けたということ。
彼女が掲げた杯から溢れた聖水が赤い泉を作り、魔物の大群が消失した。
今もそれは王国の外れにあり、巨大な『紅湖』と呼ばれている。
普段は透明なのに、夕陽に照らされると水面全体が鮮血のような深い紅色に染まるという。
わたくしはその湖を実際に見たことはないけれど、似たようなものなら知っている。
わたくしは、男の置いたワイングラスを手に取る。
グラス内部の液体が、振動を受けて揺れる。
揺れる。
揺れる。
溢れんばかりに揺れる。
「な、なんだ!?」
溢れた葡萄酒がわたくしの周囲に零れ落ちる。
グラスから滾々と溢れ続ける赤い水が止まる様子はない。
「聖女は信仰の象徴となりましたけれど、遠い神話の時代に魔人が消え失せたように、聖女の奇跡も消え失せました。
だけれど、人々は人類の希望として、心の支えとして、聖女の存在に未だに縋っているのです。
聖女がいなくなって、長い時代が過ぎたというのに。
だから、今期の聖女様に奇跡の力などないことを知りながらも、皆崇拝する先を探して、祀り上げている。
可哀想だわ」
現在の聖女であるリナリー様。
奇跡の力はなくても、彼女も随一の才媛であり尊敬すべき人物で、美貌と聡明さを持つ彼女は国内外問わず高い支持を集めている。
権力闘争と、政治的事情から選ばれたにしては、素晴らしい女性だ。
だけど、彼女では【救えない】。
葡萄酒は既に男の足を濡らしていた。
わたくしは自分の指の皮を歯で傷つけ、血を垂らす。
たったそれだけでいい。
リナリー様が唱える豊穣の祈りなどない。
少なくともわたくしに流れる血は豊穣や誰かの願いの叶え方などは教えてくれない。
教えてくれるのはただ一つ。
【 救済 】
血が触れ合う瞬間、赤い雫が触れた途端、水面はドクリと心臓の鼓動のように揺れた。
男の足元に広がった染みが蠢き始める。
まるで意思を持つかのように這い登るそれは彼の靴底から脛へと侵食していく。
「ひぃっ!何だこれは!?」
悲鳴とともに男はソファを蹴って後退しようとしたが、赤い液体は壁のごとく行く手を阻む。
鼻孔を焼く悪臭に、男は必死に顔を覆うが、すでに染みは膝下まで到達していた。
部屋の隅で、じっと様子を伺っていた男の部下たちも、騒ぎ始める。
わたくしはゆっくりとソファに座り込み、暴言を吐いたり、謝罪したり、泣きわめく男たちを見つめる。
水面がまた大きく膨れ上がる。
「大丈夫です。初めてのことは何でも怖いかもしれませんが、これは貴方たちにとっての救いなのです。あらゆる悪事と業と恨みに汚し、擦り切れてしまった魂を今一度母なる海にて浄化いたします」
テセウス様の仰ってたことは正しかった。
わたくしにもこの場所でできる仕事があったのだ。
蔓延る汚れを浄化し、救済する。
長い間忘れ去られた使命だった。
愛のために世界を美しいものにする。
聖女アリアドネも同じだったのかしら。
彼女には愛する騎士がいた。
二人は愛する王国を築き上げたという。
数多の国々を救済し併合し、大陸を統一したが、二人の死後、平穏は続かず、内戦による暗黒時代が到来するのだった。
それを死後も見守っていたアリアドネは、人類にはまだ救済が必要なのだと、子孫に自身の力を分け与えた。
わたくしは指をわずかに曲げる。
それだけで赤黒い水面から鋭い柱が幾本も突き上がり、逃げ惑う男たちを串刺しにする。
男達が苦悶しながら顔を上げた。
眼球は充血し、唇の端からは血の泡が噴き出している。
「た、助けて…」
「ええ、もちろん。誰が見放そうとも、わたくしが可哀想な貴方がたを救ってあげますわ。それがわたくしの仕事ですもの」
赤黒い染みはもはや室内全体を覆いつくし、絶叫も次第に弱まっていく。
わたくしは立ち上がり、指を鳴らすと赤黒い水面は一斉に波打った。
液体が男たちの全てを吸い込んでいく。
男たちの皮膚が内側から盛り上がり、骨格すら変形しながらも、穴という穴から液体が侵入し、やがて静寂が訪れる。
嵐の後に潮が引くように、全てを飲み込みながら、室内から男達は消え去っていた。




