11 . 逃亡
わたくしはソファに座り、中身の減っていないグラスを手に取る。
清浄になった葡萄酒を一気に呷る。
アルコールの成分だけは抜けてしまったようだった。
全てを元通りにはできない。
ソファから立ち上がったわたくしは、騒がしい扉へと向かう。
必死にわたくしの名前を呼びながら、扉を叩く音は、途中から聞こえていた。
だけれど、途中退出もできなくて、申し訳なかったわ。
「…スタルト!?アスタルト!!」
扉を開けると、血だらけの拳が宙を叩く。
髪を振り乱し、必死な形相の男がわたくしの姿を見て、泣き出しそうな安堵の表情を浮かべる。
「アスタルト…!」
「こんなところでどうされたのです?…ユーリウス閣下」
彼の銀糸の髪は乱れ、いつも上げている前髪は下ろされている。
その瞳は普段の冷徹さとは異なり、明らかな狼狽と恐れを湛えている。
普段との余りの違いにわたくしは驚いてしまった。
「アスタルト…!」
閣下は震えた身体で、わたくしを力強く抱きしめた。
ズルズルと足の力が抜けたのか、縋り付くように跪き、わたくしのお腹に顔を埋める。
高貴な閣下には、古着の生地がチクチクするのではないか、と一瞬どうでもいいことを考えてしまう。
…どうして。
わたくしは感傷に浸りかける自身に狼狽し、縋り付く閣下の肩を叩く。
嫌がる子どものように、閣下はピクリとも動かなかったが、わたくしが困り果てているのは分かっているのか、「すまない」と言った。
「閣下…どうしてここに?」
「君のドレスと、その髪飾りにも追跡魔法が刻まれている。それを追った」
「いえ、どうやってではなくて、どういう理由でという意味なのですが」
わたくしは動揺のあまり、頭に着けていたシンプルな銀の髪飾りを手で覆い隠す。
どうしても捨てられなかったのはドレスでも指輪でもない。
私の唯一の過去の希望であった。
「…私が君を心配するのはおかしいか」
おかしいですわ。
わたくしの声が小さく震える。
動揺している?
このわたくしが?
終わりきった夫婦生活で、居場所のない屋敷の中で、結婚した相手が他の女性と愛を育んでいて、諦めて、見切りをつけて、逃げ出したのに…。
それなのに、どうしてなのだろう。
顔を上げたユーリウス閣下の、前髪から覗く鉛色の瞳から目をそらすことができない。
7歳のあの夏の日を、泣き虫なあの子を思い出すから?
彼はもう、年月と記憶の中に擦り切れてしまったのに?
どうして、いつもわたくしの前に現れて、わたくしの気持ちを揺るがすの?
「君を失うと思った」
怖がりで、泣き虫で、体が弱くて、男の子たちに虐められて、わたくしたち母子が隠れ住んでいた小屋によく来てくれた。
病気の母は周囲の恨み言ばかり吐いていたけれど、あなたが来てくれた時だけは、普通の母親のように優しくしてくれたから、わたくしはあなたが大好きだった。
母は言った。
『愛が私たちを救ってくれる』
だから、ユーリウス、母にはあなたが必要だった。
あなたがわたくしを救ってくれると、母の心も救ってくれると信じていたから。
わたくしがあなたを愛した時、母の永年の夢を叶えることができる。
母が死に、わたくしは血の繋がっただけの他人に引き取られ、そこでもいないものとして扱われた。
それでも、結婚式の日、あなたと再会するまで、わたくしの世界は希望で満ちていた。
『必ず迎えに来る』
そう誓ったあなたが、わたくしの世界の中心だっから。
「…失う?」
声が掠れる。
失ったのはわたくしの方ではないのかしら。
あなたはただ、わたくしの存在を否定し続けた。
あの日、わたくしが望んだ『迎えに来る』は、このような形ではなかった。
「君が男と一緒にいると知った時、私の知らないところで君が失われると思ったんだ」
男とは、テセウス様のことだろうか。
わたくしは、そっと彼の手を外そうとしたが、彼は抵抗した。
「君が誰を愛したとしても、私は君を失いたくない。だから、一緒に逃げよう」
失墜した偶像が、美しさを失わない指が、わたくしの手首に絡みついている。
微かに震えているのは、どちらの手なのだろう。
ユーリウス閣下がわたくしを見つめる鉛色の瞳は潤み、普段は凛々しい眉はハの字に垂れ下がっている。
わたくしは彼の変わりように言葉を失う。
「…行こう」
「ですが、テセウス様が」
「その名を呼ぶな!」
低い悲鳴のような怒号が響き渡る。
わたくしはびくりと肩を震わせた。
ユーリウス閣下はわたくしから視線をそらさず、唇を噛みしめている。
瞳には恐怖の色が滲んでいた。
まるで、子どもが宝物を取り上げられそうになっているみたいな必死さに、わたくしは彼がどうしてこんな過剰反応をするのか、わからないことだらけだった。
「テセウス…。こんなことになったのは、そいつのせいか。だが、その名を呼ぶな。…私のためにも、これ以上呼ばないでほしい。それに、これは君のためでもある」
「わたくしの…?」
「詳しい話は後にしよう。時間がない」
わたくしは、あわてて戸棚にあった唯一の持ち物である鞄を持ち、手を引かれたまま裏口から建物を出ていく。
広い背中を見つめながら、店の中から聞こえる微かな嬌声に耳を澄ませた。
女達の声だけで、男達の声はしない。
彼らだけだったのだわ。
最初連れて行かれた部屋にいた男たちを相手に、わたくしは仕事をしてあげた。
だから、テセウス様は彼らに暴力を受けることはなくなったのだろう。
そうであればいい。
彼にはいろいろなことを教えてもらい、仕事までさせてもらったのだから。
お姉様と会えたかしら?
二人がどうなったのか気になったけれど、ユーリウス閣下の腕に抱き上げられ、繋がれていた馬に乗る頃には確かめようがなくなっていた。
馬車でもないの…?
護衛も連れず、ユーリウス閣下が単独行動している異常事態に、わたくしは呆然としてしまう。
馬の蹄が石畳を砕く轟音と共に景色が流れ去る。
何も考えられない頭で、とにかく鞍の上でユーリウス閣下に身を委ねる。
ユーリウス閣下は巧みな手綱さばきで、林の中へと飛び込んだ。
「ペンダントはどうしたんだ?君の母君が幼い頃から君の精神的主柱として教え込んできていただろ。なぜペンダントを取ったんだ?」
「取ったというか、取られたのですわ」
「…奴か」
「その『奴』が指しているのとは違う方だと思いますわ。侍女ですから女ですし、彼女と呼んでほうが良いのでは?」
「っくそ!…見誤った私の不足か」
歯軋りのような声で唸る。
ユーリウス閣下は慣れていらっしゃるでしょうが、わたくしは馬で走りながらの会話は不得意なので、会話を切り上げさせてもらう。
林の中のでこぼこ道を猛烈な勢いで駆け抜けていく。
「隣国との国境沿いにある私の別荘へ向かう。今夜は隣町で宿を借りる」
鞍の揺れが肋骨に響くたび、思わず悲鳴を飲み込む。
街道を外れた獣道は月明かりだけが頼りだった。
「大丈夫だ、何があっても私が絶対に君を守る」
驚いて顔を上げると、前方の暗闇がゆらりと動いた。
無数の紅い光が木々の間で瞬く。
「腐れ爺ども…!」
その瞬間、頭蓋の内側で熱が弾けた。
視界が朱に染まり、騎乗する馬の血管一本一本までもが赤い光となって浮かび上がる。
全身の血が逆流するような眩暈。
これは、一体…?
「見るな!」
閣下の怒号と共に、馬が悲鳴を上げる。
落馬寸前の衝撃に意識が朦朧とする中、彼の手は確かに震えていたが、その力は鋼のように硬く私を拘束している。
逃げようとしても抗えない。
それは恐怖ではなく、不可解な安堵を伴っていた。
「ユーリウス公爵閣下、馬鹿なことをしましたな」
憐れみと嘲笑を含んだ、知らない男の声を最後に意識は遠のいていった。




