6 . 選択を間違えていた
カーテンから漏れる薄明かりが瞼越しに差し込む。
今日も一日が始まってしまった。
重い身体を引き摺るようにしてベッドから降り、身支度を始める。
衣装を選ぶのも、髪を梳かすのも、すべて自分でやらなければならない。
明日にはユーリウス閣下が帰宅される。
だからといって、この停滞しきった憂鬱な日常が変化するなどと思えず、どうにも気が滅入ってしまう。
廊下を歩いていても、今朝は誰もわたくしに絡んでこないから、少し気分が浮上した。
閣下の不在期間は終わりに近づいている。
それを考えると憂鬱になってしまうのだから、結婚生活は完全に破綻していた。
静まり返った屋敷を歩くと、足音だけが高く響く。
昨日までの嘲笑や冷笑はどこかへ行ってしまったみたい。
空っぽの空間に不安だけが募る。
わたくしは、落ち込む気分を変えるために、庭へと向かった。
眩しいほどの日の光に目を細める。
わたくしだけ世界に置き去りにされたかのように感じるのは何時ものこと。
誰からも無視され、話さないから誰をも認識できない。
わたくしはずっとこうして孤独を謳歌するしかないのだろうか。
「…んなよ!…い!」
バラ園を進むたびに甘い香りが強くなる。
わたくしは無意識に薔薇の棘に触れそうになり、慌てて手を引いた。
触れようとすれば鋭利な刃がわたくしを拒む。
まるでこの家のよう。
美しい外見に対して、触れようとする者には容赦なく傷をつける。
「お、ま、えぇぇぇぇぇ!」
鬱々とした物思いを切り裂くような大声。
まるで夢から覚めたような騒がしさに辺りを見渡す。
汚れた作業着の男が近付いてくる。
険しい顔を認識できた頃には、その男が昨日のテセウス様だと気付いた。
誰かテセウス様に怒られるようなことをしたのかしら?
朝に感じた世界からの孤立感は、非日常の中に消え失せていた。
「お前だよ!奥様!キョトンとしてんな…アスタルト様っ!」
肩を叩かれ、息もできないくらい驚く。
触った!?
記憶にある限り、異性に触れられたのは初めてのことで、必要以上に驚いてしまう。
父親にすら触られたことがなく、それこそユーリウス閣下にだって。
同性に触られたことすら、覚えていないぐらい遠い過去なのに。
「テセウス様?どうなされたの?」
「どうされたのって…どうもされなかったから問題なんだろうが!なんで昨夜来なかった!待ってたんだぞ!」
「わたくしを待ってた…?」
わたくしを待つような人がいたのね。
感慨深い想いに駆られる。
木漏れ日が過去へと誘うように、わたくしは7歳のあの夏の日を…「物思いは後で浸れ!」
ぱちくりと目と口を思わず開ける。
こんなに他人と話すのが久しぶりだから、会話の速度についていけてないのかも。
テセウス様が、あー!と叫びながらゴワゴワの頭を両手でぐしゃぐしゃにかき回す。
白い埃がいくつかついていたから、それを落としたかったのかもしれない。
「お前のせいで見ろよ!ここほら!青痣だらけだろうが!」
ここもここも!
と、頬や顎や青痣のある辺りを指差して、わたくしは勢いに呑まれるまま、コクコクと頷く。
…なぜ、わたくしのせい?
「こことかひでえんだよ!」
おもむろにシャツをまくり上げようとするテセウス様に思わず、キャッ!と声を上げ、その手の上から抑えてしまう。
固くてゴツゴツしてる温かい塊。
反射的に手を触ってしまったけれど、人の体温の不思議さと少しの心地良さに、思考が止まる。
テセウス様は戸惑ったように、わたくしの手と自身の手を見つめている。
そして無意識なのか、片手を引き抜いて、不思議そうな顔でわたくしの手をじっと見つめながら、触り出す。
少しくすぐったくて戸惑ってしまう。
「あの…」
「うおっ!?」
大袈裟に飛び退く様子に、少し胸が痛む不思議。
首をかしげるわたくしに、テセウス様は胸を抑えて、浅い呼吸を繰り返す。
「あっぶねぇ…」
「そうですわね、それ以上後ろに下がると薔薇の棘が刺さってしまうところでしたわ」
「そうじゃなくて、お前のことを…いや何でもねえわ」
「何でもなくないですわ。それ以上怪我を増やすのはよくありません」
「…それは、お前が夜来なかったから」
「わたくしのお母様のペンダントのことですわね?」
「ああそうだ!約束破っただろ!このペンダントがどうなってもいいのかよ」
気を取り直すように首を振り、テセウス様が詰め寄る。
そして、ポケットからお母様の形見を取り出す。
わたくしの大事なペンダント。
中には亡くなった母の写真が入っている。
それはわたくしの精神安定剤だった。
母は口癖のように『あなたの愛を見つけなさい』と言っていた。
わたくしがどうしてと聞くと、笑って言ったのだ。
『どんなに辛い状況になっても愛があなたを守ってくれる』
だけどお母様。
何処にも無いものを探し続けるのは辛いものよ。
だからわたくしは今でも母の愛にすがりついた過去の亡霊なのだ。
そして、それでも確かに母はわたくしを守り続けた。
「わたくし昨日の夜考えましたの。わたくしが持っていても奪われてしまったのなら、いっそテセウス様に持って頂いた方がいいのかもしれない」
「そうか、それなら俺が…って、何言ってんの?何言ってんだよ!?」
「テセウス様に拾っていただいた。これは亡くなった母の遺志かも」
「どういう意思だよ、頭湧いてんのか。亡くなった母の形見だ?気持ち悪っ。呪われそうだし、俺はごめんだね。だったらさっさと売らしてもらうわ」
「二束三文にもならないので、捨てられかけたのですけれど…。ですがかわりに、わたくしができそうなことでしたら、なんでもさせていただきますわ。ユーリウス閣下のものなので、わたくしが使用できる金銭の範囲は限られてますけど」
「今なんでもって言ったな?」
声のトーンが変わり、目が獲物を狙う獣のように光っている。
想像以上に食い気味な様子に戸惑いながら私が頷くと、テセウス様はニヤリと笑った。
「じゃあ、このペンダントは俺が預かっておく。その代わりに働くってのはどうだ?お前みたいな箱入り貴族様でもできる仕事があるんだぜ」
「こんなわたくしでもできることがあるだなんて!わたくし、やりますわ。何をすればよろしいでしょうか?」
テセウス様、顔が悪人面してますけど、優しい方なんですね。
下卑た笑顔も、角度を変えれば、親切に見えなくもないかも?
わたくしが生きてきた中で、誰かに期待されたことなんてなかった。
病気がちなお母様は起きている時間が少なかったし、他の人たちはわたくしのことを嫌っている。
テセウス様は、なんて親切な方なんでしょう。
「そうなりゃ、その服じゃ目立つな」
彼はシャツ上に羽織っていた作業着だろう、皺だらけの布切れを取り出す。
「これを羽織れ。目立たないように」
彼が差し出した灰色の服は、わたくしには大きすぎた。
袖を通そうとしても、手が出てこない。
テセウス様は、そんなわたくしを横目で見ながら小さく舌打ちした。
「ったく…」と呟きながらも、わたくしの手から服を取り上げると、襟元をつかんで勢いよく引っ張り上げてくれた。
首元がしまって息が詰まる。
「これでマシだろ」
彼の口調はぶっきらぼうだが、その手つきは優しい。
ふと、彼の爪に固まった茶色い汚れが目に入った。
これは紛れもなく労働の痕だ。
わたくしはその指を見つめながら、胸の奥が暖かくなっていくのを感じた。
誰かに手間をかけてもらったのは、生まれて初めてかもしれない。




