3 . 冷え切った夫婦
庭園の片隅で、わたくしは紅茶を一滴も飲めないまま立ち尽くしていた。
遠巻きに見える人々の輪の中に、公爵とマルゴット様の姿があった。
金色の髪を煌めかせ、明るい笑顔を絶やさぬ彼女の周りには、常に人々が集まり賑やかだった。
対照的にわたくしの周りには、誰ひとり近づこうとしない。
まるで見えない境界線でも引かれているかのようだ。
胸が締め付けられる痛みに耐えながら、そろそろ退出しようと決めた。
踵を返す瞬間、肩越しに視線を感じて振り返ると、公爵と目が合った。
彼の鉛色の瞳には苛立ちと軽蔑が入り混じって映った気がした。
薔薇園の隅に、石造りのベンチを見つけた。
そこだけ人が通らないようで、一人になれる場所だった。
負け犬のように逃げ出したことで胸は痛んだが、腰を掛けると自然と肩の力が抜けた。
「ユーリウス閣下…」
つぶやきながら、茶会の情景を思い出す。
マルゴット様とユーリウス閣下を中心に、談笑が絶え間なく続いていた。
わたくしの存在なんて、初めからないみたい。
なら、何故わたくしを連れてきたの?
見世物にするため?いいえ、わたくしのことなんて誰も見ていない。
わたくしに立場を分からせるため?それならずっと前に愛されないということは分かっている。
静寂に浸っていたのも束の間だった。
人の気配がして、反射的に振り返る。
そこに佇んでいたのは、今回の茶会の主催者である聖女リナリー様だった。
雪のように透き通る肌に、長い睫毛、そして夜空を思わせる深い青紫色の瞳。
彼女が身に纏う純白のドレスは、聖女という名にふさわしい神々しさを放っていた。
王太子殿下の婚約者にして、この国の至宝と称えられる女性。
その聡明さは国内外に轟き、美貌は万人を魅了する。
まさに才色兼備の化身が、わたくしの目の前にいる。
わたくしが呆然と見つめる中、リナリー様は静かに歩み寄り、わたくしの隣のベンチに腰を下ろした。
その仕草一つひとつが洗練されており、優雅だった。
「少しお邪魔してもよろしい?」
「リナリー様この度は」
「堅苦しい挨拶はなし。それより、私あなたと話がしたくてきたの」
「わたくしに、ですか?」
「ええ、あなたとユーリウスとマルゴットのややこしい関係について、ね」
リナリー様は目を細め、まるで傷ついた小鳥を観察するようにわたくしを見つめた。
その瞳に映るのは哀れみだろうか。
「あなたとユーリウスが政略的に結婚させられたことは知っているわ。でも、血の繋がりのため、お金のためだけの結婚は良くないと思わない?愛情のない結婚ほど虚しいものはないわ」
彼女の言葉は棘を含まず、むしろ慈愛に満ちた諭しのように響いた。
でも、無知な子どもに諭されているような、どこか空虚で実を伴っていない。
それは彼女が誰からも愛され、幸せに過ごしているように見えるからだろうか。
不貞腐れている子供のような自分の考えに苦笑してしまう。
「リナリー様のおっしゃる通りですが…」
「ユーリウスとマルゴットは愛し合っているの。マルゴットは身分差とあなたと同じ政略的な理由で、若い頃に好きでもない殿方と結婚しなければならなかったわ。でもマルゴットは幼い頃からユーリウスを想い続けていたの。金だけは持っていた年寄りの前夫が亡くなって、ようやくマルゴットは解放された。だから、私はマルゴットにも言ったわ。心のままに生きなさいと」
リナリー様の言葉ははっきりと快活でありながら、友人として、マルゴット様の幸せを切実に願っているのを感じられた。
だからこそ、わたくしに対して思うところはあるのだろうに、口調は憐れみと優しさが籠もっている。
「マルゴットはユーリウスに想いを告げたわ。そしたら、ユーリウスもマルゴットのことをずっと好きだったみたい。だからあなたとも白い結婚を貫くと誓っていて…当然でしょう? あなたとは形ばかりの契約関係であって、男女の情など存在しないのだから」
ユーリウス閣下はマルゴット様を好き。
陰口のように噂されるのも、直接言われるのも、案外どちらも傷つくものね。
諦観のうちにしまい込まれた心のかさぶたを剥がされるような痛み。
それを感じられなくなる時が来ればいいのに。
「貴方も政略結婚の被害者なのは理解しているつもりよ。だから、あなたさえ良ければ、男性を紹介するわ。再婚したくないなら、修道院という選択肢もあるし」
「ですが、わたくしは」
「家族のために自分を犠牲にするのが正しいと思っているの? それは違う」
彼女の手がそっとわたくしの肩に触れようとした瞬間、
「そこで何をしている?」
背筋に電流が走る。
リナリー様は落ち着き払った表情で立ち上がり、
「あら、ユーリウス。今あなたの奥方とお話してたのよ。私たち少し仲良くなったの」
背後から迫るその気配は、冷たく荒々しい。
振り返る勇気など湧かず、わたくしの身体は強張った。
リナリー様は落ち着き払った仕草で立ち上がると、優雅に裾を整えながらユーリウス閣下に向き直った。
その紫紺の瞳には一点の曇りもない。
ユーリウス閣下は険しい表情で彼女を睨みつけ、その後でわたくしの方へ視線を移した。
鉛色の瞳が射抜くように見つめ、喉の奥が締め付けられる。
「なぜこのような場所で、しかも二人きりでお話されているのか、説明いただきたい」
彼の声には抑えきれぬ怒りが滲んでいた。
やはり、わたくし如きがリナリー様とお話するのは良くなかったのだわ。
ビクつくわたくしを尻目に、リナリー様は微笑みを崩さないまま、扇子を広げた。
「たまたま奥方が一人で悩んでいるように見えたから、ちょっとした助言をしただけよ。もう、心配性ね」
「主催者が抜け出すなど、勝手な行動は慎んでいただきたいものです、リナリー様」
「はいはいわかりましたわ。本当にユーリウスはお硬いんだから。では失礼しますわ」
彼女は恭しく一礼すると、ユーリウス閣下の脇を悠然と通り過ぎていった。
残されたわたくしたちの間に、重く張り詰めた沈黙が落ちる。
「何の話をしていた」
低く冷たい声だった。
茶会であれだけ優雅に振る舞っていた男が、今の表情には苛立ちしかない。
わたくしは言葉もなく俯いた。
どう話せばいいかわからなかった。
「申し訳…」
言い終わらないうちに、彼の鋭い視線が飛んできた。
謝罪の言葉すら遮られる。
「エルンスト公爵家の嫁が、茶会を中途半端に切り上げるなど言語道断だ。これは家門の恥となる行為だ」
愛人を連れてきているあなた以上の恥はありません、と反論しようとしたが、それ以上の恐怖が口を閉ざさせた。
「次回からは出席する前に必ず侍医を呼び、病状を診察させろ。そうすれば私も納得するだろう」
皮肉めいた言い方に、嘲笑を感じ取った。
結局のところ、わたくしが茶会に出ないためにはありもしない病状を作るしかない。
わたくしが病弱だという設定は、彼にとって便利な理由付けにすぎない。
「もう屋敷へ戻れ。帰りの馬車は別に、私が手配する」
あきれたように溜息を吐き捨て、夫は踵を返し、足早に戻っていった。
残されたわたくしは、ただベンチに座り続けるしかなかった。
再び訪れた静けさは、先ほどよりもずっと重苦しかった。
屋敷に帰り着くと、いつも通り使用人たちは最低限の動きしかしなかった。
玄関ホールでコートを脱ぐのも自分で行わなければならない。
執事のオットーが短く用件だけを告げる日々は変わらない。
夕食時に食堂へ赴くと、公爵の姿はすでにあった。
茶会は無事に終わったのだろう。
わたくしが行く必要があったのかもわからない。
長いダイニングテーブルを隔てて向かい合う私たちの距離は、物理的以上に大きく感じられた。
重い沈黙が流れる。
わたくしが最後の一口を口に運び終えたとき、公爵はついに言った。
「明日から三日間留守にする。領地の視察に出る必要がある」
驚いて顔を上げると、彼は無感情に続けた。
「貴婦人は付き添わずともよい」
食事を終えると早々に自室へ戻った。
扉を閉めると同時に、張り詰めていたものが緩み、床に崩れ落ちそうになった。
壁に寄りかかり、額を押さえる。
明日以降、公爵の不在時はより厳しくなるだろう。
使用人たちの態度はさらに悪化し、孤立感は増すに違いない。
それでも耐えなければならない。
そう己に言い聞かせるしかない。
それに、と心の中で醜い私が囁く。
果たして本当に視察なのかしら。
その視察とやらにはマルゴット様がいるのではなくて?
ベッドサイドに置いてあった母の形見のロケットペンダントを開く。
中の写真は若いころの母だ。
『愛があれば必ず幸せになれる』と言われた幼い日の記憶が蘇る。
では、お母様、愛してもらえないわたくしは幸せになれないの?
翌朝早く、ユーリウス閣下とオットーは従者たちを引き連れて旅立っていった。
最近魔物の襲撃にあった村を視察するのだと他人の会話から、視察の目的を知る。
昨日のユーリウス閣下の皮肉も頷けた。
ユーリウス閣下はわたくしの生家の血を当てにしていたらしいから。
御伽噺を未だに信じていたなんて、賢い公爵様にしてはおかしなことだけど、この家の人たちは文字通り、信仰していたのだ。
大昔聖女が降嫁したこともあるわたくしの生家、いえ、聖女を。
だからこそ、没落しかけた生家の借金を肩代わりし、会ったこともないわたくしを娶った。
愛のない白い結婚なのも、処女信仰の思想に繋がるのかもしれない。
この世界は魔物の脅威に常に晒されている。
聖女によって数を減らした現在でも、魔物は人類の脅威だ。
だから、藁にも縋りたかったんだろう。
生家にも、わたくしにもそんな力などないから、没落しかけていたという事実に目を向けずに。
わたくしが寝不足で目を腫らしながら見送りに出た際も、公爵はこちらへ一瞥もくれずに馬車に乗ってしまう。
馬蹄の音が遠ざかるのを確認してから、重いため息と共に体を折り曲げてしまった。
これがわたくしの日常であり、これからも永遠に繰り返されていくものなのだろう。
そう諦念めいた気持ちに囚われた。




