2 . 名目上の妻
目覚めはいつだって、ぼんやりとどこか気怠げだ。
鏡の前に立ったわたくしは、昨夜から考えていたドレスを選んだ。
控えめな緑色の生地に、レースの襟がついているだけの簡素なもの。
装身具は例の銀細工だけを髪に飾った。
派手すぎれば批判され、質素すぎれば不相応と言われる。
それでも白いレースのショールを羽織れば、わたくしの好きな春の花のスノーフレークを思い起こさせるだろうか。
廊下に出ると、既にオットーが待機していた。
「お支度は整いましたか?」
抑揚のない声はいつも同じで、彼は一切の感情を見せずに続ける。
「旦那さまより、馬車の用意を命じられております」
彼自身も同行するということ?
夫婦だけれど、わたくしたちにとっては珍しいことだった。
今日は何か特別な集まりなのかもしれないけど、どういう事情ですら、わたくしには教えてくれる人はいない。
玄関ホールへ向かう途中、階段の踊り場から漏れる若いメイドたちの甲高い笑い声。
「見てよ、あの飾り花夫人」
「まあ、可哀想に。今日もご苦労さまですわね」
既に自分で選んだドレスを着替えてしまいたい気持ちになる。
憂鬱な面持ちで馬車に乗り込むと、既に先客が乗っていた。
わたくしが乗り込んでも、先客は新聞を捲る姿勢で微動だにしない。
ユーリウス閣下の側に控えた御者が恭しく敬礼する。
「お早いですね」
何かしら声をかけなくては、と焦って出た声はかすれていた。
最後に言葉を交わした日さえ思い出せない。
ユーリウスはゆっくりと視線を持ち上げる。
そこには凍てつく冬の湖が湛える静謐さがある。
白銀の髪を後ろに撫でつけ、どんな感情も封印した瞳は鉛色に濁っており、他者など映してはいない。
「…君は遅かったな」
低く響く声が馬車内の空気を震わせる。
わたくしは身を縮こませ、恐縮しながら席に着く。
すぐ目の前に座るユーリウス閣下との距離が痛いほど近い。
彼が放つ無言の圧力に押しつぶされそうで、視線を床に固定してしまう。
沈黙の時間が流れ、蹄の音だけが規則正しく耳に届く。
やがてユーリウス閣下が低い唸り声と共に咳払いをした。
「今日の茶会」
突然の発言にハッと顔を上げた。
「聖女のリナリー様が主宰者の一人である。君と対面させるつもりはないが、我が家の名誉に関することゆえ、失態を犯すな」
淡々と言い残すと再び視線を新聞に戻す。
白銀の髪が燦然と煌めく月光のように、何の温もりも灯らない氷の彫像。
わたくしは自身の金色の巻き毛を手持ち無沙汰に触ってしまう。
5歳の年齢差なのに、わたくしの幼く見える容貌と、閣下の大人びた容姿から、実年齢以上の開きがあるように見え、どこか見る人にちぐはぐな印象を持たせているだろう。
「それと、マルゴットも来る」
はっと俯いてしまっていた視線を閣下に戻す。
全身が締め付けられる思いがした。
わたくしの苦しみなどおかまいなしに、閣下はそれだけ告げると口を閉ざした。
「承知しました…」
だけれど、どこか納得できないところもあって、わたくしはつい、踏み込んでしまう。
「…マルゴット様が来るなら、一体どういう理由で本日の茶会に私も」
「君がマルゴットを名前で呼ぶな、汚らわしい。マルゴットは絶対に君には会わせないから、君が考える必要もない」
バッサリと切り捨てる閣下に、到着まで再び口を開けることはできなかった。
どこまでも無情で完璧なまでに自己完結していた閣下に、これ以上何を聞けただろう。
目的地に到着し、門を潜れば、庭園は花々で埋め尽くされ、人々の楽しげな喧騒が響いていた。
だけれど、わたくしの周りには透明な壁が存在しているように、誰一人として視線を合わせてこない。
案内されたテーブルでは、すでに数十名の貴婦人たちが談笑していた。
わたくしが進み出て挨拶すれば、「あら、いらっしゃったのね」といった驚愕混じりの声がいくつか上がっただけで、会話は中断されることなく続行された。
夫は早々にどこかへと私を置いて行ってしまい、わたくしは一番端の席に腰掛け、紅茶カップを両手で包むように持った。
ティーカップを持つ手が小刻みに揺れる。
紅茶の香りも舌に感じる暇もなく、無理矢理飲下していく。
挨拶を交わすべき相手を探したが、誰も私に興味を持っていないようだった。
目が合えばすぐに逸らされる。
時には明らかに話題を変えられる気配すら感じた。
かつて社交界で多少の交流があった相手さえ、今はわたくしを見るなり困ったような笑みを浮かべるだけだ。
彼らには、わたくしという存在をどう処理すればよいか分からないのだろう。
ここでもお飾り扱いされるみたい。
わたくしは庭を眺めるふりをしてやり過ごそうとした。
薔薇が咲き乱れているが、この場所の主役たちはもっと華やかだ。
しばらくすると、ざわめきとともに人々が道を開ける気配がした。
振り返ると、ユーリウス閣下と肩を並べて歩く金髪の貴婦人の姿があった。
艶やかな真紅のドレスが眩しく、明るく澄んだ笑い声が響く。
対する夫は穏やかな表情を浮かべており、わたくしへの接し方とは全く異なっていた。
二人は中央の特別席に着き、談笑を始めた。
他の招待客たちはそこを中心にして円を描くように集まっていく。
マルゴット様の明るい笑声が波紋のように広がり、周囲の夫人たちもそれに合わせて微笑む。
あちらが本当の公爵夫妻みたいだわ。
わたくしの方は、まるで風景の一部のように無視されている。
もう慣れたことだった。
名目上でも妻を蔑ろにしていたら、わたくし以外の女性であれば、同情されたかもしれないのに。
時間が経つにつれ、喉の渇きを感じてきた。
けれど誰かにお代わりを頼む勇気もない。
そうこうしているうちに、ふとテーブルの上に置かれた空っぽのティーカップが目に入った。
それがわたくしのものだと気づくのに少し時間がかかった。
いつの間にか飲み干してしまっていたのだろうか。
慌てて給仕を探すが、皆忙しそうに行き交っていて声をかけることができない。
そのまま手持ち無沙汰になって膝の上で拳を握りしめた。
その時、突然背後から冷たい視線を感じた。
恐る恐る振り返ると、夫と目が合った。
離れた席に座りながら、こちらを見据えていたのだ。
苛立ちとも憐れみともつかぬ複雑な表情だったが、長くは続かなかった。
彼はすぐに視線を逸らし、隣のマルゴット様との会話を再開した。
わたくしは深く息を吐き出した。
こんな些細なことでさえ、恥ずかしい思いをする。
次第に自分がここにいてはいけないものだと強く感じるようになった。
空気が重く、息苦しくなってくる。
この空間全体が敵意を持っているように思えた。
涙が出そうになるのを必死で堪えた。
ここで泣けばますます惨めになるだけだ。
ぎゅっと唇を噛み、俯いた。
ただ時間が過ぎるのを待つのみだった。
わたくしの心中はすでに疲労の極みに達していた。




