0 . 前世・3
これで、お話は終わり。
わたくしはユーリウスと、幸せに暮らしました。
「あの魔人を殺せ。そうすれば、この男は助けてやる」
街の広場に引きずり出されたテセウスは、すでに満足に立つこともできないほど痛めつけられていた。
顔は腫れ上がり、口元からは血が滴っている。
それでも彼はわたくしを見ると、歪んだ笑みを浮かべてみせた。
「…聞くなよ、アスタルト…」
「黙れ!」
街人の一人が彼の腹を蹴り上げる。
テセウスが苦痛にうめき声をあげ、その場に崩れ落ちる。
「やめて!お願い、やめて!」
わたくしは叫んだ。
手は縄で縛られ、力も封じられている。
これではテセウスを助けることも、自分自身を守ることもできない。
「ユーリウスは、ユーリウスは何も悪いことなんてしていない!彼はただ静かに暮らしていただけなのに!」
「魔物どもを従えている時点で十分に脅威だ。魔物が人間を何人殺したと思っている!?」
「それはあなたたち人間が、魔物の住処を荒らし、奪い、殺したからじゃない!」
「知能のない魔物から、土地を解放することの何が悪だというのだ!お前が奴を殺さないと言うなら、この男の命はない!」
テセウスが地面に組み伏せられ、その首筋に刃が当てられる。
彼は抵抗する力もなく、ただわたくしを見つめていた。
腫れ上がった顔、切れた唇。それでも彼の目は不思議なくらい穏やかだった。
自分の命よりも、わたくしを心配している、そのまっすぐな眼差しが、わたくしの胸を深くえぐった。
「待って…考えたいの…」
「そうか、なら期限を決める。明日の朝日が昇るまでに決断しろ。お前が魔人の首を取るか、それともこの男の首が落ちるかだ」
広場のざわめきが遠ざかる。
わたくしは衛兵に引きずられるようにして、倉庫のような場所に閉じ込められた。
わたくしは冷たい石の床に座り込み膝を抱えた。
涙が止めどなく溢れ、頬を伝って床に落ちる。
ユーリウスを殺す。
そんなことできるわけがない。
彼はわたくしにとって唯一の家族で、この世界でたった一人の半身なのだ。
愛しているのだ。
でも、テセウスを見殺しにするの?
彼はわたくしの世界を広げてくれた大切な人だ。
魔物の森しか知らなかったわたくしに、人間の街の美しさを教えてくれた。
焼き菓子の甘さも、噴水のきらめきも、すべて彼が教えてくれたものだ。
彼が苦しむ姿を見るのは耐え難い。
どうすればいいのか分からず、暗い倉庫の中で膝を抱えて震えるわたくしの耳に、かすかな物音が届いた。
顔を上げると、錆びついた小さな窓の向こうに、ユーリウスが立っていた。
どうやってここを見つけたのだろう。
街中には衛兵が溢れ、広場にはまだ人々が残っているはずなのに。
でも、ここにいては彼の身も危なくなる。
「ユーリウス、逃げて…!」
わたくしは窓に駆け寄り、声を潛めて叫んだ。
彼は静かな瞳でわたくしを見下ろし、その表情は驚くほど穏やかだった。
彼は静かに首を振る。
「君を置いていけない」
その声には強い意志が込められていた。
いつもの彼らしい優しさと不器用な頑固さがにじんでいる。
わたくしの胸がぎゅっと締め付けられた。
「私を殺せ」
「…え?」
「私を殺せばいいと言っている」
彼は静かに繰り返した。
まるで今日の夕食の献立を決めるかのような、あまりにも穏やかな口調で。
「…な、にを言ってるの?」
「魔人である俺たちは、記憶を保ったまま輪廻を繰り返す。だから、もし俺が殺されても必ずまたお前に会いに行く。記憶も、お前への想いも何も失わずにな」
彼の声は限りなく優しかった。
「だが、テセウスは違う」
「…どういうこと?」
「人間も輪廻はする。だが、それは不完全なものだ。魂が摩耗し記憶は欠落する。奴らが何度も生まれ変わるうちに、少しずつ何かが失われていくんだ」
「もしテセウスを殺したら…次に生まれ変わった彼は、もう元のテセウスではないということ?」
「そうだ。記憶も、人格も、お前との思い出もすべて失われる。それはつまり、テセウスという存在が完全に消滅するということだ」
彼は淡々と事実を紡ぎ、その目には一片の迷いもなかった。
ユーリウスはいつだってわたくしの痛みを理解し、わたくしの苦しみを引き受けようとしてくれる。
だけど今回はあまりにも代償が大きすぎる。
彼はわたくしの涙で濡れた頬に、そっと手を伸ばし、窓越しに指先でぬぐう仕草をした。
実際には届かないその温もりを、わたくしは確かに感じた。
「嫌!そんなの嫌!」
わたくしは叫んだ。
声が震え、涙が零れ落ちる。
窓枠にすがりつく手が力なく震えた。
「たとえ生まれ変われるとしても、あなたが苦しむのも、死ぬのも嫌!」
ユーリウスは少し驚いたように目を見開き、それからふっと笑った。
「…そうか。そう言われると、俺もなかなか捨てたものじゃないな」
「な、何を…」
そう言って、ユーリウスは自ら持ってきた短剣を鞘から抜いた。
月明かりを反射して、刃が光る。
わたくしが叫ぶより早く、彼は短剣を自らの胸に突き立てた。
「ユーリウス!」
彼の体がゆっくりと傾き、それでも彼は最後までわたくしを見つめていた。
口元には微かな笑みさえ浮かべて。
「…泣くな、アスタルト…必ず、また…」
わたくしは窓枠にすがりつき、窓越しに見えなくなったユーリウスを探す。
手が千切れそうになるほど強く握りしめながら、ただ叫び続けた。
喉が裂け声が枯れ果てても、涙も声も止まらなかった。
「いや…いやああああああっ!」
彼の亡骸は燃やされた。
街の人々は歓声を上げていた。
忌まわしい魔人が死んだと、これで魔物の森にも人が住めると、口々に喜びの声を上げる。
わたくしの慟哭など誰の耳にも届かない。
ユーリウスの体が炎に包まれていく。
炎がすべてを灰へと変えていく。
煙が天へと昇り、風に散っていった。
わたくしはその場に崩れ落ちた。
涙はもう枯れ果てていた。
胸の奥にぽっかりと穴が空いたような空虚だけが残る。
広場の熱狂はいつまでも続いていた。
誰も灰の中に跪くわたくしに目を向ける者はいなかった。
それでも、地獄は続いた。
わたくしはテセウスを人質に取られたまま魔物を浄化する日々を送った。
かつては身近であった魔物たち。
魔物は浄化しても海には帰れない。
だから、魔物にとっての浄化とは、ただ死んでいくだけの行為だった。
わたくしの手が汚れていくたびに、魔物は数を減らし、森は静かになっていった。
その途中で、奇妙なことが起こり始めた。
わたくしを聖女だと崇めだす人間たちが現れた。
魔物が減り、人間の生活圏が広がるにつれてその声は次第に大きくなっていった。
「聖女様が我々を救ってくださる」
「魔物を浄化する奇跡の力を持つお方だ」
皮肉なことだった。
ついこの間まで魔人として蔑み、殺そうとしていた人間たちが、今度はわたくしを持ち上げる。
その勢力の働きかけによって、テセウスは解放された。
あの日からすでに一年が過ぎていた。
「アスタルト…」
やつれた姿のテセウスが、わたくしの前で膝をつく。
彼の目には深い自責の念が浮かんでいた。
「すまない。俺のせいで…俺がお前を街になんか連れ出したから…」
わたくしは首を振った。
自由への代償は、遥かに重く、わたくしたちは同じ地獄で、同じ枷を嵌めている。
テセウスは、わたくしが完全に壊れてしまわないようにそばで見守り始めた。
そこに教会が介入してくるのも時間の問題だった。
テセウスは言った。
「俺と結婚しよう。形だけでいい。そうすれば、教会の保護下にお前を置ける。もう誰にもお前を傷つけるさせない」
どうでも良かった。
わたくしは黙ってうなずいた。
誰と結婚しようと、もはや何も変わりはしなかった。




