0 . 前世・2
約束の日、わたくしはユーリウスに内緒で家を抜け出した。
彼はその日、朝から狩りに出かけ、留守にしていたから見つかる心配はなかった。
森の入り口で待っていたテセウスは、わたくしの姿を見るなりにやりと笑った。
「ほら、フードを深く被れよ」
彼の用意してくれたマントを羽織り、わたくしは初めて魔物の森の外へと足を踏み出した。
少しの罪悪感と、それを塗りつぶすほどの期待が入り混じっていた。
人間の街はテセウスから聞いた話で、想像していた頭の中の街よりも、ずっと賑やかだった。
石畳の通りには色とりどりの布を掲げた露店が立ち並び、よくわからない様々な匂いや甘い香りが風に乗って流れてくる。
子どもたちが笑いながら駆け回り、固い物を叩く音が規則正しく響いている。
「すごいわ…」
わたくしは目を輝かせてあちこちを見回した。
テセウスはそんなわたくしを見てくすりと笑う。
「おいおい、ずっと口を開きっぱなしだぞ」
「だって、こんなにたくさんの人が…それに、みんな笑ってる」
誰もわたくしを怖がらない。
誰もわたくしを指差さない。
ただの人混みに紛れて歩くだけで、こんなにも自由な気持ちになれるなんて。
テセウスは、口を開けたままじゃ間抜けだから、とわたくしをからかいながら、屋台で焼き菓子を買ってくれた。
噴水広場の縁に腰掛けて一緒に食べる。
サクサクの生地に甘いクリーム。
果実とはまったく違う味がした。
「うまいか?」
「よくわからないけど、面白い味だわ」
「そりゃよかった」
彼は微笑み、その笑みになぜか心臓が高鳴る。
鼓動が早まる理由を不思議に思いながらも、わたくしは通りで行き交う人々を観察し続けた。
「なあ、アスタルト。お前はずっとあの森にいるつもりか?」
突然の問いにわたくしは焼き菓子を口に運ぶ手を止めた。
「あんな場所で一生を終えるなんてもったいないとは思わないか?」
「…そんなことはないわ」
わたくしは笑った。
テセウスの目がわずかに陰る。
「ここはとても素敵な場所だけれど、わたくしにはユーリウスがいないと、意味がないの。彼はわたくしの半身で、離れられないし、離れたくないの」
それが例え窮屈に思えたとしても、わたくしを一番に想い、愛してくれる人は彼だけなのだ。
ユーリウスは不器用で、時に過保護すぎるけれど、それが彼の愛だと知っているから、わたくしも彼の隣にいたいと思う。
テセウスはしばらく黙っていたがやがて小さくため息をついた。
「そうか。なら仕方ないな」
彼は立ち上がり、わたくしに手を差し伸べる。
「そろそろ戻らないと、あの心配性のお前の半身の気が狂うぞ」
その軽口にわたくしは声を出して笑った。
「楽しかった?」
「ええ、とても」
「ならよかった。また来たいと思ったらいつでも言えよ」
彼は軽く手を振りながら、夕闇に染まる街へと消えていった。
わたくしはしばらくその背中を見つめていたけれど、やがて森へと続く道を急いだ。
胸の中は楽しかった時間の余韻で満ちている。
けれど、その温かさは家へ近づくにつれて急速に冷めていった。
家に着くと、ユーリウスが扉の前で腕を組んで立っていた。
「…どこに行っていた」
彼の声は静かだったがその奥に抑えきれない怒りが渦巻いているのがわかった。
わたくしは言葉に詰まり、俯くことしかできなかった。
けれど、彼の前で隠し事などできないし、したくない。
「…人間の街に行ってたの」
ユーリウスの頬が引き攣る。
彼はゆっくりと一歩踏み出し、わたくしの腕を強く掴んだ。
「なぜ俺に黙って」
「だってユーリウスは反対するでしょう」
「当たり前だ!もし正体がバレたらどうするつもりだったんだ」
彼の声は震えていた。
それは怒りだけではない。
心配と恐怖が入り混じった声だった。
わたくしは掴まれた腕の痛みに眉をひそめながらも、彼の目をまっすぐに見つめ返す。
「わたくしは、ただ…外の世界を知りたかったの。ずっとこの森の中で、あなたとわたくししか話す人がいなくて」
「それでは駄目なのか?外には人間がいるんだぞ?人間は海からこの地を侵略しにやってきた生き物で、魔物を殺し、地上を荒らした。私たちは、人間たちの破壊の結果の副産物だ。それなのに、自分たちで作ったものを、邪魔で気持ち悪いからという理由だけで、殺そうとしている。奴らは野蛮で貪欲で、破壊の化身なんだ」
その声には怒りと、もっと深い悲しみがあった。
わたくしたちに両親はいない。
魔物ですら母と父を持つのに、わたくしたちは魔物の魂が人間の容れ物に偶然入っただけの生き物。
ユーリウスはわたくしよりも早く誕生してしまったせいで、安定した生活ができるようになるまで、大層苦労したはずだ。
彼は苦労話をしないけれど、わたくしを親や兄のように育て上げてくれた。
「…でも、それだけじゃないわ」
だからこそ、勘違いしてほしくなかった。
一人で苦労を背負うのではなく、分かち合いたかった。
利用できるなら、人間社会を利用して、取り込んだっていい。
ユーリウスが顔を上げる。
その瞳がわずかに揺れた。
「確かに人間は野蛮で残酷なことをするわ。魔物を殺し、わたくしたちを迫害する。でも同時に誰かを愛し、守ろうとする気持ちもある。わたくしたちと同じところもあるの。だから、全ての人間を憎む必要はないんじゃないかしら。少なくともテセウスが悪い人間だとは思えないわ」
テセウスという名を口にした途端、ユーリウスの顔が歪んだ。
「テセウス?…あの人間か。なぜその名前が出る」
わたくしはドキリとした。
彼に会っていたことは秘密にしておくはずだったのについ口を滑らせてしまった。
慌てて弁解しようとしたけれど遅すぎた。
ユーリウスはテーブルを拳で強く叩いた。
「奴に会っていたのか。わざわざ、私に隠れて!」
低い声には怒りが滲んでいる。
わたくしは必死に頭を振った。
「違うの!街に行ったのも確かだけど彼に会ったのは偶然よ!」
「偶然だと?都合のいい偶然もあるものだな。…なあアスタルト、私だって全部の人間が憎いわけじゃないんだ」
彼は拳を握りしめたまま、絞り出すように言葉を続ける。
「だがお前が人間に近づくのは怖い。お前がいなくなったら私は…」
「わたくしはどこにも行かないわ。あなたを置いて行くわけがない」
わたくしは彼の震える手を、両手で包み込んだ。
「だからわたくしと一緒に街に行ってみましょう。美味しいものを食べられる店や食器を売っているお店もあったわ」
「…一緒に?」
「ええ。あなたが気に入りそうなお店を見つけたの。一緒ならわたくしはもっと楽しいし、あなたも人間の別の側面を知ることができるでしょう?」
彼は長い間沈黙していたがやがて小さくため息をついた。
「わかった。だが次は私も一緒だ。絶対に一人で行くな」
「約束するわ」
わたくしが微笑むと、ユーリウスはまだ納得いかないような顔をしながらもわたくしの手をぎゅっと握り返した。
その手の温かさにわたくしは胸がいっぱいになる。
彼が少しずつでも変わろうとしてくれている、そのことが何よりも嬉しかった。
未来は希望にあふれていた。




