0 . 前世・1
先日見つけた赤い果実を採りに、一人で森へと足を踏み入れていた。
魔物たちも食べていたから、毒ではなさそうだ。
それに、鮮やかな赤い色が目を引いた。
「このあたりかしら」
記憶を頼りに歩みを進める。
木漏れ日が揺れ、どこかで魔鳥が囀っている。
森の空気はひんやりとしていて土の匂いがする。
やがて見覚えのある景色が広がる。
木の枝に鈴なりに赤い実がなり、輝いていた。
わたくしは嬉しくなって駆け寄る。
ところが、木の根元に男が一人倒れていた。
わたくしは息を呑み、籠を取り落としそうになりながらも恐る恐る近づいた。
男は傷だらけの体を丸めるようにして横たわっている。
人間が何故ここに?
魔物の森に人間が足を踏み入れることなどほとんどない。
男は黒いマントに身を包み右腕には深い裂傷があった。
顔は青白く、息苦しそう。
この傷は魔物によるものだろうか。
わたくしは迷った末に、彼の傍らに膝をついた。
魔人と蔑まれるわたくしたちだから、警戒は怠れない。
だけれど怪我をした人を放置するのも寝覚めが悪い。
わたくしには回復魔法などというものは使えないけれど、弱った体力を回復させる程度のことならば可能だ。
息を詰め魔力を注ぎ込む。
男の傷がゆっくりと塞がり血の気も戻っていく。
目を閉じながらも痛ましげだった表情は、徐々に穏やかになり、安らかな寝息へと変わっていった。
木々のざわめきが一際大きく揺れたかと思うと、ユーリウスが息を切らせて現れた。
「アスタルト!」
その声には、安堵と怒りが半々に込められている。
彼の髪は乱れ、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
どれほど慌てて探し回ったのか、その様子から一目で分かる。
「いつまで経っても戻らないから…っ」
言いかけて、彼はわたくしの隣に倒れている男に気づいた。
ユーリウスの目が一瞬で鋭くなる。
一切の躊躇もなく、ユーリウスは無言で男の首に手をかけようとした。
「待って!」
わたくしは慌てて彼の腕にすがりつく。
「人間だ。なぜ助ける必要がある」
「この人は傷ついているだけよ」
彼の声には抑えきれない敵意が滲んでいた。
魔物の森は、人間に追われたモノたちが最後に辿り着く場所だ。
人間とは奪い、殺し、蔑むもの。
ユーリウスの中には過去に味わわされた苦渋が、心の中で凝り固まっていた。
「だけど、見捨てられない」
長い沈黙の後、ユーリウスは舌打ちをして手を引っ込めた。
だけれど代わりにわたくしの手首を掴む。
「帰るよ」
「でも、この人が目覚めるまで」
「殺さないだけ感謝してほしい」
有無を言わせぬ力で引っ張られ、わたくしは振り返りながらも男をその場に残すしかなかった。
木の根元に横たわる黒い影が、だんだんと遠ざかっていく。
せめて無事に目覚めてほしいとわたくしは心の中で祈った。
あの日、森で助けた男は傷が癒えた後も、なぜか魔物の森の近辺をうろついていて、果実を採りに行くわたくしを見つけては声をかけてくるようになった。
「よお、また会ったな」
彼はいつも気安く笑いかけてきた。
人間なのに魔人であるわたくしを怖がるどころか、まるで友人のように接してくる。
ユーリウスと魔物しかいない生活にわたくしは知らず知らずのうちに窮屈さを感じていたのかもしれない。
テセウスとの他愛ない会話がいつしか日課になっていった。
ユーリウスに内緒にするのには、後ろめたさがあったけれど、わたくしはテセウスが教えてくれる初めての体験や聞いたことのない話の魅力に抗えなかった。
ある日、彼はいつもより少し真面目な顔で言った。
「なあ、人間の街に行ってみたくないか?」
わたくしは息を呑んだ。
テセウスとの会話の中でしか聞いたことがない。
色とりどりの建物や、食べたことのない食事、テセウス以外の人間たちが群れをなすように暮らしているという。
「でも、ユーリウスが…」
「黙って行けばいいだろ。一日だけだ。お前、ずっとここに閉じこもってて、息が詰まらないか?魔人って言っても、姿形も何も俺たちと変わんないだろ」
あっけらかんと言う彼の言葉に、わたくしはテセウスをじっと見つめる。
ユーリウスは、魔人は迫害される生き物だと言ったけれど、彼は違う。
決してユーリウスを信じていないわけじゃないけれど、実際テセウスはユーリウスの話していた人間に当てはまらない。
そんなテセウスだから、彼の言うことなら信じてもいいかもしれないと思った。
思ってしまった。
「…わかったわ、連れて行って」




