IF ∶ 14話分岐ルート
打ち所が悪かったユーリウス死亡ルート
紅い血の海の真ん中に女が一人立っていた。
赤いドレスを着た、赤い瞳の赤毛の女。
水面に反射された赤色が、周囲の血臭が、女を赤く染め上げただけかも知れない。
元の女の色は既に判断できない。
かつて、数十世代に渡る君主制の王国が築かれていたが、王城からは人気が消え、繁栄を極めた城下町も眠りについたように、静まり返っていた。
無人の建物だけを残し、王国民たちは紅海に呑まれてしまっていた。
女はただ静かに、それを見下ろしている。
生まれたばかりの世界を眺めるように。
何も感じていないかのように。
「アスタルト様」
血で汚れた一人の男が近づく。
無精髭を生やし疲れ切った顔をしていた。
年は女よりも年上のように見える。
男は女の頬にそっと手を伸ばすが、その指先は赤く濡れている。
女は動かない。
瞬きすらしない。
ただ海の波打つ様を見つめている。
「怪我はしていない、ですか」
女は話さない。口を開かない。
男は気にせず、女の全身を見て、傷がないことを確認する。
「…この国は救済されました。王国民として感謝します。ですがまだ旅路は長いのですから、体を労らないと」
「どうして?」
幼い少女のように首をかしげる。
「ユーリウスは死んだのに、どうして他の人たちだけが救済されるのかしら。どうしてユーリウスを殺した人間に慈悲を与えなければならなかったのかしら。可哀想だったけれどユーリウスの方がもっと可哀想だった。だってユーリウスは救済されなかったもの」
男は唇を噛み拳を強く握り締める。
だが女に背を向けることもできずに佇んでいた。
ユーリウスは頭に石がぶつかり、打ち所が悪く、アスタルトを残し、死んでしまった。
その後母も死に、アスタルトには何もなくなってしまった。
失ってばかりだ。
この憎らしい世界は、アスタルトから全てを奪った。
残ったのは、聖女の呪いのような使命だけ。
【人類救済】
やることもないから、やる気もないまま、【母】に命じられるまま、近付く人間を、逃げ行く人間を、罵倒する人間を、害そうとする人間を、泣き出す人間を、懇願する人間を、縋り付く人間を、救い、助け、海に還していく。
私一人を残して、悪人も善人も救われていく。
どうして、私とユーリウスだけは救われないの?
アスタルトは膝を抱えたまま、紅海に浸る。
彼女の絞り出した声は潮騒に呑まれて消えていく。
「ユーリウスがいたら、何て言うかしら。花束をまた持ってきてくれるかしら。生命あるものは全てこの海に沈んで、海のモノしか海に還れないのが残念だわ。地上の花もとても美しかったのに」
「アスタルト様」
男の声に、アスタルトは反応しない。
「俺では駄目ですか?あんたのユーリウスの代わりになれないですか?姉の魂を救ってくれたことだけじゃない。俺はあんたが…お前が好きだから…」
男の声は潮騒にかき消されそうなほどか細くそれでいて必死だった。
アスタルトはゆっくりと顔を上げる。
赤い瞳が男を映したが、そこには何の感情も宿っていない。
ただ空虚な光だけが揺れている。
「テセウス」
その声は氷よりも冷たい。
それでも、波を掻き分けて男は、膝を抱えたアスタルトを抱きしめる。
海が二人を濡らし、赤い滴がテセウスの腕を伝って落ちていく。
彼の胸の中でアスタルトは微動だにしない。
人形のようにただ抱かれるまま。
「お前を一人にはしない。もう失わせない。だから…だから…」
テセウスの声は震え縋るような響きを帯びていた。
だが、アスタルトの瞳はなおも遠くを見つめている。
潮騒だけが二人の間を埋めるように響き続ける。
「離して」
「離さない」
「誰も代わりにはなれない」
「分かっている」
「代わりになってほしいなんて思ってない」
「分かっている」
「この海に沈めたら離してくれるの」
「お前はそれをしない。だからこうして抱きしめられる」
「ユーリウスの代わりは誰にもできない。わたくしの中にいるのは、ユーリウスだけ。もういないのに彼だけがわたくしの中で生き続けているの」
「だったら、俺はお前の外で生き続ける」
「そんなの無理に決まってる。だって、あなたはただの人間ですもの。すぐに死んでしまうでしょう」
「じゃあなんで俺だけを救済しない」
テセウスの腕に力がこもる。
彼の声は震えながらも、どこか挑むような強さがあった。
アスタルトはゆっくりと瞬きをした。
長い睫毛に絡まった血の雫が涙のように頬を伝う。
「なぜ、俺だけは海に還さない。なぜ俺だけは生かしておく。お前のその力ならとっくにできただろう」
「…あなたは勘違いしているわ」
アスタルトはポツりと零す。
血の海を映した赤い瞳が、テセウスをまっすぐに見つめる。
「人々を救済すると、私は前世の聖女の記憶をも取り戻していくの。死後聖女を食した残酷な人間たちの中に散らばってしまった、前世の肉体の記憶が海を通して語りかけるの。その聖女の血の記憶が言うのよ。『あなただけは決して救わない』と。私があなたに特別な感情を持っているわけではない。あなたを生かしているのは、救済しないのはそう命じられているから。今の私は【前世の記憶】と【母】の人形でしかないの」
テセウスは笑った。
思わずアスタルトは片眉を上げてしまう。
「前世の聖女様は何て言ってるんだ?」
「…前世のあなたに恨みがあるみたい。『俺の想いは俺のものだから、誰にも分け与えたくない』と傲慢にも救済を拒んで聖女の救済の邪魔をしたから」
「ふうん、俺の前世ね。聖女様と結婚した騎士様か、対立した魔人か、どちらかならおもしれえな」
テセウスの笑みは崩れない。
血の海に浸かりながら彼はまるで酒場で他愛ない話をしているかのように軽やかだった。
無精髭の生えた彼の頬はアスタルトのこめかみに触れそうなほど近くにあり、荒れた唇は時折祈るように彼女の髪に押し当てられる。
(前世の記憶で、聖女様はあなたに生き続けてほしいようだった。それなのに、あなたは自身の想いを独り占めするためだけに、魂の消滅を選んだから、憎んだのだわ。なぜ自身と共に生きてくれないのだと。それは今も変わらない)
アスタルトには、テセウスが騎士か魔人か分かっていたけれど、それを伝えることはなかった。
伝えたところで、今世のアスタルトは既にユーリウスを選んでしまったのだから。
だけど。
人類救済のための旅路の途中で、この一瞬だけ。
彼の腕の中でアスタルトは目を閉じる。
血の海の冷たさとテセウスの体温だけが、確かなものとして彼女を包み込んでいた。




