幕間・2
サミュエル枢機卿はいつものように教会内の一室で公務をこなしていた。
羊皮紙に羽根ペンを走らせる音だけが静寂を満たしている。
そこへノックの音。
返事を待たずに開かれる扉に、ノックの意味がないとサミュエルは大きな溜息を吐く。
「御機嫌よう、サミュエル枢機卿猊下」
あまりにも簡易すぎる挨拶に、それほど親密な仲だったかと勘違いしそうだと皮肉げに眉を顰める。
貴族と縁の強いルドルフの強い押しがあったからといって、こちらの立場はあくまで中立なのだ。
名誉職とはいえ、聖女という肩書の権力に、目の前の女、リナリーは溺れていた。
サミュエルは一瞬だけペンを止めそれから何事もなかったかのように再び書類に向き直る。
訪問予定もない突然の来訪に、彼は眉一つ動かさなかった。
だがその沈黙こそが明確な拒絶の意思表示だった。
「お忙しいところ申し訳ございません」
リナリーは拒絶を物ともせず、室内に踏み込む。
「でもどうしてもお話ししたいことがありまして」
サミュエルは、無礼な侵入者に顔をあげることもなく淡々と書類業務を続ける。
「一人で来たのですかな?」
サミュエルは書類から視線を上げないまま、尋ねた。
「いいえ、ですが護衛は扉の前に待機させてあります」
「いくら私が老体であろうと、王子殿下の婚約者と二人きりというのは些か慎みに欠けますな」
「あら、私はそちらに気を使ったつもりでしてよ。偽の聖女などという教会に不名誉な存在が現れたとお聞きしたものですから。これ以上噂を広めたいわけではないでしょう?」
サミュエルの指が一瞬止まる。
「なるほど」
彼は再び羽根ペンを走らせながら、声だけで応じる。
動揺した様子も見せずいつもよりもぞんざいな扱いにリナリーは苛立ちを増していく。
「殿下も不安になっておりますのよ。そのようなデマが国民たちに混乱を与えてはいけないでしょう?ですから、私の方から殿下にとりなしておきましたわ」
「…殿下は陛下から何もお聞きになっていないということですな。口の軽い婚約者がいては、殿下も陛下も苦労なされる」
リナリーの顔から微笑みが消えた。
「…どういう意味ですの?」
「言葉通りの意味ですが、理解しておられない。その方が都合が良いが、仕事を中断されるのは癪に障る。あなたに負える責任などないから、私の執務室に通した執務官と護衛官たちに代わりに責任をとってもらいましょう」
サミュエルはようやくペンを置き、初めてリナリーを正面から見据えた。
その視線は氷のように冷たくリナリーの背筋に一筋の汗が伝う。
分かりやすい子だ、とサミュエルは思う。
社交界での評判は高いから、他では上手くやっているのか、それとも権力に阿る貴族しかいないのか。
傀儡には都合がいいが、我々以外の糸で踊らされるようであれば処遇を考えなくてはならない。
「殿下が不安になっておられる?違いますな。不安になっておられるのは貴女の方だ。貴女が一番恐れているのは殿下が心変わりすることと、聖女の座を追われることでしょう」
リナリーの顔色が変わる。
先ほどの優雅な微笑みはどこへやら彼女は唇を噛みしめる。
「ですが、安心してください。噂は噂。確かにあなたに聖女の力は覚醒しておりませんが、歴代の聖女たちもただの箔付けのための椅子であり、聖女の力など疾うの昔に失われたのです。ですから、あなたを聖女の座から落すものなど今後も現れない。お分かりいただけたかな」
リナリーの顔にじわじわと安堵の色が広がっていく。
だがサミュエルはその反応を冷ややかに見つめていた。
「だからこそ、一介の貴族ごときが教会に口出すような真似は今後もなさらないで頂きたい。名誉ある椅子だけは明け渡しているのだ。余計な口出しをすると、囀る口すらなくなりますぞ」
「公爵令嬢であり、次期国王の婚約者である私を脅すつもり?」
リナリーの声は震えを帯びていたがそれでも気丈に振る舞おうとしている。
しかしサミュエルの表情は微動だにしない。
彼は眼鏡を外し、ゆっくりと布でレンズを拭き始める。
「まさか。単なる事実を並べただけで脅迫扱いされてしまうとは。小鳥は本当に臆病な生き物ですな。怯えさせる意図などこちらにはありません。こちらとしては飼う鳥も鳥籠も別に選べばいいだけの話ですからな」
リナリーの顔から血の気が引いた。
彼女は言葉の真意を理解したのだろう。
聖女の椅子が名誉職に過ぎないならばそこに座る者もいつでも取り替えがきく。
公爵家の令嬢であろうと王子の婚約者であろうと教会にとっては一羽の小鳥に過ぎない。
「リナリー様」
彼女の肩がビクリと震える。
「賢明な小鳥は余計な囀りをしないものです。貴女は賢明な方だと信じておりますよ」
扉が閉まる音が部屋に響き渡った後もサミュエルは、書類仕事を続けていた。
片付ける仕事が多すぎるのだ、と嫌気が差し始めた頃、部屋の片隅の暗い影から男が現れる。
まるで最初からそこにいたかのように自然に、しかし存在感は希薄なままに。
「処分致しましょうか」
「君らは血の気が多すぎる」
サミュエルは振り返らずに答える。
老練な枢機卿の口元には呆れが浮かんでいた。
「まだ彼らには使い道がある。彼女とて聖女様の影武者には最適だろう」
影武者は多いほうがいい。
聖女を狙う勢力はそれだけ多いのだから。
影の男は無言で一礼する。
「それよりも例の男はどうだった?」
「はっ、単なる小蝿に過ぎないかと。どうやら聖女様を外に手引きした男で間違いなかったと思われますが、【対象者】ではないでしょう。部屋に侵入後は単身隣国に行き、特に目立った動きもありません」
「聖女様が彼について行った、心を許したというだけで十分【対象者】に相応しいけれど…なるほど」
サミュエルは顎に手を当て思案する。
しばらくの沈黙の後、彼は再び口を開いた。
「では、本当の【対象者】はやはり」
「あの冷血漢がまさか、とは思いますが」
影の男の声に初めてわずかな感情が混じる。
それは驚きか、あるいは嫉妬か。
「冷血漢か…」
サミュエルは皮肉げに笑った。
「どうやら我々は手玉に取られたようだ。過去に接点があった時点で、十分【対象者】候補だったが、あの男は見事に演じきり、我々も国も欺いたというわけだ。なるほどなるほど。聖女様に男性自体へ不信感を抱かせないために、あの男をフォローをしたけれど、それも余計なお世話だったかな」
「卑劣漢め!」
「君は激情家だからね。あの男くらい演技力があったら、君に結婚の打診が来てもおかしくはなかった」
影の男の声には抑えきれない怒りが滲んでいた。
彼もまた聖女様への想いを抱いているのだろう。
しかしサミュエルはそれが必ずしも聖女様の人としての幸せに繋がるとは思っていない。
教会の人間では、理想と神のために自身も彼女すら犠牲にするだろう。
ユーリウス閣下はそうではないだろう。
目の前の男よりもさらに激情家の男をサミュエルは思い浮かべる。
だから、あれほど完璧な仮面を被り続けられたのだ。
サミュエルが聖女様に伝えた話は、彼女の母親のように男性全般に憎悪を覚えないように言っただけで、大分脚色を加えたものだったけれど、案外的を射ていたかもしれないとサミュエルは思い始めていた。
「さて、ユーリウス閣下と聖女様には浄化対象者の選別をしていただかなければならないな」
「しかし、あの公爵が素直に従うでしょうか。一時は逃げ出そうとした男です」
「聖女様の命の安全さえ保証されていれば、ユーリウス閣下はご納得なさる。どうにも信用されていないみたいだが、我々は聖女様を御守りする立場であることは揺るがない。魔女認定からも、暗殺からも、全てからお守りしなければ。有限の資源を食い潰す人類の共倒れだけは避けなければならない」
人類生存圏の淵に到達した今、増えすぎた人類は行き場をなくしてしまった。
だけれど、国主たちは近視眼的に、自国の得か損かだけしかで見ることができない。
我々のように国を跨いだ組織が、世界情勢を管理し、人類の数を制限しなければ、全ての資源が使い果たされてしまう。
「聖女様は我々の最後の希望だ。あの方の力がなければ選別など夢物語に過ぎない。酷使された魂は完全なる消失をするのだという」
「恐ろしい話です。それを俗人にはどうして分からないのでしょうか。浄化は死ではなく、母の御元へと帰れる祝福であり、救済なのだと」
二人には、信仰に裏打ちされた盲目的なまでの確信があった。
サミュエルは静かに頷く。
「人は目に見えるものしか信じない。飢えも病も戦争も、すべては人類が増えすぎたことへの世界の悲鳴だというのに俗人は耳を傾けようとはしない」
彼は手にした羽根ペンを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「聖女様には、辛い役目を背負わせることになる。だからこそ、最後まで帰ることのできない聖女様に我々も最期の時まで付き従うのだ」
サミュエルのペンが羊皮紙の上を滑り、名簿に印を付けていく。
聖女様の浄化候補者として、国内外の囚人たちの名前が記されている。
「まずはこの者たちからだ。聖女様の負担が少しでも軽くなるよう、順序立てて進めねばな」
影の男は恭しく名簿を受け取ると、深く一礼した。
「御心のままに」
「聖女様に浄化された魂が、どうか母の御元へと無事に還らんことを」




