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愛人のいる夫から逃げ出したら、聖女と呼ばれ、真実の愛を知る  作者: 御仕舞
本編

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19/27

18 . 決着









 傲慢な人。

たった一人で全てを背負い誰にも頼らず、誰にも弱みを見せず、自分もわたくしも、傷つけるのは自分だけだと思っている。

なんて、不器用で独り善がりなのかしら。


 これを彼は【愛】と呼ばない。


 胸を掻きむしりたくなるほど襲われる切望を、叫びたくなるほどの慟哭を、体の外に溢れ出しそうなほどの感情の渦を、わたくしは溜息一つで、呑み込んだ。

ユーリウスがこれまでそうしてきたように。


 今更愛など口に出せるわけがないわ!



「テセウス様」



 わたくしは彼に向き直った。

傷だらけの埃に汚れた服。

それでも彼はわたくしをまっすぐ見つめた。



「俺のことなんて忘れたかと思ってたぜ」



 身の置き場に困っているようなテセウス様が皮肉げに口を開く。

その声には諦めが滲んでいた。



「忘れるはずがありません。テセウス様が手を差し伸べてくださらなかったら、わたくしは何も知らないまま、変化のない日々に閉じ込められていましたわ。

今はもう、あなたのおかげで目が覚めたような気分ですの。あなたがいなければ、今のわたくしは存在しません」



 テセウス様の目がわずかに見開かれる。

彼は何か言おうとして口を開き、しかし言葉にならずに閉じた。

代わりにわずかに唇が歪む。

それは泣き笑いにも似た表情だった。

ユーリウスは不安そうな顔でわたくしたちの会話を黙って見守っている。



「けれど、ごめんなさい」



 わたくしはテセウス様にはっきりとお別れを告げる。

彼の瞳が揺れた。



「あなたと逃げるわけにはいきません。わたくしにはやるべきことがあり、支え合いたい人もいるのです」

「自由を手放すほどの価値が、その男にはあるのかよ」



 テセウス様の傷ついた顔が見えた。

わたくしは静かに首を振る。



「わたくしにだって、自由を手放すほどの価値はありませんでしたわ。ですけれどユーリウスはわたくしのために自由を手放した」



 テセウス様の瞳が痛みに歪むのを見て、わたくしの胸もまた締め付けられる。



「彼は何年も、誰にも理解されずにわたくしを守るために孤独を選んだのです。愛する人を愛せないふりをして、嘲笑に耐えて…それなのに自分を悪人だと思い込んでいる。そんな彼を一人置いていくことはできません」



 ユーリウスが微かに身じろいだ。

彼は今、戸惑っている。

自分のしてきたことが、愛と呼ばれることを、受け入れられずにいる。

いえ、受け入れるべきではないと【加害者】の彼なら思うでしょうね。


 わたくしの胸の中でもまだ全てが整理されたわけではない。

冷たい仮面の下に隠されていた献身を、素直に愛と呼ぶことができないほどには傷つけられた記憶が消えていない。

それでも。


 周囲のものに振り回され、わたくしたちは大分遠回りをしてしまったわ。

過去にあった二人の間の特別な感情は、大樹になる前に、歪んでしまった。

それでも、わたくしはそれが【真実の愛】だと名付けることのできる未来が、この先に続いていると信じたい。



「…そうだな、お前は最初から選んでたもんな」



 テセウス様は長い沈黙の後、ふっと息を吐き出した。

その声には諦めと同時にどこか安堵のようなものが混じっていた。

それから、ポケットから古びた封筒を取り出しテーブルに置いた。



「なら、返すわ。俺が持ってていいもんじゃねえだろ。母親の形見なんて、呪われそうだ」

「テセウス様…」

「勘違いすんなよ。俺はお前を利用できると思ったから来ただけだ。…ただ、俺がそいつより先に出会ってたら…馬鹿なことを聞いて悪かった」



 テセウス様の指先が微かに震えている。

彼がいつも通りの悪態をつくのは精一杯の強がりなのだとわかってしまった。

わたくしは封筒の中から取り出したペンダントにそっと手を伸ばした。

重みが手のひらに乗る。

傷もない、その様子に大切に持っていてくれたのだとわかる。



「ありがとうございます」



 彼は背を向けた。

その背中は微かに震えていた。

ユーリウスが一歩前に出る。

彼の目にはもう剣呑な光はない。

ただ静かにわたくしとテセウス様を見つめていた。



「順番は関係ないが、アスタルトが君を選ぶ未来はあった」

「…お情けでもかけてるつもりか」

「いいや…これは、過ぎ去った過去の話だ」



 テセウス様は何か言いかけたけれど結局口を閉ざした。



「お幸せにな、お二人さん」



 そう言って彼は傷ついた手をひらひらと振り窓に向かって歩き出す。

その後ろ姿は少し寂しげで、それでも誇り高いままだった。

わたくしはその背中に深く頭を下げる。

遠い昔の感情が浮かびかけた気もしたけれど、それも一呼吸の間に消え失せてしまった。


 ドアが閉まる音がして部屋には静寂が訪れた。

わたくしは振り返りユーリウスの目をまっすぐ見た。

そこには不安と迷いが入り混じっていた。



「…よかったのか?彼は聖女の血を呼び覚ました…」

「それなんですけれど」



 ユーリウスの指先はまだ震えている。

わたくしは彼の大きな手を握り、冷たくなった指先に、もう一度温もりを分け与える。



「テセウス様が血を呼び覚ましたわけではありませんわ」



 呆然と見開かれる目。

少し間の抜けた顔が珍しく、面白くて、思わず少し口元が緩む。



「では、なぜ急に力が覚醒したんだ?」

「急にではありません。前も話した通りペンダントがわたくしを抑え込んでいたんです。勘違いなされてるのは抑え込んでいたのは血の目覚めではありません。既に目覚めていたものを封印していたのですわ」



 ユーリウスの眉が困惑に寄せられる。

彼は私の言葉の意味を咀嚼しようとしているようだった。



「【対象者】はテセウスではない?既にということは過去に目覚めた原因がいたのか」

「ええ、わたくしは子どもでしたから。力を使うにも肉体がついていきませんでしたし、力を使いこんだ後ずっと寝込むことにもなりました。わたくしの力がバレて権力者に目をつけられるには幼すぎましたから、母は心配して、暗示をかけてくれたのです」



 ユーリウスの目が大きく見開かれる。

彼の中で何かが繋がり始めているのがわかった。



「その【対象者】とは…まさか」

「あなたの悪役になろうとした努力が無駄だったとは言いませんけど、わたくしと全てを話し合っていれば、大半の問題はもっと早く解決したとも思います。わたくしもあなたの拒絶に怯えなければ…どちらにせよ、結果論でしかありません」



 わたくしは肯定も否定も、彼の結論に答えを出すことはしなかった。

ユーリウスは呆然と立ち尽くしている。

彼の唇がわずかに動いたが言葉にはならなかった。

何かを言いかけては飲み込み、また開きかけては閉じる。

まるで初めて言葉を覚えた子どものように彼は自分の感情を表現する術を失っているようだった。



「私が…私こそが…」



 ユーリウスの指が、自分の顔を覆った。

肩が小刻みに震えている。

喜びなのか悲しみなのか、指の隙間から、顔を赤らめたり青褪めたり。

彼の動揺は痛いほど伝わっていた。



「やり直しましょう、ユーリウス」



 わたくしは彼の言葉を遮った。

ユーリウスの瞳が揺れる。

何かを言おうとして、言葉にならない。

そんな彼の姿がかつての幼い少年の面影と重なる。

かつて、教会の庭で出会った不器用な少年。

わたくしに花を手折ってくれたあの頃の彼。

冷たい仮面も守るための嘘も、すべてを脱ぎ捨てた今彼はようやく素顔を見せてくれた。



「今度は嘘も偽りもなく。わたくしももう、あなたの冷たさに怯えたりしません。何があっても逃げませんわ」



 ユーリウスの目から、一筋の涙が零れ落ちた。

彼はしばらく沈黙して、そして、ゆっくりとまるで壊れ物に触れるかのように、わたくしの額に自分の額を寄せた。



「…許されることではないと、わかっている」

「ええ、そうね。わたくしもあなたと同じよ」

「だが、もし君が許してくれるなら。時が私たちの絡まり、縺れた関係を解ける時が来たら」



 彼の声が震える。



「君に伝えたいことがある」

「それなら、わたくしに告げる台詞を、早く考えておいたほうがいいわ」



 ニッコリと笑った。



「あなたが思うより、その時はあっと言う間に来ますから」



 ユーリウスが目を見開く。

そして涙に濡れたまま、彼もまた笑った。

少年のような無垢な笑顔は、あの時のままだった。



「わたくしの方が先に告げてしまうかもしれませんわ!」












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