17 . 修羅場
「ユーリウス」
空気が凍りついたように感じた。
テセウス様の伸ばしかけた手が空中で止まる。
「…貴様は誰だ」
その声には怒りが滲んでいた。
ユーリウスが、長い脚で床を蹴りながら一直線にこちらへ走ってくる。
視線は冷たくテセウス様を射抜いたまま。
彼の目には明らかに警戒と敵意が漲っている。
わたくしはユーリウスとテセウス様の面識がないことに、今更ながらに気付いた。
不審者と間違われてるのかもしれないわ。
わたくしは誤解を解こうと口を開きかけて、
「アスタルト。大丈夫、ゆっくり私の方に近付くんだ」
一瞬誰の声かと頭が混乱した。
その声は柔らかく、砂糖菓子のように甘く、優しく聞こえた。
結婚してからは冷たい態度しかとられていなかったし、この前一緒に逃げた時は慌ただしく気づく余裕なんてなかったけれど、まるであの頃の少年がそのまま大人になったような優しい声音。
わたくしが戸惑っている間に、彼の長身は壁のように立ちはだかり、テセウス様からわたくしを完全に遮断する。
「あ、あの、ユーリウス?その方は」
「…また私を名前で呼んでくれるんだな」
ユーリウスはテセウス様を警戒したまま、視線を外さない。
だけれど、濡れたような声音は誤魔化せない。
「泣いているの?怪我は大丈夫なの?」
「…こんな私を心配してくれるのか?君はいつだって優しい。大丈夫だ、私は怪我なんてしてない。アスタルトは痛いところはないか?」
「ううん、ないわ。あなたが庇ってくれたおかげよ」
「それならいいんだ。…複雑だけど、悪いことばかりじゃないな。こうして普通に会話ができるようになればと、ずっと願っていたんだ」
嬉しさを噛み締めるような響き。
ユーリウスの口元が微かに緩んだ。
その時、テセウス様の表情がなぜか一瞬歪んだ。
ユーリウスはテセウス様の変化を見逃さず、警戒を高めるように腰元に刺してあった剣を鞘から抜こうとする。
「ユーリウス!テセウス様はわたくしを心配してきてくれただけなの!不審者じゃないわ」
「…テセウス?」
ユーリウスの動きが止まる。
「テセウス…そうか、貴様が…貴様のせいで」
先程の甘さは微塵もなく、声は氷のように冷たかった。
ユーリウスは警戒を一層強め、わたくしが止めたのに鞘から剣を抜いた。
威圧感に押され、テセウス様が無意識に後退る。
ユーリウスの視線が、埃まみれの青年を容赦なく分析している。
ユーリウスの唇がわずかに歪み、冷笑が洩れる。
「弱々しいな。やはり貴様ではアスタルトを守れない。そんな体たらくで何しにここに来た?」
「…う、うるせえ。アスタルトを冷遇してたあんたが言えることかよ…!なんで、こいつが逃げ出そうとするか考えたことあんのか!」
「貴様如きがアスタルトの名を呼ぶな!アスタルトは私の妻だ!」
「あんたはアスタルトを愛してねえだろうが!」
「貴様に私の愛の何がわかる!!」
ユーリウスの全身から怒気が溢れる。
振り下ろした剣の行く先を考える前に、ユーリウスの背中に抱きついていた。
「やめてっ!!」
剣はわたくしの制止でピタリと止まった。
わたくしはさらに強く彼を抱きしめた。
ユーリウスの背中が小刻みに震え始め、硬く緊張していた肩が徐々に弛緩していった。
少し落ち着いた?
たった数分が永遠にも感じた頃、ユーリウスが大きく息を吐いた。
そして、剣を持つ腕がゆっくりと降り、彼は剣を鞘に収めた。
カチンと金属が噛み合う音が静寂に響く。
ユーリウスの呼吸も少しずつ落ち着いていく。
「…アスタルト、刃物を持った人間に近付いてはいけない」
「それを言うなら、人に刃物を向けてはいけない、だわ」
ユーリウスは背中越しにちらりとわたくしを振り返った。
瞳が揺れている。
迷子の子どものよう。
「…彼は君を危険に晒した男だ」
わたくしは静かに首を振った。
「いいえ。テセウス様はわたくしを救おうとしただけ」
わたくしはユーリウスの背中にそっと頬を寄せた。
少しずつ本来の温もりを取り戻していく。
こんな状況なのに、彼の体温が心地よい。
大きな体に安心感を覚えてしまう。
彼の体に抱きつくようにしていた、わたくしの手にそっとユーリウスの手が重なる。
震えながらも、優しく包み込むような仕草に、わたくしは胸が熱くなった。
「教会は必ず君を逃さない。君を狙うのは教会だけじゃないんだ。私なら教会が、いや全世界の人類がどんな判断をしようと君を守ることを誓う。君が誰を愛していてもいい」
彼の声音は真剣そのもので、嘘や打算が感じられない。
「教会が君を追うのは、君の聖女の力が完全に覚醒したからだ。彼ら全員が君を聖女だと思っているわけではないのはわかるか?君を聖女にも魔女にも、情勢によって簡単に使い分けてしまうだろう」
言葉を濁しているが、言いたいことは伝わった。
わたくしを利用して魔物への盾にできれば【聖女】、力が制御できない又は教会に害をなすようなら【魔女】。
彼らの判断の上にわたくしの命が賭けられている。
わたくしは聖女ではないのだけれど、彼らが白といえば、全世界にいる信者たちは信じてしまう。
その恐ろしさを、ユーリウスは肩代わりしようとしている。
「私なら教会との長年の付き合いもある。腐っても公爵だから、王家にも顔が利く。溜め込んである資産や武力もある。最終手段になるけれど奥の手だってある。君を守るための手段は持っている」
わたくしはユーリウス様の言葉を噛みしめる。
確かに彼は多くのものを持っている。
地位、財力、影響力。
それでも全世界を相手取るのは、どう考えても不可能。
だけれど、彼は断言する。
わたくしを不安にさせないためだろう。
どちらにせよ、彼の覚悟は伝わった。
わたくしはユーリウスの背に頬をつけたまま、ゆっくりと息を吐いた。
彼の心臓の鼓動が規則正しく響いている。
わたくしはそっと顔を上げる。
すぐそこに彼の顔がある。
深く沈んだ色の瞳が、わたくしを真っすぐに見つめている。
ユーリウスの指がそっと私の頬に触れた。
かさついた指先が、壊れ物を扱うように優しく肌をなぞる。
「ユーリウス…マルゴット様は?」
サミュエル司祭の話を聞いてから、ずっと気になっていたのは彼女のことだった。
愛人のフリをしていたとサミュエル司祭は話していた。
彼女を侍るユーリウスを、わたくしは周囲の嘲笑とともに見ているだけだった日々を思い出す。
だけれど、マルゴットは聖女の血を引くわたくしと、ユーリウスが愛を育まないようにしていた監視役だという。
彼の口から真実が知りたかった。
「なぜ今あの女の…?」
「知りたいの」
眉を顰めるユーリウス。
その表情は歪み、苦いものを噛み潰したかのようだった。
「マルゴットは、教会が送り込んだ監視役の一人だ。汚らわしい女狐だ。君には近付いてほしくなかった」
ユーリウスの声は抑えられていたが、その奥に煮えたぎる怒りが潛んでいるのがわかった。
「教会は君の目覚めを恐れ、私たちの間に愛ができることを恐れた。だが、聖女の血を引いた子をいずれ君に産んでもらいたいようだった。君の母上と同じ方法で…」
彼の指がわたくしの手を強く握る。
痛いほどに。
「許せるわけがない!だから、監視役を増やすことにした。教会も国家も一枚岩ではない。屋敷内に小さな権力闘争の場を作り出し、牽制と膠着状態を生み出し、私は君を守るために彼女の存在を利用した。君に冷たく当たるほど、皆が私が君に無関心だと信じた。愛情があるとされれば、君を私から引き離していただろう。それで君の安全が保たれるならどんな嘲笑も甘んじて受けるつもりだった」
ユーリウスの唇が歪む。
それは自嘲にも似た笑みだった。
「だが…それで君の心を傷つけた。私は君の命だけは守れたけれどそれ以外の何をも守れなかった。それは…きっとこの先も。私は君を生かす選択肢を選び続けるだろう。君がどれほど孤独だったか、私は知っていた。なのに何もできなかった」
彼の手から力が抜ける。
離れていく指先が、力なく垂れ下がった腕が、彼の無力感を物語っていた。
ユーリウスこそが傷ついているように見えた。
彼はずっと一人で戦っていたんだと、わたくしは気づく。
冷たい仮面の奥で、彼は何年も一人で闘っていた。
誰にも本心を明かせず、憎まれる役を演じ続けてきたのだ。
その上、彼は自分が最大の悪人で、加害者だと思っている!




