16 . 誤解
サミュエル司祭が扉の向こうへ消えた後、部屋には静寂が残った。
先ほどまで感じていた怒りも今は凪いでいる。
無意識に左手が髪へ伸びていたことに気付き、苦笑が漏れる。
指先が空を彷徨い、そこに輝くはずの銀の髪飾りはない。
わたくしは寝返りをうち、天井を見上げた。
元々海から来た人類は輪廻に耐えうる魂の作りをしていない。
海では永遠だからだ。
だけれど、地上に出てしまったことで輪廻に囚われ、永遠の命を細かく刻まれてしまった。
そのせいで、魂に傷がつき、汚れやすくなる。
輪廻の回数もそれぞれ違うし、一概に皆同じように魂がすりきれているわけではない。
わたくしは擦り切れ、消滅寸前の魂だけを選別し、浄化するのだけれど…わたくしはテセウス様を思い出していた。
使命に情は挟めない。
だからこそ、人との深い付き合いは避けたほうが賢明だったのかも知れない。
彼の魂は、あと数回の輪廻に耐えきれるかどうか。
わたくしの次の役目を負うものが現れるかも分からない、実際わたくしの母は目覚めることはできなかった。
テセウス様が死ぬ前に母なる海へと導くのが、本来であれば正しい。
だけれど、どうしてだろう…。
そのことを考えると遠い海のさざ波が過去のいつかの記憶を刺激するのだ。
テセウス様と出会う前の記憶なのに、彼との大事な何かを忘れているような…これは、聖女の血の記憶だろうか?
だけどどうして?
テセウス様には聖女の血は流れていないのに?
ガンガンと窓を叩く音で、物思いから我に返る。
一度ではない。
二度三度と規則正しいリズム。
視線は窓へと吸い寄せられていた。
「テセウス…様?」
先程まで思いを馳せていた、その人が窓越しにこちらを見ていた。
わたくしは慌てて窓辺へ近寄る。
彼の顔には深い疲労と埃がかかっていて、右頬には大きな裂傷の跡があり、痛々しい。
左肘も包帯で固く巻かれ、服の袖からは血が滲んでいる。
それでも鋭い眼光だけは健在だった。
わたくしは窓を開けた。
冷たい風と共に、土と汗の混じった匂いが入ってきた。
「無事か?」
鋭い、だが抑えられた声が飛ぶ。
窓を少しだけ開けた隙間から、テセウス様は呼吸を荒げながら入ってきた。
テセウス様は、押し黙るわたくしの全身を見回し、わずかに安堵の色を見せた。
しかしそれはすぐに深刻な表情に変わる。
「俺が言えることじゃねえよな…。俺のせいでこんなことになっちまったのに。俺があんなところに連れてかなければ」
荒い呼吸と共に、謝罪の言葉が紡がれる。
「そんな謝らないでください、おかげでわたくしは仕事を果たせました」
というと、テセウス様の顔から一気に血の気が引き、全身の力が抜けたかのように床に跪いてしまう。
そこから、床に顔をふせ、悲鳴のような唸り声をあげるのだった。
「あの、わたくしの方が謝罪したいのですが、テセウス様はわたくしのせいで怪我を負ったようなものですし」
わたくしの方が謝罪したいのに、終いにはテセウス様が嗚咽までこぼし始め、慌ててしまう。
「怪我が痛むのですか?とにかく、椅子に座りましょう」
「放っとけよ。 俺なんかより、お前の方が…」
「わたくし?わたくしは怪我なんてしてませんわ」
「…俺はゲス野郎だ。姉貴を助けるためにお前を売ろうとしたクソ野郎だ。今さら無事か?なんて言える立場じゃない。お前がどんな目に遭ったかも知らねえで…」
話が噛み合ってないように感じるものの、どう軌道修正したらいいかわからない。
とにかく、気になっているテセウス様の傷を診ようとした手が、彼の右手で掴まれてしまう。
火照った体温と彼の手の傷に、彼の痛みと苦痛を想像し、血の気が引く。
「お願いだ…優しくしないでくれ」
祈るようなテセウス様の声。
掴んでいるわたくしの手を拒絶するように、そっと手放す。
テセウス様はぎゅっと目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
「…責任を取らせてほしい」
突然の申し出にわたくしは言葉を失う。
彼の真剣な瞳が真っ直ぐにわたくしを射貫く。
一体、何の責任?
屋敷から連れ出したことを気にされてる?
「もう、貴族社会には居られないだろ?だから、俺の一生を賭けて償わせてほしい」
何か致命的なまでに言葉が足りてない気がするわ。
聖女だと勘違いされてるから、教会から出られなくなるということなのかしら。
テセウス様は怒りと悔悟が入り混じった表情で、震える拳を固く握りしめている。
「俺と逃げよう」
俯いていた顔をあげる。
真剣な目をしたテセウス様と見つめ合う
…その言葉は、ずっと欲しかった台詞だった。
子どもの頃から、窮屈な日々に鬱々としていた。
結婚してからも冷え切った結婚生活に、使用人たちからの冷遇、屋敷からも出られない。
だから、あの時、わたくしはテセウス様についていった。
世界は想像よりももっと広くて、歩く道の先には更にいろんな見たことのない景色が広がっている。
「貴族様の生活水準ではいられないけど、修道院生活よりはマシなはずだ。贅沢さえしなければ、俺たち二人だけなら生活していける。苦労はさせるけど、お前の望みは極力叶えるように努力するから」
必死に言い募るテセウス様には感謝しかない。
テセウス様は自由の象徴だった。
これから先もまた元の生活に戻るかも知れない。
むしろ更に窮屈になるかもしれない。
世界中を旅して、使命を果たすことができたら、と夢想しなかったとは言わない。
そんなわたくしに短い間だったけれど、いろんなことを見せ、世界の一端を教えてくれた。
だけれど、わたくしは諦観と共に苦笑する。
ユーリウスを放って、どこかに旅立つなどできない。
彼の献身が本当だというのなら、彼と話し合いたい。
たとえ彼がわたくしをどう思っていても、わたくしは彼の妻として、できる限りのことをしてあげたい。
ユーリウスはわたくしの大切な人だから。
「ご親切に感謝しますわ、テセウス様。でもわたくし、まだすることがあります」
彼はまだ何か言おうとしているようだった。
その目には、わたくしを救いたいという純粋な願いが溢れている。
しかし、わたくしは淡々と言い添えた。
「テセウス様にはお姉様もいらっしゃるでしょう?お二人の無事を祈っています。お元気で」
「姉貴は…信用のある奴に任せたから大丈夫だ。だから、俺は本気で、お前と…!」
わたくしを引き留めようと、テセウス様が手を伸ばした瞬間、部屋の扉が勢いよく開かれた。




