14 . 過去が物語る
その日も母は泣いていた。
小屋には隙間風が吹き、風の音は母の啜り泣きを笑ってるようにも聞こえた。
わたくしはぼんやりと足を抱えたまま、部屋の角に座り込み、激しく泣く母の様子を見ていた。
母の手には爪が食い込み、白くなった関節が痛々しかった。
教会に呼び出された後はいつもこうだった。
父のいる屋敷の裏側に、そびえ立っている教会にわたくしは連れて行ってもらったことはないが、母が週に一度訪問しては、一週間分の生活雑貨や食料品を台車に乗せてくる。
だけれどその度に母は消耗し、疲れ切った顔をしており、思い出したように泣き叫ぶのであった。
わたくしは隙間風の冷たさに耐えきれず、思わず咳を零してしまう。
それは小さな音だったけれど母は、その音を聞き逃さなかった。
ぎょろり、と焦点の合わない瞳がわたくしに向けられた。
次の瞬間には、つかつか近づいてきたと思ったら、頬を打たれる。
乾いた音とともに熱さが左頬に走る。
続いて右頬。
間髪入れずに左胸が叩かれた。
「どうして!どうして!」
叫び声は甲高く潰れ、母自身の嗚咽に飲み込まれていく。
振り上げられた手は、今やわたくしの背中を執拗に打ち続けていた。
両膝を抱え込んで体を小さく丸める。
こうすれば一番衝撃を小さくできることをわたくしは知っていた。
母の罵声も、手の熱さも、まるで他人事のように遠く感じる。
一頻りわたくしを打ち据えた後、母は糸が切れた操り人形のようにその場にくずおれた。
荒い呼吸だけが小屋に満ちる。
やがて母の呼吸が落ち着くと、虚ろな瞳に理性の光が戻り、自責の念に苛まれる苦悶の色が浮かぶ。
「ごめんなさい…アスタルト…また…あたし…」
震える声で謝罪の言葉を紡ぐ母。
その声は先ほどの怒号とは別人のようにか細い。
わたくしは背中の熱を持った痛みを抑え込みながら、ゆっくりと体を起こした。
「大丈夫です」
ただそれだけを口にする。
わたくしはそれ以上に何と言って、母を慰めればいいのかわからなかった。
母は暫く床に倒れ込むように震えていたが、やがて緩慢な動作で身体を起こし、そのままの格好でわたくしに縋り付いてきた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
謝罪の言葉を繰り返しながら、彼女の腕がわたくしの背中に回る。
わたくしは思わず逃げてしまいそうになるのを耐えながら、母に抱きしめられる。
母の涙でじわりとシャツを濡らし、抱きしめられているのに、どこか冷たい感触。
ふいに小屋の粗末な木戸をノックする音が響いた。
「こんにちは。アスタルトいますか?…あの、綺麗なお花を見つけたので、アスタルトに見せたくて…」
母は、涙でぐしゃぐしゃの顔を袖で乱暴に拭った。
わたくしも瞬時に乱れた髪を手櫛で梳かす。
背中の鈍痛と熱は少し残ってるけど、平常通りの立ち姿を装う。
母は洗面器に溜まっていた水で、自分とわたくしの顔を洗い、あまりの冷たさに顔も頭も切り替わる。
「…こんにちは、ユーリウス」
母が扉に向かいながら微笑みを貼り付けた声で答える。
ユーリウスは白銀の髪と鉛色の瞳を持つ少年だった。
どこかの貴族の生まれらしいが、「他にも兄弟がいたので、教会預かりになった」というのが母から聞いた話だった。
彼自身過去のことを語らなかったし、わたくし自身も語れるような過去なんてなかった。
彼がこの小屋を見つけたのは薬草採集の際に迷い込んでしまったのがきっかけだった。
本来であれば、教会の裏とはいえ、侯爵家の屋敷の敷地内に無断で踏み入れてはいけないのだけれど、誰にも内緒でわたくしとユーリウスはこっそりと遊ぶようになった。
母だけがそれを知っており、最初は驚いていたものの、すぐに大喜びでわたくしたちを応援してくれた。
「素敵なご縁だわ!」と何かの救いを得たかのように泣きじゃくり、初めて見る幸せそうな顔で笑ったのだ。
ユーリウスもあまり良い生活をしてないようだった。
青痣もあるし、いつもどこかしら体を痛めてる。
服もわたくしと同じように薄汚れていて、だからこそ、劣等感や引け目を感じることなく、遊ぶことができたのだ。
週に一度ほど訪れるのが習慣となっていた。
薬草採集だと告げて、ユーリウスはわたくしたちに会いに来てくれた。
二人で御伽噺の世界を探検したり、見つけた美しい石を秘密の隠し場所に埋めたり、結婚ごっこをして将来どんな家に住むかを相談したり。
母はそんなユーリウスを毎回嬉しそうに出迎え、ユーリウスは感謝の印にと野花を集めて、来るたびに母とわたくしへ捧げた。
彼が来てくれた日は母も穏やかに過ごしてくれる。
だからこそ自然と望むようになっていった。
ユーリウスが教会ではなくここで一緒に住むことを。
貧しくとも三人ならば笑って暮らせるのではないかと、幼いわたくしは愚かな夢を見てしまった。
けれどそんな未来は訪れない。
夢を見れた短い幸福を感謝するべきなのだろうか。
その日もいつものようにわたくしとユーリウスが遊んでいると、ユーリウスの様子に不信感を抱いていたのだろうか、少年たちがつけていたのだ。
それにわたくしとユーリウスは気づかず遊んでいた。
わたくしたちがユーリウスが見つけたという可憐な花を見ようと屈みこんでいた時、茂みが不意に揺れた。
現れたのは子どもと大人の中間のような、ガタイのよい少年たちが三人。
教会の服をだらしなく着崩し、一人がニヤリと歪んだ笑みを浮かべる。
「誰だその女」
ユーリウスは即座にわたくしの手を強く握り、背後へと押した。
「関係ない」
短く吐き捨てるユーリウスの背中がいつもより大きく見える。
リーダー格らしき少年が舌打ちすると同時に他の二人が左右から挟み込む。
わたくしはユーリウスの裾を握りしめたまま動けなくなった。
足は地面に釘付けになったままだ。
「どこに行ってるかと思えば、女とちちくりあってんじゃねえよ、庶子の分際で!」
最初の一撃は見えなかった。
鈍い打撃音とともにユーリウスの身体が地面に叩きつけられる。
喉から漏れた短い呻き。
それでも彼はすぐに立ち上がり、わたくしを庇う位置に戻った。
鉛色の瞳が怒りで闇より濃く沈んでいる。
次の瞬間、他の少年たちも加勢し、ユーリウスの腹部を何度も蹴り上げる。
胃液の酸っぱい臭いがかすかに漂うが、それでも彼はただ立ち尽くし、攻撃を受け流すしか術がなかった。
圧倒的な体格差。
「おいおい、汚れちまったじゃねえか、謝れよ!」
嘲笑とともに飛来した石がユーリウスの額をぶつかる。
鮮やかな赤が空中に弧を描き、その血飛沫が頬にかかる感触で、ようやくわたくしの意識に届いた。
その赤が現実であると理解した時、全身の血液が瞬時に逆流し、直後沸騰する。
「やめて!」
ユーリウスと少年たちの間に滑り込んだ瞬間、わたくしに飛んできた石があたり、頭が熱くなる。
熱いものが奔流のようにこめかみから喉へと滴り落ちる。
鉄錆の味が口腔に広がる。
頭から垂れたわたくしの血と、頬についていたユーリウスの血が混ざり合う。
…真っ赤な海の上を漂っていた
紅海のさざ波が、世界をアカ色に染め上げていく
【母】が嘆いている
迷子を探し、【コウカイ】しているのだ
【助けなければ】
迷子に【オ】ちてしまった子を救わなければ
地上に汚された子たちを浄化し【カエ】すのだ…
?
今何かが…?
それでもなお、意識を失っているユーリウスを痛めつけようとする少年たちに、水面がドクリと心臓の鼓動のように揺れた。
「ひぃっ!何だこれは!?」
頭の中から海水が溢れ出す。
少年たちの足元にまで到達し、意思を持つかのように這い登るそれを、少年たちが悲鳴をあげながら、踊るようにもがく。
【かわいそうに】
【母】の悲しみと憐れみの波が、わたくしの思考を紅く塗りつぶしていく。
憐れな子どもたちを救わなければならない。
赤黒い水面が少年たちを捕らえ、呑み込んでいく。
「た、助けて…」
わたくしは彼らを安心させるように微笑んだ。
すると理解してくれたのだろう、絶叫も次第に弱まっていく。
液体が少年たちの全てを吸い込んでいき、穴という穴から液体が侵入し、やがて静寂が訪れる。
場は静寂に支配され、海は元のようにわたくしを通して母へと還る。
母の喜びが伝わってくる。
辛いばかりの地上に溢れてしまった迷子たちを、母は精一杯癒してくれる。
悪事と業と恨みに汚し、擦り切れてしまった魂は母に戻り、浄化された後に一体となって、幸福の内に原初の海を漂うのだ。
意識を失ったユーリウスの頭を、座り込んだ膝の上に乗せる。
額から滴り落ちる血を手で押さえつつ、白銀の髪は汗と泥で乱れている。
「アスタルト!」
あなたの血を拭いたくても手が上がらない。
目の前が真っ暗になり、平衡感覚が完全に失われる。
力の入らない体は重力に従う。
朦朧とした意識の中で、わたくしの名を呼ぶ母の声を聞いた気がした。




