第35話 闇宰相ヴァルツ
王国軍は撤退していた。
もはや整然とは言えない。
それでも。
完全な潰走でもない。
副官が走りながら言った。
「第三隊、再編!」
「負傷兵は後方へ!」
兵士たちは必死に動く。
疲労。
恐怖。
混乱。
だが、まだ軍は壊れていない。
その理由は一人。
レオンだった。
彼は振り返りながら指示を出す。
「弓兵は最後尾」
「追撃を警戒しろ」
副官が言う。
「……敵が来ません」
レオンは短く答える。
「来ない」
副官が眉をひそめる。
「なぜです?」
レオンは言った。
「次が来る」
副官の顔色が変わる。
「……四天王」
レオンは頷いた。
「闇宰相ヴァルツ」
副官が小さく息を呑む。
魔王軍四天王。
最も謎が多い男。
そして。
最も恐れられている男。
その頃。
戦場から少し離れた丘。
黒いローブの男が立っていた。
ヴァルツ。
闇宰相。
彼は静かに戦場を見ていた。
逃げていく王国軍。
崩れた戦線。
倒れた兵士。
隣に立つ魔族が言う。
「獣王ガルドが戦線を破壊しました」
ヴァルツは頷く。
「ええ」
静かな声。
「見事です」
部下が聞く。
「追撃しますか?」
ヴァルツは首を振る。
「必要ありません」
部下が首を傾げる。
「ですが」
ヴァルツは言った。
「彼らはもう壊れています」
部下が戦場を見る。
撤退する王国軍。
確かに乱れている。
だが。
完全に壊れているとは言えない。
ヴァルツは続ける。
「壊れた軍は」
「叩く必要はありません」
小さく微笑む。
「崩れるからです」
彼の手には短剣があった。
黒い刃。
光を吸い込む金属。
影鉄。
タクミが打った武器だった。
部下がそれを見る。
「その武器は」
ヴァルツは答える。
「優秀ですよ」
刃を見る。
「音がしない」
「魔力も漏れない」
そして言う。
「合理的です」
彼は短剣を鞘に戻す。
「さて」
戦場を見る。
「少し整えましょう」
その時だった。
別の魔族が走ってくる。
「報告!」
「王国軍指揮官を確認!」
ヴァルツが聞く。
「誰です?」
魔族が答える。
「レオンです」
ヴァルツの目が細くなる。
「なるほど」
少し考える。
そして言う。
「優秀ですね」
部下が聞く。
「暗殺しますか?」
ヴァルツは首を振った。
「いいえ」
静かな声。
「殺す必要はありません」
部下が戸惑う。
「ですが」
ヴァルツは言う。
「彼は」
「壊れない」
戦場を見る。
レオンが兵をまとめている。
崩れた軍を。
立て直している。
ヴァルツは小さく笑った。
「面白い」
そして言う。
「なら」
短剣を抜く。
影鉄の刃が静かに光る。
「周りを壊しましょう」
その夜。
王国軍の野営地。
兵士たちは疲れ切っていた。
焚き火がいくつも並ぶ。
誰もが黙っている。
一人の兵士が言った。
「今日は……」
「死ぬかと思った」
別の兵士が苦笑する。
「俺もだ」
三人目が言う。
「炎将」
「獣王」
震える声。
「化け物だ」
沈黙が落ちる。
その時だった。
焚き火の外。
闇の中。
一人の影が動いた。
ヴァルツだった。
音はない。
足音もない。
彼はゆっくり歩く。
兵士たちの後ろへ。
短剣を抜く。
影鉄。
静かな刃。
一瞬。
スッ。
兵士の首が裂けた。
血が流れる。
だが。
音はない。
ヴァルツは次の兵士へ歩く。
もう一度。
スッ。
また一人倒れる。
ヴァルツは短剣を見た。
小さく呟く。
「いい武器ですね」
そして闇へ消えた。
翌朝。
王国軍の野営地は
混乱していた。
兵士が叫ぶ。
「死体だ!」
「見張りが殺されている!」
副官が走ってくる。
「何人だ!」
兵士が答える。
「……七人」
副官の顔が青くなる。
「戦闘の痕跡は?」
兵士が首を振る。
「ありません」
レオンが死体を見る。
傷は一つ。
喉。
一撃。
レオンは静かに言った。
「……始まった」
副官が聞く。
「何がです?」
レオンは答える。
「ヴァルツだ」
兵士たちがざわめく。
恐怖が広がる。
戦場ではなく。
夜。
闇の中。
誰かが殺される。
それは兵士たちの心を壊す。
レオンは空を見た。
そして呟く。
「厄介だ」
遠くの丘。
ヴァルツが戦場を見ていた。
彼は静かに言う。
「壊れ始めました」
そして微笑む。
「ここからです」
霧が戦場の跡を覆っていた。
焦げた地面。
壊れた槍。
副官が呟く。
「気づけなかったのか……」
兵士が震えた声で言う。
「誰も……」
「物音もありませんでした」
その空気を切るように声が落ちた。
「闇宰相ヴァルツ」
レオンだった。
兵士たちが顔を上げる。
副官が言う。
「四天王……」
レオンは頷く。
「魔族の知将だ」
副官が黙る。
レオンは死体を見たまま続ける。
「これが始まりだ」
兵士たちが息を呑む。
レオンは言った。
「奴は軍を壊す」
沈黙。
誰も反論しない。
その頃。
戦場から離れた丘。
黒いローブの魔族が立っていた。
ヴァルツ。
魔王軍四天王。
闇宰相。
風が吹く。
ローブが揺れる。
ヴァルツは静かに言う。
「恐怖は」
「ゆっくり広がる方が効きます」
その夜。
王国軍の野営地。
兵士たちは眠れなかった。
一人が言う。
「七人だぞ」
別の兵士が答える。
「見張りだ」
三人目が言う。
「俺たちも寝てる間に……」
沈黙。
誰も火から目を離せない。
その時。
伝令が走ってきた。
「命令です!」
副官が紙を受け取る。
そこには書かれていた。
『第一隊、南へ移動』
副官が地図を見る。
南。
森。
そして。
魔王軍の可能性。
副官が言う。
「妙です」
レオンが紙を取る。
一目見て言った。
「偽命令だ」
兵士たちがざわめく。
副官が聞く。
「なぜ分かるのです?」
レオンは答えた。
「司令部はこの地形を使わない」
その時だった。
兵士が叫ぶ。
「第三隊が動きました!」
副官の顔色が変わる。
「何だと!」
レオンは静かに言った。
「始まった」
その頃。
森の中。
王国軍第三隊が進んでいた。
隊長が言う。
「ここで再編する」
その瞬間。
森の奥から矢が降った。
魔族兵が飛び出す。
伏兵だった。
王国軍第三隊は。
壊滅した。
翌朝。
報告が届く。
副官が青ざめた。
「第三隊……」
レオンが聞く。
「どうした」
副官が答える。
「全滅です」
兵士たちが凍りつく。
レオンは空を見る。
そして呟く。
「やはり来た」
副官が言う。
「ヴァルツです」
レオンは頷いた。
「そうだ」
そして低く言う。
「次が来る」
副官が聞く。
「次……?」
レオンは地図を見る。
そして言う。
「奴は」
「軍を壊しに来ている」
兵士たちを見る。
疲労。
恐怖。
疑心暗鬼。
すでに軍は限界に近い。
レオンは決断した。
「野営はしない」
副官が驚く。
「え?」
レオンは言う。
「夜は暗殺される」
「なら」
「進み続ける」
副官が言う。
「昼夜行軍ですか」
レオンは頷く。
「そうだ」
兵士たちがざわめく。
だが誰も反対しない。
ここで止まれば。
また夜が来る。
そして誰かが死ぬ。
王国軍は。
進み続けた。
昼も。
夜も。
歩き続ける。
疲労は積もる。
兵士たちの足取りが重くなる。
副官が言った。
「……限界です」
レオンは前を見る。
そして静かに言う。
「来るな」
副官が聞く。
「何がです?」
レオンは答えた。
「最後の一押しだ」
その頃。
丘の上。
ヴァルツが戦場を見ていた。
部下が報告する。
「王国軍、昼夜行軍」
ヴァルツは微笑んだ。
「読まれましたね」
部下が聞く。
「追撃しますか?」
ヴァルツは首を振る。
「いいえ」
遠くを見る。
歩き続ける王国軍。
疲労が溜まっている。
「もう少しです」
部下が聞く。
「何がです?」
ヴァルツは答えた。
「崩壊です」
そして後ろを振り返る。
そこには一隊がいた。
揃いの武器を持つ魔族兵。
その先頭。
赤い髪の少女。
リアナ。
リアナが笑う。
「準備できてるッス!」
ヴァルツは静かに言う。
「ご苦労様です」
そして戦場を見る。
疲れ切った王国軍。
「今です」
リアナが剣を担ぐ。
「突撃ッスか?」
ヴァルツは頷く。
「はい」
小さく微笑む。
「軍を壊してください」
リアナの目が光る。
「了解ッス!!」
剣が掲げられる。
魔王軍が動き出す。
その頃。
王国軍後方。
レオンが空を見た。
そして言った。
「来る」
副官が振り向く。
その瞬間。
森が揺れた。
魔族兵が飛び出す。
先頭に立つ赤髪の少女。
剣が光る。
「突撃ッス!!」
魔王軍が雪崩れ込む。
王国軍の後衛が崩れる。
副官が叫ぶ。
「伏兵!」
レオンは剣を抜いた。
そして言う。
「……なるほど」
副官が聞く。
「?」
レオンは前を見る。
突撃してくる槍兵。
「これが」
静かに言う。
「最後の一押しか」
剣を構える。
そして副官に言った。
「指揮を引き継げ」
副官が凍りつく。
「レオン様!?」
レオンは振り返らない。
「軍を逃がせ」
前を見る。
赤髪の魔族兵。
「俺が」
剣を構える。
「殿をやる」
風が吹く。
戦場が止まる。
そして。
ふたりが向き合う。
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