第2節:「奇跡」の調査
「……貴殿の言葉だけでは、判断いたしかねますな」
俺の反論が、ことごとく神学的な論理ですり替えられていくのを冷徹に見届けたヴァレリウスは、まるでそれが当然の帰結であるかのように、静かに次の段階へと駒を進めた。彼の氷の瞳は、俺の論理的な説明を「異端者の言い訳」とでも断じているかのようだ。
「貴殿が言う『理』とやらが、本当に領民のためになっているのか。それとも、巧妙な言葉で彼らを欺き、悪魔の教えで人心を掌握しているだけなのか。それを、この地の人々の、生の声で確かめさせてもらう」
彼はそう宣言すると、俺に背を向け、不安げな表情でこちらを遠巻きにしている領民たちへと、ゆっくりと歩み寄った。その姿は、まるで迷える子羊たちに手を差し伸べる、慈悲深き牧者のようだった。だが、俺には、獲物の群れに近づく、白く美しい狼にしか見えなかった。
「恐れることはない、グレイウォールの民よ」
ヴァレリウスの声は、俺と対峙していた時の冷徹さが嘘のように、穏やかで、包み込むような響きを帯びていた。この世界の人間が、神官に対して抱いている絶対的な畏敬の念を知り尽くした、完璧な声色だった。
「我ら中央神殿は、汝らの苦しみを救うために来た。この異邦人、サガラ・サトシが来てから、汝らの生活にどのような『変化』があったのか。ありのままを、神に誓って話してほしい」
領民たちは、顔を見合わせた。この絶対的な権威を前に、真実を語るべきか、それとも神殿の意に沿うような答えをすべきか、迷っている。その沈黙を破ったのは、この村で最も長く神に祈りを捧げてきたであろう、長老だった。彼は、おずおずと一歩前に出ると、ヴァレリウスの前に深く頭を下げた。
「は……。審問官様。サトシ様は……我らの、大恩人様にございます」
「ほう、大恩人とな」
ヴァレリウスは、穏やかな表情を崩さない。だが、その瞳の奥が、冷たく光ったのを俺は見逃さなかった。
「はい。我らは、長年、呪われた水に苦しめられておりました。飲むと腹を下し、赤子は命を落とすことも……。神にどれほど祈りを捧げても、水は清められることはございませんでした。ですが、サトシ様は、その呪いを、たった一日で解いてくださったのです。今では、この通り、清らかな水が飲めるように……」
長老の言葉は、偽りのない感謝に満ちていた。彼は、この「事実」を伝えれば、神殿も聡の行いを認めてくれるだろうと、純粋に信じているのだ。
だが、ヴァレリウスは、その言葉を遮るように、静かに、しかし厳しく問いかけた。
「長老よ。その『呪い』は、汝らの祖先が、かつて神の怒りに触れたために下された『神罰』であったと、神殿の記録にはある。貴殿たちは、その罰を甘んじて受け入れ、日々祈りを捧げることで、罪を償ってきたのではないのか?」
「そ、それは……確かに、そう聞かされておりましたが……」
長老の顔色が変わる。
「この異邦人は、汝らの『償い』の機会を奪ったのではないか? 神の罰を、人の浅知恵でねじ曲げ、一時的な安楽を与えることで、汝らの魂を、永遠の救いから遠ざけたとは……考えなかったのか?」
「ひっ……!」
長老の顔から、血の気が引いた。感謝を述べたつもりが、神への「背信」を指摘されたのだ。彼は、恐怖に震え、言葉を失ってしまった。領民たちの間にも、恐怖が伝染していく。
次に、ヴァレリウスが目を付けたのは、俺の背後で拳を握りしめていたボルツだった。その頑健な体躯と、煤に汚れたエプロンが、彼の職業を雄弁に物語っていた。
「そこの屈強な男よ。貴殿は鍛冶師ですかな? 貴殿も、サトシ殿の『奇跡』とやらを目撃したか?」
ボルツは、長老のように怯えはしなかった。彼は、ヴァレリウスを睨みつけるように一歩前に出た。
「奇跡なんてもんじゃねえ。ありゃあ『科学』だ。俺は、先生に教わったんだ。鉄が、なぜ鉄なのかをな!」
ボルツは、反射炉の建設から鋼の誕生までの経緯を、熱っぽく語り始めた。
「鉄鉱石の問題じゃねえ、炉の温度と、混ざっちまう『炭素』の量が問題だったんだ! 俺は、先生の『理科』のおかげで、このグレイウォールで、王都のどんな剣よりも強靭な『鋼』を打てるようになったんだ! これは、俺の技と、先生の知恵の結晶だ!」
ボルツの言葉は、職人としての誇りに満ちていた。これこそが、俺の科学の正当性を証明する、力強い証言になるはずだった。
だが、ヴァレリウスは、待ってましたとばかりに、その言葉尻を捉えた。
「『鋼』……。人に許されたるは、土くれから鉄を鍛えることまで。鉄を、さらに硬く、強く変質させる『鋼』の製法は、神に仕える聖なる鍛冶師にのみ、その秘儀が許されるもの。それを、神の名も知らぬ異邦人が、貴殿のような一介の職人に与えた……」
ヴァレリウスは、わざとらしく溜息をついた。
「それは、まさに、禁断の果実だ。悪魔が、人をそそのかし、神に匹敵する力を与えようとした、原初の罪と、全く同じ構図ではないか。貴殿は、その甘言に乗り、悪魔の業に手を貸してしまったのだぞ?」
「なっ……! でたらめを言うな! 俺の鋼を、悪魔の業だと!?」
ボルツが激昂し、ヴァレリウスに掴みかかろうとする。だが、その前に、ヴァレリウスの周囲を固める神殿騎士たちが、機械のような速さで動いた。硬い槍の柄が、ボルツの鳩尾を正確に突き、彼の巨体を地面に組み伏せた。
「ボルツさん!」
俺が叫ぶより早く、今度はセーラお婆さんが、震える足を叱咤するように前に出た。
「お待ちくだされ! 審問官様! サトシ様は、悪魔などではありませぬ! この老婆の、凝り固まった古い知恵に、新しい光を与えてくださったお方です!」
彼女は、疫病の一件を語り始めた。薬草の限界、石鹸による予防、そしてエタノールによる消毒という『化学』の力。ミミたちが奇跡的に回復した経緯を、涙ながらに訴えた。
「わしら薬草師が救えなかった命を、先生は『清潔』と『消毒』という新しい知恵で救ってくださったのです! これが、神の御心に適わぬなどと、誰が言えましょうか!」
セーラの必死の訴え。それは、最も力強い証言になるはずだった。
だが、ヴァレリウスは、その整った顔に、初めて、憐れみとも侮蔑ともつかない、冷たい笑みを浮かべた。
「老婆よ。貴殿の行いは、薬草師として、あまりにも愚かだ」
「……何と?」
「病とは、神が人に与える試練。あるいは、その者の罪に対する罰だ。それを生き長らえさせるか、召されるかは、全て神の御心一つ。我ら神官が行う『治癒』とは、神に祈りを捧げ、その御心を問う儀式に他ならない。だが、貴殿たちはどうだ? 神の判断を待たず、傷を焼き(消毒)、体を清め(石鹸)、強引に死から命を引き離した。それは『治癒』ではない。神の決定に対する、最も傲慢な『反逆』だ」
セーラお婆さんは、その場にへなへなと座り込んだ。彼女の長年の誇りであった薬草師としての仕事、そして、聡と共に成し遂げた疫病の克服という偉業が、神への「反逆」という、最も重い罪にすり替えられたのだ。
感謝の言葉を述べれば述べるほど、それが俺の「罪」として積み上げられていく。
水の浄化は、神罰の妨害。
鋼の製法は、悪魔の業。
病の克服は、神への反逆。
領民たちは、自分たちの証言が、慕う領主を異端者として追い詰めているという事実に気づき、恐怖と混乱で完全に口を閉ざしてしまった。
ヴァレリウスは、静まり返った領民たちを見回し、満足げに頷いた。
「……調査は、十分ですかな。サガラ・サトシ。貴殿の行いは、ことごとく神の秩序を乱し、この地の敬虔なる民の信仰を、悪魔の知恵で汚染するものだ。これ以上の弁明は、無用であろう」
彼は、俺に、事実上の「有罪」を宣告しようとしていた。




