第5節:夜食と優しい時間
予防(石鹸)と、治療(消毒用エタノール)。二つの強力な武器を手に入れたことで、グレイウォールを覆っていた疫病の嵐は、ようやく収束の兆しを見せ始めていた。新たな発症者は激減し、万が一、開墾作業で怪我を負っても、すぐに高濃度のエタノールで消毒すれば、重症化することはなくなった。村には、安堵のため息と、かすかな希望の光が戻りつつあった。
だが、俺の戦いはまだ終わっていなかった。消毒という手段が確立される前に体内に細菌の侵入を許してしまい、高熱にうなされ続けているミミたち、数名の重症患者を救う手立てが、まだ見つかっていなかったからだ。破傷風菌が産生する毒素は、すでに彼らの神経を蝕み始めている。外からの消毒では、もはや手遅れだった。
俺は、仮住まいにしている小屋に、簡易的な実験室をしつらえ、連日連夜、研究に没頭していた。壁には、この世界に存在する植物のスケッチと、その薬効に関するセーラからの聞き取り調査をまとめたメモが、びっりと貼られている。机の上には、様々な薬草を乳鉢ですり潰したサンプルや、それらをエタノールに浸して成分を抽出しようと試みた、色の違う液体の入った小瓶が、無数に並んでいた。
(体内に直接作用し、かつ人体には無害な殺菌物質……抗生物質。地球ならば、ペニシリンを生産するアオカビを探すのが定石だ。だが、この世界の菌類の中から、都合よくペニシリンを生産してくれるカビを見つけ出すなんて、天文学的な確率だ。それに、培養にも時間がかかりすぎる……。もっと、現実的な方法は……。植物由来のアルカロイドか? セーラの知識の中に、何かヒントが……)
俺は、何日も寝ていない頭で、書きかけのメモと、地面に描いたベンゼン環の化学式を睨みつけながら、頭を抱えていた。窓の外は、すでに三日月の浮かぶ漆黒の闇に包まれている。集中するあまり、食事も睡眠も、完全に疎かになっていた。思考だけが、空回りして焦りを募らせる。
その時だった。
コン、コン、と、控えめに、しかし芯のある音が、小屋の扉をノックした。
「……誰だ?」
返事をする声が、自分でも驚くほど、かすれていた。
「……私です。アリアです。先生、入っても、よろしいでしょうか」
扉を開けると、そこには、木の盆を持ったアリアが、心配そうな、そして少しだけ怒っているような、複雑な表情で立っていた。盆の上には、湯気の立つ素朴な土の椀と、村で焼かれた黒パンが一切れ乗っている。
「先生、今日、まだ何も召し上がっていないでしょう? ロイドさんが心配していました。このままでは、ミミちゃんたちを救う前に、先生が倒れてしまいます」
彼女は、有無を言わさぬ様子で、静かに部屋の中に入ると、散らかり放題の机の上を、手際よく少しだけ片付けて、盆を置いた。椀から立ち上る湯気は、鳥のガラと、畑で採れた野菜をじっくり煮込んだ、優しくて滋養に富んだ匂いがした。
「……すまない。助かる」
強烈な空腹だったことに、その時初めて気づいた。俺は、まるで何かに憑かれていたかのように、椅子にどかりと腰を下ろし、黙々とスープを口に運んだ。疲労しきった体に、温かい液体と、塩分が、じんわりと染み渡っていく。生き返る、とは、まさにこのことだった。
アリアは、何も言わず、ただそばの椅子に静かに座って、俺が食べ終わるのを待っていた。部屋には、暖炉の薪がパチパチとはぜる音と、俺が夢中でスープをすする音だけが響いている。その沈黙が、不思議と心地よかった。
「……先生」
やがて、俺が空になった椀を置くと、アリアが、ぽつりと言った。
「あまり、ご自分を追い詰めないでください。先生は、もう一人ではありません。私たちがいます。ボルツさんも、セーラお婆ちゃんも、ロイドさんも……みんな、先生から教わった科学で、この村を救おうと、自分にできることを必死でやっています」
その言葉に、俺はハッとした。
そうだ。俺は、いつの間にか、また一人で戦っているつもりでいた。この問題は、俺の知識がなければ解決できないと、無意識に驕っていたのかもしれない。だが、違う。石鹸を作ったのは、村人たちだ。蒸留装置を作ったのは、ボルツだ。薬草の知識をくれたのは、セーラだ。科学は、もう俺一人のものではなかった。それは、グレイウォールの、みんなの武器になっていたのだ。
「……ありがとう、アリア」
俺は、空になった椀を置き、心からの感謝を伝えた。
「君の言う通りだ。少し、焦りすぎていたみたいだ。みんなの力を、信じないとな」
アリアは、その言葉に、心からほっとしたように、ふわりと花が咲くように微笑んだ。それは、この殺伐とした、生存競争の毎日の中で、俺が初めて見る、心からの安らぎを与えてくれる、優しい笑顔だった。
「いつでも、夜食、作りに来ますから。だから、ちゃんと休んでくださいね」
彼女はそう言うと、少しだけ名残惜しそうに立ち上がり、盆を持って、静かに部屋を出て行った。
一人残された部屋で、俺は、まだ温もりが残る椀を眺めていた。アリアがもたらしてくれたのは、ただの食事ではなかった。それは、明日へ向かうための、温かい勇気そのものだった。そして、彼女の存在が、この異世界での孤独な戦いの中で、かけがえのない支えになっていることに、俺は気づき始めていた。
(よし。もう少しだ。俺一人じゃない。みんなとなら、必ず、道は見つかる)
俺は、新たな決意を胸に、今度は少しだけ穏やかな気持ちで、研究のメモへと向き直った。




