第4節:命の水、再び
石鹸による手洗いの習慣化。それは、新たな感染者が生まれるのを防ぐための、強力な防波堤となった。村人たちの間に「清潔」という概念が芽生えたことで、集落全体の衛生環境は劇的に改善された。だが、それはあくまで予防策に過ぎない。すでに傷口から体内に侵入してしまった細菌に対しては、無力だった。開墾作業で深く切り傷を負った者が、数日後に高熱を出して倒れる、という最悪のケースが、依然として後を絶たなかった。
「傷口を、直接清めることができれば……傷口に入り込んだ『悪いもの』を、殺すことができれば……」
セーラお婆さんは、薬草をすり潰した緑色の湿布を、熱に浮かされる若者の傷に当てながら、祈るように、そして悔しそうに呟いた。彼女が使う薬草には、確かに炎症を抑え、痛みを和らげる効果はある。だが、目に見えない侵入者そのものを殺す力は、残念ながらなかった。傷は、表面上は塞がっているように見えても、その奥深くで、静かに、しかし確実に化膿し、全身へと毒を巡らせていく。
「殺菌、か……。それなら、もっと強力な『水』が必要だな。傷口を洗い流すだけじゃない。そこにいる敵を、根こそぎ焼き払うような、見えざる炎の水が」
俺の呟きに、そばで薬草の仕分けをしていたアリアと、腕を組んで治療の様子を眺めていたセーラが、同時に顔を上げた。
「強力な、水……ですか?」
「ああ。火のように熱く、全てを清める『命の水』だ」
俺は、鍛冶師のボルツを呼び寄せた。彼は、製鋼の一件以来、口ではあれこれ言いながらも、俺が何か新しいことを始めると聞けば、必ずどこからともなく現れる、最も熱心な(そして最も態度の悪い)生徒の一人となっていた。
「ボルツさん、またあんたの腕を借りたい。こういう装置を作ってほしいんだ」
俺は地面に、簡単な蒸留装置の図を描いた。密閉できる大きな鋼鉄の壺(蒸留釜)。そこから伸びる、冷却用の水で満たされた木桶の中を蛇行するように通る、長い銅製の管(冷却管)。そして、管の先から液体が滴り落ちるのを受ける、ガラス製の壺。
「なんだこりゃあ。また何か煮詰めるのか? 前の反射炉より、ずいぶんとややこしい構造だな。……ふん、まるで蛇がとぐろを巻いてるみてえだ。酒でも作る気か?」
ボルツの無骨な指が、図面の中の冷却管をなぞる。彼の指摘は、驚くほど的を射ていた。
「半分正解だ、ボルツさん。村で飲んでいる、あの酸っぱくなった果実酒。あれを、この装置で煮詰めて、もっともっと強力な酒を造るんだ」
村では、収穫したベリーなどを甕に入れ、自然発酵させただけの、アルコール度数の低い、酸っぱいどぶろくのようなものが飲まれていた。これには、微量ながらも、アルコール、つまりエタノールが含まれている。俺たちの文明では消毒薬としてあまりに有名な、あのエタノールだ。
「いいか、よく聞けよ。水と、酒の素である『エタノール』では、沸騰する温度が違うんだ。水は100度で沸騰するが、エタノールはもっと低い、約78度で気体になる。この性質を利用する。果実酒をゆっくり温めていくと、水が沸騰する前に、エタノールだけが先に気体になって、釜の中から逃げ出そうとする。その気体だけを、この蛇みたいな銅の管に集めて、水で一気に冷やしてやる。すると、気体はまた液体に戻る。そうすれば、水と分離された、ものすごく濃い、純粋なエタノールだけが取り出せる。これが『蒸留』だ」
ボルツは、最初こそ半信半疑だったが、俺の理路整然とした説明と、彼の職人としての探求心が結びつき、「なるほどな……! 気体にしてから集めて冷やすたぁ、考えたもんだ。熱で性質を変える鉄とは逆の発想か。面白い!」と、ニヤリと目を輝かせた。彼の精密な金属加工技術は、まさにこの気密性の高い装置を作るためにあった。
数日後、ボルツが鋼と銅を巧みに組み合わせて作り上げた、機能美にあふれる美しい蒸留装置が完成した。
俺たちは、村中の家から、飲み残されて酸っぱくなった果実酒をかき集め、蒸留釜に満たした。そして、炉の火を調整しながら、慎重に、ゆっくりと加熱していく。やがて、釜の中が静かに沸騰を始めると、気化したエタノールが、見えない力に導かれるように銅の冷却管へと送られていく。そして、冷却管の先にあるガラスの壺に、無色透明の液体が、ポタリ、ポタリと、宝石のように滴り始めた。
俺は、その液体を指先に少しつけ、舐めてみた。
「……っ! 辛っ!」
舌が、焼けるように熱い。鼻腔を突き抜ける、強烈なアルコールの刺激。間違いなく、70%以上の高濃度エタノールが精製されている。
俺は、その液体を小さな瓶に詰め、セーラお婆さんと、開墾作業で足に深い切り傷を負ってしまった若者の元へ、急いで持っていった。
「セーラさん、これであの子の傷を拭いてやってくれ。湿布はその上からだ」
「こ、こんなもので……本当に……?」
セーラが戸惑う中、俺は、アリアに手伝わせて作った清潔な布にエタノールを染み込ませ、躊躇なく若者の傷口を拭った。
「うわぁぁぁっ! しみる! 焼けるようだ!」
若者が、凄まじい痛みでのたうち回る。無理もない。だが、その痛みこそが、細菌が死滅していく断末魔の叫びなのだ。
数日後。同じ日に、同じような怪我をした他の村の者が、傷口を化膿させ、高熱を出して寝込む中、エタノールで消毒した若者の傷だけは、赤みも腫れも引いて、驚くほど綺麗に治り始めていたのだ。
「……信じられん。わしが何十年もかけて学んだ薬草の知恵が、こんなただの『強い酒』に、いとも簡単に負けるとは……」
セーラは、目の前で起きている厳然たる事実に、ただただ驚愕していた。彼女は、自らの経験と知識の限界を、そして科学という新しい知の、底知れない可能性を、認めざるを得なかった。
この日を境に、セーラは、ボルツに次ぐ、俺の二番目の年上の生徒となった。彼女は、薬草学という古い知恵に、化学という新しい翼を手に入れたのだ。




