最終話
かのテゲン領の魔獣騒ぎから、約三年の月日が流れていた。
自らの経営する孤児院、もとい子らのため、魔女ルヴィは常に十以上は同時に世界に存在することにしている。
彼女らの記憶は全て共有されており、ゆえに存在の分割限界は並列思考の可能限界とほぼ同数となっていた。
そんな分割された魔女の内の一人、テゲンから三国ほど離れた遠い北方の地で活動するルヴィが、ほぼ一年中雪に覆われている森の深くで、束の間顔を出した薬草を採取していた時のこと。
ふいに、背後から人の近づく気配を感じ、彼女は屈めていた腰を伸ばしてゆっくりと振り返った。
しばらくして木々の隙間から姿を現したのは、けしてこのような場所に居るはずのない一人の青年である。
「おおっ。久しいな、ルヴィ」
彼は視線の先に魔女の存在を認めると、途端に少年のような無邪気な笑みを浮かべて足早に駆け寄った。
一方の彼女は信じがたいその光景を、ただ呆然と眺めることしか出来ずにいる。
近付かれればやはり見間違えようのない青年の正体を、ルヴィはポツリと口から溢した。
「……領主……殿?」
そう。彼はかつてテゲンで魔女に助力を嘆願した領主、パダラム・キーダ・リーバ、その人だ。
各国の入国審査や移動時間など諸々を含め、どれほど急いだところで片道一月はかかるこの地に現れることは立場上不可能なはずの男だった。
困惑する彼女に、領主はまるで気のおけない友人を相手にするかのごとく朗らかに会話を始める。
「孤児院へ関わるなと言われていたから、こうして探し出すまでに随分と時間がかかってしまった。
そうだな……約、あー、三年ぶりか。
情報も眉唾なものが多かったからな。ここで出会えたのは、中々に幸運だった」
以前の記憶と、現在の彼の様子が上手く重ならない。
どことなく、雰囲気に違和感があるのだ。
魔女は訝しがりつつ領主に尋ねる。
「なぜ、ここが……いや、それよりテゲンはどうした」
「あぁ、先頃成人したばかりの従弟殿に譲って来た。
これからはパダラムと呼んでくれ」
「っ馬鹿な!
捨てて来たと言うのか、あれほど慈しんでいた自らの民を!?」
あっさりと返された問いの答えに、彼女は納得すると同時に驚愕した。
彼の纏う空気が目に見えて軽くなっているのは、おそらく、領主という責のある立場から解放されたがゆえのものなのだろう。
だが、ルヴィの知る領主パダラムは、己の民を守ることに何より重きを置く、今の世に珍しくどこまでも愚直な男であったはずだ。
だから、彼が成人直後だという年若い従弟にその立場を渡したという事実が、彼女には不思議でならなかった。
「はは、捨てたなどとは言い草だ。
少々若くはあるかもしれんが、アレは俺などより遥かに才気に溢れた男だぞ。
それでいて研鑽を怠らず、謙虚さを失わず、不思議と人を惹きつける魅力に溢れている。
ただ盲目に前を見ることしか出来なかった俺とは違い、多くの者と支え合いながらテゲンをより良い地にしてくれるだろう」
晴れやかな表情からは、パダラムが真実そう思っているであろうことが窺える。
ようやく彼の心情を理解したルヴィは、ひとつ小さな吐息を落として頷いた。
「……そうか」
「あぁ」
「しかし、新領主とやら。年若い身であるのなら、経験も何も不足していよう。
前任であるお前は、支えてやらずとも良かったのか。
従弟殿は、お前を必要とはしなかったのか」
彼がここに立っているという事実がすでに答えであり、軽い気持ちで投げた疑問だった。
けれど、パダラムはすっと笑みを消し表情を硬く引き締めて、彼女を正面から見据えてくる。
「止められはした。が、もちろん最低限は引き継いである。
もう領主ではないのだ、好きに生きさせてもらうさ」
記憶の中よりもなお熱く注がれる彼の視線に耐え切れず、ルヴィはそっと顔を逸らす。
パダラムの急ぎすぎる退任の、その原因は明らかだった。
慣れぬ場面に立たされ、頼りなげな少女のように身を翻し逃げ出してしまいたくなる感情を、魔女としての矜持が押し止める。
そうして動かぬ表情の裏で彼女が当惑している間にも、彼はさらに距離を詰め細く白い指に手をのばして、そっと持ち上げた。
瞬間、魔女の身体が小さく跳ねる。
「……パダラム?」
「共に生きよう、ルヴィ。
そのために必要なことならば、俺はどんな努力も厭うつもりはない」
「共に……生きる?」
「あぁ」
言われて、彼女は今さらながら気付いた。
伴侶とは自らの隣に立ち同じ未来を見つめ歩む者だ。
やがて巣立ってゆく幼子たちとは違い、その命の終わりまで寄り添い続ける者のことだ。
その事実に思い至った魔女は、己の愚かさ加減を嘲笑せずにはいられなかった。
元より知っていたはずであるのに、浅はかにも忘失したかのように自らを偽り、ありもしない幻に縋りかけていた自分が酷く惨めだった。
「共に……生きる……だと?
っふ、はは、たかが人間ごときが、この私と共に?」
「……ルヴィ?」
「思い上がるな、下等生物!」
唐突に態度の豹変したルヴィに、パダラムは目を見開いて動きを止める。
叫びつつ、魔女は真に思い上がっているのは己自身だと自嘲した。
だから、彼女は彼女の考えうる限り最低の結末を用意してやろうと思った。
怒りに染まるふりをしながら、自らを断罪するシナリオを脳に描いていく。
「ル……っ」
「黙れ!」
魔女は掴まれていた指先を強く弾き、次いで後方へと跳躍してパダラムから些かの距離を取った。
途端、彼女の肉体から粘り気のある濃紺の瘴気が激しく噴出する。
瞬間的に豪風に襲われたパダラムは、眼前に腕をかざし吹き飛ばされぬよう足に力を込めて耐え忍んだ。
やがて、慎重に開いた瞼の先……そこに、一体の異形が立っていた。
青く鱗の生えた硬質な皮膚、全身から大小浮かび上がるガラス玉のような緑の眼球群、頭髪はまるで生き物のようにその一本一本が怪しくうねり、大きく裂けた口から血の様に赤く鋭い牙が覗いている。
体表には不気味な文様が幾筋も走り、どこか鎧にも似たシルエットを持つ肉体はドクリドクリと脈動を繰り返していた。
異形は紫紺の割れ舌を蛇のように出し入れしながら、しわがれた禍々しい声で鳴き始める。
「我が名は、ルヴァニディア。
魔界三帝が一人、ルヴァニディア・フェレ・ゾ・ドラヴィグール。
児戯なる世界に巣食う虫けらが、至高の存在たるこの我を前に囀るなど、おこがましいにも程がある」
人の世に放浪する麗しの魔女は、魔界を統べる悍ましき化け物であった。
驚きによるものか、恐怖によるものか、パダラムは身じろぎひとつすることなく固まっている。
「疾く去ね。その身を我が血肉へと捧げられたくなくばな」
人間の愛など脆いものだと、これで全て終わったのだと、心のどこかで安堵するルヴィ。
しかし、彼女の予想と裏腹に、パダラムがその場から立ち去ることは無かった。
「構わん」
「……なに?」
「構わん。俺は言ったはずだ。
お前と共に生きるためならば、どのような努力も厭わないと。
この身を差し出すことが唯一その手段であると言うのなら、甘んじて受け入れてやる」
「っ馬鹿な! 貴様、死が恐ろしくはないのか!
この私が、恐ろしくはないのか!!」
虚勢と共に真実を明かせば、むしろ狼狽えたのはルヴィの方であった。
二人が出会ったその時から、彼の瞳は常に真っ直ぐと彼女に向けられており、穢れ濁ることなど一度として有りはしなかった。
それは、たった今現在においても何ひとつ変わらない。
熱を湛えたままの視線で、彼はじっと異形を見つめていた。
「死は恐ろしい。
だが、お前を失うことの方が、俺にはもっとずっと恐ろしい」
「…………パダ……ラム」
彼の言葉を受けて、徐々にルヴィの頭髪のうねりは鎮まり、同時に全身の強張りが解けていく。
間もなく、魔界の怪物は人の姿を取り戻していた。
期を逃さず、パダラムは歩を進め再び彼女の手を取る。
拒絶はされなかった。
「ルヴィ、どうか俺の妻に。
そして、子を産み家族となってくれ」
瞬間、魔女の表情が泣きそうに歪む。
そこに浮かぶ感情は、歓喜ではなく失望だ。
「…………私は……人ではない。
子など生せぬ」
魔界の住人たる彼女は、自身がどれほど望もうと子を孕むことが出来ない。
いかに人と酷似する魔女の肉体を持とうと、ルヴィは人間とは根本から異なる生物だ。
全ての者は淀みより生まれ、強さこそが唯一の正義とされる殺伐とした魔界のその頂点に君臨する彼女は、人を脆弱だ愚かだと蔑みながら、愛し愛され子を産み時代を繋いでいく彼らを、心の底では羨望し、また妬んでいた。
幼子を溺愛するのも、その他を忌み嫌うのも、全ては彼女の中にある魔界の者らしからぬ歪みゆえだ。
やはり夢は夢であったとルヴィが自らを諦めかけた時、パダラムの穏やかな声が響く。
「ならば、それでも良い。すでにお前には多くの子がいるだろう。
互いにそうだと信じさえすれば、人は誰しも家族になり得る。
血の繋がりだけが条件であるのなら、その中心たる夫婦は永遠に他人のままのはずだ。
お前が望むならば、俺は孤児たちの良き父となろう」
その主張に、彼女の目がハッと見開いた。
ルヴィの頭の中で、自分を母と呼び慕う幼子たちの姿が次々に現れては消えていく。
全員が血の繋がらぬ孤児であったが、彼らは間違いなく彼女の娘であり、息子であり、彼女は間違いなく彼らの母であった。
そう。欲するものは、とうの昔にその手の中にあったのだ。
ルヴィは急速に視界が開けていくような、そんな未知の感覚を味わっていた。
実に清々しい気分だった。
「愛している、ルヴィ。
どうか、俺の生涯ただ一人の伴侶となってくれ」
幾度目かになるパダラムの求婚の言葉に、今度こそ彼女は己の素直な感情を吐露することに成功する。
「本当に良いのか、パダラム。
私はこの世界の住人ですらないのだぞ。
人間など、魔女からすれば瞬きよりもなお短い時しか生きられぬ、か弱い種でしかない。
その一生を奪うなど……そのようなこと、私は……」
ルヴィは俯きがちに眉間に皺を寄せた。
一方で、ようやく彼女からのまともな答えを得たパダラムは、緩む頬を抑えることなく浮ついた声で冗談とも本気ともつかない言葉を口にする。
「そうか。
では、いずれお前には寂しい思いをさせてしまうな。
すまない。先に謝っておこう」
「っな!? パダっ……こ、このっ、痴れ者が!」
「はは」
敏い彼女は即座にその意味を察し、薄らと頬を染めて恥ずかし紛れに彼を罵った。
もし彼らが夫婦となった場合、人間であるパダラムは十中八九ルヴィを残して逝くことになるだろう。
そうなれば、深く夫を愛する妻はその死を嘆かずにはいられないはずだと、彼女の心に自らが宿っていることを確信し同時に指摘する発言だったのだ。
それが自惚ればかりでないのは、ルヴィが敢えてその単語を口にしなかったことで明らかだった。
拗ねる様に視線を外す彼女の頬へ、パダラムはゆっくりと両手を添える。
「ルヴィ」
甘く名を囁けば、穏やかな翠玉の瞳が彼を映した。
その輝きに吸い込まれるように、互いの距離が狭まっていく。
「…………心変わりなど、許さぬぞ」
触れ合わせた唇を離せば、未だ額のぶつかり合う近さで魔女が軽くパダラムを睨んだ。
彼はそんな彼女の想いを面映ゆく感じ、声を出さずにクスクスと笑う。
「万一にもそんなことは有り得ないが、不安だと言うならこの命にかけて誓おう。
我が魂尽き果てるまで、ルヴァニディア、お前だけを愛しぬくと」
「…………良いだろう。
ならば、私は……私も、ほんの瞬きの間、お前に酔ってやることにする」
白い指が角ばる顎を擦った。
ルヴィのセリフをそのまま受け取るとすれば、彼女はパダラムが儚くなれば自身の抱く彼への愛も同時に失われてしまうだろうと、そう宣言していることになる。
だが、魔女はその名に反して情深い女だ。
実際に、彼へ向ける心が彼女の中から失われる日は、おそらく永劫訪れないだろう。
ルヴィが故意にその言葉を選んだのは、パダラムが先に死んでしまうという事実は覆るものではなく、ならばそれを気にする必要などないのだという、分かり難い優しさから来るものであった。
そんな彼女の気持ちを汲んで、彼はただゆっくりと頷きを返す。
「あぁ、それで充分だ。ありがとう」
世界中に点在する孤児院の、遥か五百年前に遡る設立から現在に至るまで、一切入れ替わる事の無い多くの謎に包まれた一人の所有者がいた。
彼女に夫が存在したという記述は約二百年程前にたった一度、幻の様に現れたきり、それから後にも先にも報告されることは無かったという。