厄災と愚者
ジェスターは、屋敷の外を探していたアンジェロのもとへと向かっていた。
アンジェロは森へ続く道の入り口で、必死に信頼する執事の名を呼んでいた。
「ジェスゥゥゥ! どこだぁぁぁ!」
『ヨホ! 見つかりそうですかな?』
「あぁ、ピエロか。いや、全然見つからん」
ジェスターの姿を認めたアンジェロは、疲れたように肩を落とした。
『そうでございますか……。しかし、不思議ですなぁ。屋敷の外に出た形跡はなかったのでしょう?』
「あぁ。だが、俺の直感がここだと囁いているんだ」
アンジェロは森の奥へと目を向け、確信めいた口調で続けた。
「知っているか? 商人ってのは、こういう時に直感を信じるもんなんだよ」
『ヨホ! すんばらしい! 実に商人らしいお言葉ですな!』
ジェスターは大げさに両手を広げ、感心したように頷いた。
そして、ふと思い出したようにアンジェロへ尋ねる。
『ところで、アンジェロさん。もしジェスさんを見つけたら、どうなさるおつもりで?』
「……わからん」
アンジェロは少しだけ視線を伏せた。
「正直、今は何を考えているのか、自分でもよくわからない。怒っているのか、悲しいのか……それすら曖昧だ」
拳を握りしめ、彼は言葉を続ける。
「だが、あいつの言い分も聞いてやらないと不公平だろう?」
『ヨホホホ! お優しいのですねぇ』
「ふっ……そうでもないさ」
アンジェロは自嘲するように笑った。
「ジェスはな、孤児だったんだ。俺が拾ったのも、特別な理由があったわけじゃない。ただ……なんとなく直感に従った。それだけだ」
彼は懐かしむように目を細めた。
「それから、身の回りのことを一通りできるように、徹底的に教え込んだ。礼儀作法から仕事のやり方までな。そうして、今のジェスが出来上がったんだ」
そこで一度言葉を切り、アンジェロは寂しげに微笑んだ。
「長い間、一緒にいた俺にとって……あいつは、もう使用人なんて枠には収まらない。唯一の家族みたいなものだった」
その声には、怒りよりも深い悲しみが滲んでいた。
「それが……こんなことになるなんてな……」
『ヨホ!』
ジェスターは、いつもの調子で陽気に声を上げた。
『なんとも不思議な因果でございますなぁ! アンジェロさん、貴方は見事に正解を引き当てたようです!』
「……何?」
『さぁさぁ、あちらをご覧ください! よぉく目を凝らして……三、二、一──ホイッ!』
ジェスターが指を鳴らした、その瞬間。
アンジェロたちの目の前にあった地面が、ガコンッ、と音を立てて動いた。
草木に巧妙に隠されていた小さな扉が開き、その下から──ひょこり、と一人の男が顔を出した。
見覚えのある執事服。
そして、見間違えるはずもない顔。
「……ジェス!」
アンジェロの顔が、ぱっと明るくなる。
だが、呼ばれた当人はというと──。
「チッ……!」
アンジェロの姿を目にした瞬間、ジェスは露骨に顔をしかめた。
そして、まるで追い詰められた獣のように、脱兎のごとく森の奥へと逃げ出そうとする。
「待ってくれ、ジェス!」
アンジェロは慌てて後を追いかけた。
「どうしてこんなことをしたんだ! 頼む、話を聞かせてくれ!」
その声には、主人としての威厳も、商人としての駆け引きもなかった。
ただ、家族同然だと思っていた相手に裏切られた男の、悲痛な願いだけがあった。
「そんなもん……そんなもん決まってんだろうが!! お前の都合のいい奴隷から解放されるために決まってんだろうが!」
「ど、奴隷……!?」
アンジェロは目を見開いた。
その言葉は、彼にとってあまりにも衝撃的だった。
家族同然に思っていた男から、まさかそんな言葉を投げつけられるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「そうだよ! 拾われた時は心底安心したさ! これで俺も、やっと平穏に暮らせるんだってな!」
ジェスは吐き捨てるように叫んだ。
「だが、違った! 待っていたのは大量の仕事に、山のような雑務! 朝から晩まで働かされて、自分の時間なんてありゃしねぇ!」
「ジェス……」
「お前が欲しかったのは、家族でも何でもない! 自分の身の回りのことを全部やってくれる、都合のいい労働力だったんだろうが!」
「違う……違うよ、ジェス。俺は……」
アンジェロは必死に首を横に振った。
しかし、ジェスの怒りは収まらない。
「うるせぇ! 聞きたくねぇ、聞きたくねぇんだよ!」
ジェスは耳を塞ぐように頭を振り、憎悪のこもった目でアンジェロを睨みつけた。
「金持ちのお前に、俺の気持ちなんかわかるわけねぇだろうが! 生まれた時から何でもあるのが当たり前! 欲しいものは金で買えて、面倒なことは誰かに押しつけりゃいい!」
その声には、長年積もり積もった不満が滲んでいた。
「こっちは違うんだよ! 食い物ひとつ、寝る場所ひとつ手に入れるのだって必死だったんだ! それなのに、お前は……お前は……!」
言葉が詰まる。
ジェスは唇を噛みしめた。その表情には怒りだけではなく、行き場のない悔しさが浮かんでいた。
ずっと胸の奥に押し込めてきたもの。
誰にも言えず、誰にも理解されないと思い込んできたもの。
それらが今、堰を切ったように溢れ出していた。
「……あぁ」
アンジェロは呆然と立ち尽くしていた。
ジェスの言葉を否定したい。そんなつもりはなかったと、すぐにでも伝えたい。
けれど、それ以上に彼を打ちのめしていたのは、自分が家族だと思っていた相手に、これほどまで苦しい思いをさせていたかもしれないという事実だった。
「あぁ……ジェス……」
アンジェロは、震える声で語りかけた。
「そんなに負担に感じていたのなら……言ってくれればよかったじゃないか……」
責めるつもりなどなかった。
ただ、どうして気づけなかったのか。どうして話してくれなかったのか。
その思いが、言葉となってこぼれ落ちた。
だが──。
「……は?」
ジェスの顔から、すっと表情が消えた。
「そしたらどうせ、俺を捨てるんだろうが!」
「っ……!」
アンジェロの息が詰まった。
「そんなこと……そんなこと、決して……!」
必死に否定するアンジェロ。
しかし、ジェスは聞く耳を持たなかった。
まるで、その言葉を信じること自体が、自分を傷つける行為だとでも言うように。
ふたりの間に横たわる溝は、あまりにも深かった。
「だからこそ、お前の幸せもぶち壊してやろうと思ったんだよ!」
ジェスは歪んだ笑みを浮かべ、アンジェロを指差した。
「手始めに、怪しげな薬師から『傀儡の霊薬』とかいう薬を買って、お前に盛ってみた」
「……っ」
「結果はどうだ? 完全に俺の言いなりになった! そこからは俺の好き放題だ! 邪魔な使用人どもは全員解雇して、誰にも邪魔されないようにしてやった!」
ジェスは両手を広げ、腹の底から笑い声を上げた。
「あっはっはっは! 楽しかったよ! お前の人生をめちゃくちゃにしてやるのは!」
「うっ……うぅぅ……ジェス……」
アンジェロは顔をくしゃくしゃにして、嗚咽を漏らした。
目の前にいる男は、間違いなく自分が知っているジェスだった。
長い年月を共に過ごし、家族同然に思ってきた男。
その男が今、自分の人生を壊すことを、心の底から楽しんでいたと語っている。
信じたくなかった。
だが、ジェスの口から放たれる言葉は、あまりにも残酷だった。
「あともう少しだったっていうのに……!」
ジェスは苛立たしげに舌打ちした。
「あと少しで、お前の大事なものを全部ぶっ壊せたんだ! それなのに、あの意味のわからんピエロが出てきやがって……俺の計画はめちゃくちゃだ!」
「この……!」
アンジェロが怒りに震える。
しかし、その声を遮るように、場違いなほど陽気な声が響いた。
『あ〜、お話はもうおしまいですかな?』
「あぁ!?」
ジェスが勢いよく振り返る。
そこには、いつものように笑みを浮かべたジェスターが立っていた。
『いやはや、はっきり申し上げて聞くに堪えませんなぁ』
ジェスターは肩をすくめ、わざとらしくため息をついた。
『何もかもが独り善がり。怒りも、憎しみも、復讐心も……どれを取っても自分のことばかり。実に愚かでございます』
「テメェ……殺すぞ」
ジェスが殺気を剥き出しにして睨みつける。
だが、ジェスターは怯むどころか、呆れたように首を傾げた。
『はぁ〜……殺意も零点。坊っちゃんのほうが、よっぽど鋭いものを向けてきましたぞ?』
「ふざけやがって……!」
『おやおや、これは失礼! つい本音が出てしまいましたなぁ! ヨホホホ!』
まるで反省していない。
その態度にジェスの怒りはますます膨れ上がったが、ジェスターは気にした様子もなく、くるりとアンジェロへ向き直った。
『さて、それではアンジェロさん』
いつもの軽い調子のまま、ジェスターは問いかけた。
『貴方は、どうなさいますか?』
アンジェロは顔を上げる。
『この男を詰所へ連れていき、罪を裁いてもらいますか? それとも……二度と日の光を拝めぬようにしてしまいますか?』
「……俺は」
アンジェロの唇が震えた。
目の前には、自分を裏切った男がいる。
自分の善意を踏みにじり、大切な友人の娘まで巻き込み、あろうことか、それを楽しんでいたと笑う男が。
許せるはずがない。
憎くないはずがない。
それでも。
「俺は……俺は……選べない」
絞り出した声は、ひどく弱々しかった。
ジェスターは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
『ンンン……そうですか』
それ以上、責めることはしなかった。
『選ばないというのも、また自由でございます』
そして、ジェスターはジェスへと視線を戻す。
『さぁ、ジェス。あとはお好きなようになさいませ』
「テメェ……!」
ジェスは歯を剥き出しにして、ジェスターを睨みつけた。
目の前の道化師が何者なのか、彼にはわからない。
ただ、馬鹿にされている。
見下されている。
その事実だけが、彼の頭を怒りで満たしていた。
『おや? どうかなさいましたかな?』
「ぶっ殺してやる!」
『おっと、それは物騒!』
ジェスターは大げさに肩をすくめた。
『ですが、ジェス……そこから一歩でも踏み込んだら、後悔しますよ』
「はっ! 後悔だぁ?」
ジェスは吐き捨てるように笑った。
「させてみろよ!」
そして──。
忠告を嘲笑うように、一歩を踏み出した。
瞬間。
『……言いましたよね?』
ジェスターの声から、笑みが消えた。
────────────────
『人間は、本当に愚かだ』
一歩。
ジェスターが、ゆっくりと足を踏み出した。
『救ってくれた恩人に唾を吐きかけ、醜く罵る』
二歩。
地面が、かすかに軋んだ。
『与えられたものを当然と思い、失ったものを嘆き、己の不幸を他者のせいにする』
三歩。
風が吹いた。
いや、違う。
風が生まれたのだ。
ジェスターを中心に、森の空気が渦を巻き始める。木々の枝葉が激しく揺れ、地面に積もった枯れ葉が宙へと舞い上がった。
肌を撫でるだけだった風は、いつしか頬を打つほどの強さとなり、周囲の空気は、目に見えぬ巨大な手に押さえつけられたかのように重くなっていく。
「なっ……なんだ、これは!?」
ジェスが目を見開いた。
息が詰まる。
足が震える。
目の前にいるのは、先ほどまで軽口を叩いていた、ただの道化師のはずだった。
それなのに。
今は、目を合わせることすら恐ろしい。
『そして貴方は──』
ジェスターが顔を上げた。
深紅の瞳が、真っ直ぐにジェスを射抜く。
『ワタクシに、何も魅せてくれない』
声は静かだった。
怒鳴っているわけでもない。
憎しみを露わにしているわけでもない。
ただ、心底つまらないものを見せられた観客のように、ひどく冷めた声だった。
『復讐を掲げ、他者の人生を踏みにじり、己の愚かさを正義と勘違いする。なるほど、なるほど……』
ジェスターは、ゆっくりと首を傾げた。
『それで?』
「……は?」
『それで、貴方は何を成し遂げたのでございますか?』
ジェスターの口元から、いつもの笑みが消えていた。
『恩人を苦しめれば、貴方の過去が報われるとでも? 他者の幸福を壊せば、貴方の不幸が帳消しになるとでも?』
ひとつ、問いかけるたびに風が唸る。
木々が軋み、太い幹が不気味な音を立てた。
『貴方は己の境遇を嘆いた。己の苦しみを憎んだ。それ自体は、何もおかしなことではございません』
ジェスターは、静かに歩み寄る。
『ですが、その苦しみを他者へ押しつけた瞬間、貴方は何になったのでしょうなぁ?』
「う、うるせぇ……!」
ジェスが一歩後ずさった。
「知ったような口を利くんじゃねぇ! テメェに何がわかる! 俺がどんな思いをしてきたか、何も知らねぇくせに!」
『ええ、知りませんとも』
ジェスターは、あっさりと答えた。
『貴方が何を失い、何を耐え、どれほど惨めな思いをしてきたのか。ワタクシには、すべてを知る術などございません』
そこで、初めてジェスターの声に熱が宿った。
『ですが──それが何だというのです?』
風が爆ぜた。
ジェスの身体が、見えない力に押されたようによろめく。
『過去に傷つけられた者は、他者を傷つけてよいのですか? 苦しんだ者は、誰かを苦しめる権利を得るのですか?』
ジェスターは、目の前の男を見下ろした。
『答えなさい、ジェス』
「っ……!」
『貴方がやったことは、貴方自身の選択でございます』
深紅の瞳が、細くなる。
『誰かに苦しめられたからではない。貧しかったからでもない。アンジェロさんに拾われたからでもない』
そして、冷酷なほど明瞭に告げた。
『貴方は、自分の意思で他者を傷つけることを選んだ』
「ち、違……俺は……!」
『違う?』
ジェスターが一歩、踏み出した。
その瞬間、森のざわめきが止んだ。
風が凪いだのではない。
音という音が、世界から消え失せたのだ。
葉擦れの音も、鳥の声も、アンジェロの荒い呼吸さえも。
何も聞こえない。
ただ、ジェスターの声だけが響く。
『ならば、何が違うというのです?』
ジェスは口を開いた。
だが、言葉が出てこない。
先ほどまで、あれほど流暢に並べ立てていた恨み言が、喉の奥に詰まっていた。
ジェスターは、そんな彼を見つめていた。
そこにあるのは、怒りだけではない。
失望。
退屈。
そして、人間という生き物への、底知れぬ呆れ。
『ワタクシはね、ジェス』
ジェスターは、再び口元を歪めた。
けれど、それはいつもの愉快な笑みとは似ても似つかないものだった。
『人間の愚かさを愛しております』
深紅の瞳が、妖しく輝く。
『己の弱さに打ちひしがれながら、それでも立ち上がる者。絶望の淵にあって、誰かの手を取る者。憎しみを抱きながらも、その憎しみに呑まれまいと足掻く者』
ジェスターの声が、わずかに弾んだ。
『そういう人間が、ワタクシは大好きなのでございます』
そして。
その声が、再び冷え切った。
『ですが、貴方はどうです?』
ジェスターは、ジェスの目の前で立ち止まった。
『貴方は苦しみを抱えたまま、前へ進むことを選ばなかった。己の手で幸福を掴むことも、誰かに助けを求めることもせず、ただ他者の幸福を壊すことに執着した』
ジェスターが、顔を寄せる。
『それでいて、己を哀れな被害者だと思い込んでいる』
「ひっ……!」
ジェスの喉から、かすれた声が漏れた。
『──実に、つまらない』
その一言が、何よりも重かった。
次の瞬間、押し潰されそうだった空気が、さらに一段と重くなる。
ジェスの膝が折れかけた。
呼吸が乱れ、全身から嫌な汗が噴き出す。
逃げろ。
頭の中で、何かが叫んでいた。
目の前の存在から、一刻も早く逃げなければならない。
だが、身体が動かない。
ジェスターは、そんなジェスをしばらく見つめたあと──。
『……おっと』
ふいに、ぱちんと指を鳴らした。
途端に、世界が音を取り戻す。
風が吹き抜け、木々が揺れ、遠くで鳥が羽ばたいた。
先ほどまでの異様な圧迫感が、嘘のように消え失せていた。
『ヨホホホ! 失礼、失礼! 少々、興が乗りすぎましたかな?』
ジェスターは、いつもの調子で帽子を整えた。
その顔には、見慣れた道化師の笑みが戻っている。
まるで、何事もなかったかのように。
しかし、ジェスは違った。
地面にへたり込み、荒い息を繰り返しながら、目の前のピエロを見上げていた。
もはや、彼をただの道化師だと思うことなどできなかった。
いつもの軽やかな声。
いつもの芝居がかった仕草。
その背中を見つめながら、アンジェロはようやく理解した。
自分たちが今まで相対していたのは、ただの旅のピエロなどではなかったのだと。
『さてさて、ジェス』
ジェスターは、地面にへたり込んだ男を見下ろしながら、いつもの調子で口を開いた。
『ワタクシには、一つの信条がございます』
くるり、と杖を回す。
『それは──善性には祝福を。悪性には厄災を』
その声には、先ほどまでの怒りは微塵も残っていなかった。
まるで、これから楽しい手品でも披露するかのような、軽やかな声音だった。
『そして今回、ワタクシは独断と偏見により、貴方に厄災を与えることにいたしました!』
「ハッ……ハッ……ハッ……!」
ジェスは笑っているのではない。
呼吸をするだけで精一杯だった。
全身から冷たい汗が噴き出し、身体は小刻みに震えている。目の前の道化師から一刻も早く逃げ出したいのに、先ほどの圧迫感がまだ身体にまとわりついているかのように、うまく力が入らなかった。
そんなジェスの様子などお構いなしに、ジェスターは懐へ手を差し入れた。
『さぁて! 今回、取り出したるはこちら!』
ジャジャーン!
『デデ〜ン! 不運のチョーカ〜!』
どこからともなく効果音まで口にしながら、ジェスターは黒い物体を高々と掲げた。
それは、ドス黒い色をした不気味なチョーカーだった。
装飾らしい装飾はなく、光を吸い込むような表面には、よく見ると細かな紋様が刻まれている。
ただそこにあるだけなのに、見ていると妙な胸騒ぎを覚える代物だった。
「な、なんだ……それ……」
『こちら、何をやっても不運に見舞われ、何一つうまくいかなくなってしまう、たいへん素敵な呪いのチョーカーでございます!』
「は……?」
ジェスが聞き返すよりも早く。
シュッ!
「ぐっ!?」
ジェスターの手が閃いた。
次の瞬間には、黒いチョーカーがジェスの首に取り付けられていた。
あまりにも素早い動きだった。
抵抗する間も、避ける間もなかった。
「テ……テメェ……何をしやがった……!」
『おやおや、説明を聞いておりませんでしたかな? こちらは不運のチョーカー。身につけた者に、次から次へと不運を呼び寄せる呪物でございます』
「ふざけんな……!」
ジェスは震える手を首元へ伸ばした。
「こんなもん……すぐ外してやる……!」
指先に力を込め、留め具を探る。
しかし、どこにもそれらしいものが見当たらない。
ならばと、両手で無理やり引き剥がそうとするが、チョーカーはびくともしなかった。
「くそっ……! 外れろ! 外れろよ、クソがッ!」
何度引っ張っても、何度指をかけ直しても、黒いチョーカーは首にぴたりと張りついたまま。
まるで最初から、彼の身体の一部だったかのように。
『ヨホホホ! 無駄でございますぞ! そちら、そう簡単には外れませんので!』
「ふざけんなッ! 今すぐ外しやがれ!」
『おやおや、困りましたなぁ。ワタクシ、取り付け方は存じておりますが、外し方までは存じ上げませんので!』
「テメェがつけたんだろうがッ!」
『ヨホホホホ! それでは、そろそろお別れといたしましょう!』
ジェスターは、ひらりと帽子を持ち上げた。
『これで貴方にも、今までどれほど恵まれていたのか、身をもって知っていただけることでしょう』
深紅の瞳が、ジェスを見下ろす。
『他人の幸福を壊すことに夢中だった貴方が、今度は己の不運と向き合う番でございます。さてさて、どこまで耐えられますかなぁ?』
「……クソッ!」
ジェスは歯を食いしばった。
怒鳴り返したい。殴りかかりたい。目の前の道化師を、何としてでも黙らせたい。
だが、身体はまだ震えていた。
結局、彼にできたのは、憎々しげにジェスターを睨みつけることだけだった。
『それでは、ジェスさん! どうぞ良い旅を!』
「誰が……テメェなんかに……!」
『ヨホホホ! おさらばホイ!』
ジェスターは、ひらひらと手を振った。
ジェスは舌打ちを一つ残し、よろよろと立ち上がる。
足元は覚束なく、何度も木の根につまずきかけながら、それでも彼は森の奥へと歩き出した。
やがて、その姿は木々の向こうへ消えていく。
最後まで、彼が首元のチョーカーを外そうと手を伸ばしていたことを、ジェスターは見逃さなかった。
しかし、呼び止めることも、助け舟を出すこともなかった。
『さてさて……』
ジェスターは、何事もなかったかのように帽子を被り直した。
『厄災がもたらすのは、破滅か。それとも、ちょっぴり愉快な人生の転機か』
深紅の瞳が、森の奥を見つめる。
『どちらに転ぶかは、貴方次第でございますぞ』
そう言って、道化師は楽しげに笑った。
ヨホホホホ。




