困惑とハリセン
「裏門に着いたぞ」
エドガーの声に、ジェスターとリリィは足を止めた。
目の前には、立派な鉄柵で作られた裏門がそびえている。表門と比べればいくらか簡素な造りではあるものの、厳重な造りであることに変わりはない。
『それでは、それでは、皆様方。こちらへお集まりくださいませ!』
ジェスターは二人を手招きすると、腰巾着から先ほどの香水を取り出した。
シュッ、シュッ、シュッ。
軽快な音を立てながら、エドガーとリリィに香水を吹きかけていく。
『はい! これで準備万端でございます!』
「ジェスター! 静かに!」
『おっと、これは失礼』
エドガーに小声で注意され、ジェスターは口元に指を当てた。もっとも、反省しているのかどうかは、その愉快そうな目を見れば怪しいものだった。
「それで、どうやって中に入るの?」
リリィが裏門を見上げながら尋ねる。
「実はな、アンジェロとは昔から、緊急時に備えて互いの屋敷の合鍵を隠してある場所を教え合っていたんだ」
「合鍵を?」
「ああ。何かあった時、いちいち正門から訪ねていては間に合わないこともあるからな。……確か、この辺りだったはずだ」
エドガーは門の脇にある茂みへと身をかがめ、草木をかき分けて探し始めた。
ガサゴソ、ガサゴソ。
しばらくして──
「あった!」
エドガーの手に、小さな鍵が握られていた。
「これで屋敷に入れる」
『ヨホ! これは幸先がよろしいですねぇ!』
ジェスターが感心したように声を弾ませる。
エドガーは鍵を使って裏門を開けると、二人を促して敷地内へと足を踏み入れた。
三人は周囲を警戒しながら、屋敷の裏手へと回り込む。幸い、誰かに見つかることもなく、裏口から建物の中へ入ることができた。
そこまでは、実に順調だった。
──順調すぎるほどに。
『……おかしいですねぇ。おかしい、おかしい』
廊下を進んでいたジェスターが、ふと足を止めた。
「何がおかしいんだ?」
『いえねぇ……見張りの数が、あまりにも少ないのでございますよ』
ジェスターは首を傾げながら、廊下の奥へと視線を向けた。
『これほど立派なお屋敷ですからねぇ。侵入者を警戒する者が、もう少しくらいいてもよさそうなものですが』
「確かに……」
リリィも周囲を見回した。
屋敷の中は、妙なほど静かだった。
足音以外、何も聞こえない。
人の気配がないのだ。
「こんなに大きなお屋敷なのに、誰もいないね」
「……ああ。おかしいな」
エドガーの眉間に皺が寄った。
「以前ここを訪れた時は、使用人も大勢いたはずだ。廊下ですれ違う者もいれば、庭の手入れをしている者もいた。それなのに、今日は……」
言葉が途切れる。
まるで、屋敷そのものが息を潜めているかのようだった。
「……全員、解雇されたのか?」
口にしてから、エドガーはすぐに首を振った。
「いや、そんなはずはない。アンジェロに限って、何の説明もなく使用人を全員解雇するなんて……」
だが、そう考えなければ説明がつかないほど、屋敷には人の気配がなかった。
先ほどの襲撃と、関係があるのだろうか。
それとも、自分たちの知らない何かが起きているのか。
疑念が、じわじわと胸の内に広がっていく。
『まぁまぁ、エドガーさん。今は目の前の問題に集中いたしましょう』
ジェスターはいつもの調子で、ひらひらと手を振った。
『あれこれ考えるのは、舞台の幕が上がってからでも遅くはございません。まずは主役にご登場いただかなくては!』
「……そうだな」
エドガーは一度目を閉じ、気持ちを切り替えるように息を吐いた。
「確か、この先にある部屋がアンジェロの書斎だったはずだ。普段、大事な商談や込み入った話は、いつもそこでしていた」
彼は廊下の奥にある扉を指さした。
重厚な木製の扉。装飾の施された取っ手は、見慣れたものだった。
幾度となく、この扉をくぐってきた。
商売の話をしたこともある。酒を片手に、他愛もない話で夜更かししたこともある。
その向こうにいるのは、長年の友人であるはずだった。
エドガーは一歩、前へ進む。
迷いは、まだ消えていない。
それでも、確かめなければならなかった。
『ヨホホホ! それでは皆々様──』
ジェスターは帽子の先についた鈴を、指先でちりんと鳴らした。
『いよいよ、感動のご対面とまいりましょうか!』
三人は扉の前に立った。
静まり返った屋敷の中で、その扉だけが、まるで彼らを待ち構えているかのように見えた。
エドガーは、書斎の扉にそっと手をかけた。
何度も訪れた場所だ。扉の向こうには、見慣れた机があり、壁には商談で使う書類や本が並んでいる。そして、その机の向こうには──長年、苦楽を共にしてきた友人がいるはずだった。
ゆっくりと扉を開く。
軋む音が、静まり返った廊下に小さく響いた。
書斎の中は、以前と変わらない様子だった。
整然と並べられた本棚。窓から差し込む淡い光。重厚な机の上には書類が広げられ、その前に一人の男が腰掛けていた。
ペンを走らせていた男は、扉が開いたことにもさして驚いた様子を見せない。
「……アンジェロ!」
エドガーの声が、書斎に響いた。
男の手が止まる。
アンジェロはゆっくりと顔を上げ、訪問者の姿を確かめた。まずエドガーを見つめ、次いで、その背後にいるジェスターとリリィへと視線を移す。
そして、まるで何事もなかったかのように口を開いた。
「エドガーか。何の用だ?」
あまりにも普段通りの声だった。
それがかえって、エドガーの胸を締めつけた。
「……お前が送ってきたペンダントのことだ」
エドガーは拳を握りしめた。
「娘が身につけていたあのペンダント……あれは呪物だった。エミリアの魔力を暴走させ、あの子をずっと苦しめていたんだ」
声が震える。
「アンジェロ。あれは……意図して送ってきたものなのか?」
違うと言ってほしかった。
何かの間違いだと。知らずに贈ってしまったのだと。
そう答えてくれれば、まだ信じられる。
長年積み重ねてきた友情を、今まで過ごしてきた時間を、すべて疑わずに済む。
エドガーは心の中で、必死に願っていた。
「……ペンダント?」
アンジェロは一瞬だけ目を細めた。
それから、何かを思い出したように頷いた。
「ああ、あれか」
その口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「そうだよ。俺が意図してやった」
「……え?」
エドガーの思考が止まった。
あまりにもあっさりとした肯定だった。
まるで、今日の天気について話すかのように。
「な、何を……言っているんだ?」
「聞こえなかったのか? 俺が意図してやったと言ったんだ」
アンジェロはペンを机に置き、背もたれに体を預けた。
「お前は昔からそうだったな、エドガー」
その声には、長年の友人に向ける親しみなど微塵もなかった。
「商売も、家族も、周囲からの信頼も……お前は何もかも手に入れている。どれだけ努力しても、どれだけ手を伸ばしても、いつだってお前は俺の少し先を歩いていた」
アンジェロは笑った。
しかし、その笑みはひどく歪んでいた。
「それが気に入らなかったんだよ」
「違う……」
エドガーは首を横に振った。
「お前は、そんなことを考える男じゃない……!」
「まだ俺を信じているのか? エドガー」
アンジェロは嘲るように笑った。
「おめでたい男だな、お前は」
その言葉に、エドガーは絶句した。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
ともに商売を始めた頃のこと。
初めて大きな取引を成功させ、酒場で朝まで語り明かした夜。
互いの家族を紹介し合い、成功を自分のことのように喜び合った日々。
その思い出の一つひとつが、今、目の前の男によって踏みにじられていく。
怒り。悲しみ。失望。
いくつもの感情が渦巻き、胸の奥で混ざり合っていく。
やがて、それらは一つの感情へと形を変え始めた。
──憎悪。
長年の友人に向けるはずのなかった感情が、確かにエドガーの中で膨れ上がっていた。
『ヨホ!』
その瞬間、場違いなほど愉快な声が響いた。
『これはこれは……実に良い感情ですねぇ!』
ジェスターだった。
赤と黒の道化師は、まるで珍しい見世物でも見つけたかのように、エドガーの横顔を覗き込んでいた。
『怒り、悲しみ、失望……それらが混ざり合って、今にも弾けてしまいそうでございます!』
深紅の瞳が、楽しげに細められる。
『さてさて、エドガーさん。どうなさいますか?』
ジェスターはアンジェロへと視線を向けた。
『この男を、今すぐメチャクチャにしてしまいましょうか? それとも……まだ、彼を信じてみますか?』
「……アイツを、メチャクチャに……」
エドガーの唇から、かすれた声が漏れた。
その言葉を口にした瞬間、脳裏に浮かんだのは、アンジェロへの憎しみだけではなかった。
共に笑い合った日々。
商売で失敗し、互いに肩を落とした夜。
それでも諦めず、何度も立ち上がってきた時間。
あれらすべてが、偽りだったのだろうか。
分からない。
今となっては、何も分からない。
それでも──。
「……いや」
エドガーは、ゆっくりと顔を上げた。
「アイツを拘束してくれ。怪我はさせずに」
『ヨホ!』
ジェスターは両手を打ち合わせた。
『すんばらしいオーダーでございます! 憎しみに身を任せず、まずは相手の身柄を確保する! いやぁ、実に立派なご判断ですなぁ!』
そして、くるりとアンジェロへ向き直る。
『……ですが、その前に』
ジェスターの声が、ほんのわずかに変わった。
陽気さはそのままに、どこか底知れない響きが混じる。
『アンジェロさん。少々、お尋ねしたいことがございます』
「……何だ?」
『貴方は本当に、エドガーさんの娘さんを苦しめたかったのですか?』
「当然だ」
アンジェロは間髪入れずに答えた。
その返答を聞いても、ジェスターの表情は変わらない。
『ほほう。では、エドガーさんとの友情を壊したかった、と?』
「ああ」
『なるほど、なるほど……』
ジェスターは大げさに頷き、両手を組んだ。
そして、少しだけ首を傾げる。
『それでは……貴方は今、ご自身が何をしているのか、きちんと理解していらっしゃいますかな?』
「当たり前だ。私は──」
アンジェロの言葉が、不意に途切れた。
口が動く。
何かを言おうとしている。
しかし、声が出ない。
「……っ」
アンジェロは眉をひそめ、もう一度口を開いた。
それでも、言葉は喉の奥でつかえたまま、音にならなかった。
数秒の沈黙。
先ほどまで余裕たっぷりに笑っていた男の顔から、初めて表情が消えた。
ジェスターは、そんなアンジェロをじっと見つめていた。
「俺は……俺は、エドガーとの友情を壊して……壊して、どうするんだ?」
アンジェロは額を押さえ、うわ言のように呟いた。
「エドガーの娘を床に伏させて……いったい、何になる? 俺は何を……何をしようとしていたんだ? 分からない……分からない!」
先ほどまでの冷酷な態度は、見る影もなかった。
まるで、自分の口から飛び出した言葉に、自分自身が最も困惑しているかのようだった。何かを否定しようとしても、何を否定すればいいのかさえ分からない。アンジェロは頭を抱え、苦しげに言葉を繰り返していた。
『ヨホホホ! なるほど、なるほど! やはり、そうでございましたか!』
その様子を眺めていたジェスターが、ぽんと手を打った。
『エドガーさん! どうやらアンジェロさん、ご自身の意思であのようなことをおっしゃっていたわけではないようでございますなぁ!』
「操られていた……ということか!?」
『おそらくは! この症状、ワタクシの見立てでは──傀儡の霊薬によるものでございましょう!』
「傀儡の霊薬……?」
『左様! 飲ませた相手に呪文を施すことで、その者の意思をねじ曲げ、術者の意のままに操る……実に厄介な代物でございます!』
ジェスターは芝居がかった仕草で肩をすくめた。
『もっとも、薬の作用がどこまで及んでいたのか、誰が何のために使ったのか……そこまでは、まだ分かりませんがねぇ』
「そんなものが……。それで、アンジェロは元に戻るのか!?」
『モチのロンでございます!』
ジェスターは自信満々に胸を張った。
そして、いつものように腰巾着へ手を突っ込むと、ごそごそと中を漁り始めた。
何やら小さな瓶を取り出すのか。それとも、魔法の道具でも出すのか。
エドガーとリリィが固唾を呑んで見守る中、ジェスターが取り出したものは──。
『ジャジャーン! 気付けのハリセンでございます!』
ぺらん。
手元で軽やかに揺れる、どう見てもただのハリセンだった。
「…………は?」
エドガーは言葉を失った。
リリィも、目の前の道具とジェスターの顔を交互に見比べている。
『こちらはですねぇ、意識が曖昧な方、夢と現実の区別がつかなくなってしまった方、あるいは頭の中が少々お留守になっている方に、実に効果てきめんな一品でして!』
「いや、待て。なぜハリセンなんだ?」
『なぜ、とおっしゃられましても。叩きやすいからでございます!』
「そういう問題じゃないだろう!」
エドガーの悲鳴じみた抗議が書斎に響いた。
しかし、ジェスターはまるで気にする様子もなく、ハリセンを片手にアンジェロへと歩み寄っていく。
『さぁさぁ、アンジェロさん。そろそろお目覚めの時間でございますよ!』
「……何をする気だ?」
アンジェロは警戒するように身を引いた。
『なぁに、ちょいとばかり頭をスッキリさせていただくだけでございます!』
「頭を……?」
ジェスターはにこやかな笑顔を浮かべたまま、ハリセンを高々と振りかぶった。
アンジェロの顔が引きつる。
「ま、待て──」
パァァァァンッ!!
小気味よい音が、静かな書斎いっぱいに響き渡った。
実に見事な一撃だった。
ハリセンはアンジェロの頭を正確に捉え、乾いた音とともに勢いよくしなる。
あまりにも鮮やかで、あまりにも容赦のない一振り。
そして──。
「…………」
アンジェロは、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
数秒間、微動だにしない。
やがて、ゆっくりと瞬きを繰り返すと、困惑した様子で周囲を見回した。
「……エドガー?」
「……アンジェロ?」
二人の視線が交差する。
アンジェロは不思議そうに眉をひそめた。
「どうしたんだ、そんな怖い顔をして。それに……ここは私の書斎だろう? いったい、何があったんだ?」
その声には、先ほどまでの冷酷さも、嘲るような笑みも、欠片ほども残っていなかった。
そこにいたのは、エドガーが長年知っている友人そのものだった。
エドガーは呆然と立ち尽くした。
「お前……覚えていないのか?」
「何をだ?」
「俺の娘に、ペンダントを送ったことだ!」
「……ペンダント?」
アンジェロは首を傾げた。
「何を言っているんだ? エミリアちゃんの誕生日は、まだ先だろう。贈り物なら、その時に改めて用意するつもりだが……」
「……は?」
エドガーの口から、間の抜けた声が漏れた。
アンジェロは本当に何も知らないようだった。
先ほどまで、自分がエドガーの娘を苦しめたと認め、友情を壊したいと嘲笑っていた男とは、とても思えない。
「それより……」
アンジェロは改めて室内を見回し、ジェスターの姿を認めると、怪訝そうに顔をしかめた。
「このピエロは何なんだ? ……それに、なんだ、その目は?」
深紅の瞳を覗き込んだ瞬間、アンジェロの表情がわずかに強張った。
ジェスターは、いつもと変わらぬ愉快な笑顔を浮かべていた。
『ヨホホホ! どうやら、気付けは成功したようでございますなぁ!』
ジェスターは満足げにハリセンをくるりと回し、腰巾着の中へとしまい込んだ。
「……ジェスター」
エドガーは額を押さえながら、ゆっくりと口を開いた。
「お前、いったい何をしたんだ?」
『何を、とおっしゃられましても。頭を叩いただけでございますよ?』
「それで人の様子が変わるわけがないだろう!」
『おやおや、エドガーさん。世の中には不思議なことがたくさんあるのでございます。頭を叩いたら目が覚める。実に分かりやすいではありませんか!』
「そんな理屈が通るか!」
エドガーの怒声が再び書斎に響いた。
リリィは二人のやり取りを見つめながら、思わず苦笑を浮かべる。
先ほどまで、長年の友人を失ったと思っていた。
アンジェロが自分の意思でエミリアを苦しめ、エドガーとの友情を踏みにじったのだと、そう信じかけていた。
だが、今のアンジェロには、その時の記憶すらないらしい。
ジェスターは愉快そうに笑っていた。
しかし、その深紅の瞳だけは、笑っていなかった。
──アンジェロは、何者かに操られていた。
本人の意思に反して、エドガーを裏切り、エミリアを苦しめるよう仕向けられていたのだ。
そして、それほどまでのことをしてでも、アンジェロを利用したかった何者かがいる。
ジェスターは静かにアンジェロを見つめた。
『……さてさて』
その口元に、再びいつもの笑みが浮かぶ。
『今度は、誰がこの舞台の糸を引いているのか……ゆっくりと、種明かしをしていただきましょうかねぇ』




