疑惑と希釈
エドガーの案内に従い、ジェスターとリリィはアンジェロの屋敷へとやって来た。
エドガーの屋敷にも劣らぬ立派な邸宅だった。手入れの行き届いた庭園には色とりどりの花が咲き誇り、玄関へと続く石畳も綺麗に磨かれている。
エドガーはその光景をしばらく眺めていたが、やがて意を決したように玄関の扉を叩いた。
コン、コン。
しばらくして扉が開き、中から一人の執事が姿を現した。
「これはこれは、エドガー様。本日はどのようなご用件でございましょうか?」
「アンジェロに会わせてほしい」
「ご主人に、ですか? かしこまりました。それでは、どうぞ中へお入りください」
執事のジャスは一礼すると、三人を屋敷の中へと招き入れた。
案内された応接室には、上等なソファーとテーブルが置かれ、壁には高価そうな絵画が飾られていた。
「それでは、少々お待ちくださいませ。ご主人にお伝えしてまいります」
ジャスはそう告げると、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
残されたエドガーは、俯いたまま口を開いた。
「……アンジェロ」
その名を呟くだけで、胸の奥が締めつけられる。
だからこそ、信じたかった。
娘に贈られたペンダントが呪物だったとしても、何かの間違いであってほしかった。
アンジェロ自身は何も知らなかったのかもしれない。誰かから手に入れた品を、善意で贈っただけという可能性だってある。
まだ、何も確かなことはわかっていないのだ。
『ヨホ! エドガーさん、そんなに気を落とさずに!』
沈み込むエドガーを見て、ジェスターが明るい声を上げた。
『まだアンジェロ殿が関わっていると決まったわけではありませんぞ? もしかしたら、何か事情があるのかもしれませんからなぁ』
「そうだよ、エドガーさん。昔からの友達なんでしょ? ちゃんと話を聞いてみようよ」
リリィも優しく声を掛ける。
その言葉に、エドガーはゆっくりと顔を上げた。
「……そうですね。まずは、本人の話を聞いてみなければ」
完全に不安が消えたわけではない。
それでも、二人の言葉に少しばかり救われた気がした。
まだ決まったわけではない。
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
『……ヨホ? あらら、これはいけませんなぁ』
ジェスターの声色が、ほんのわずかに変わった。
つい先ほどまで浮かべていた笑みはそのままに、赤い瞳だけが扉へと向けられる。
「「えっ?」」
次の瞬間──。
ドゴォンッ!!
轟音とともに、応接室の扉が蹴破られた。
木片が飛び散り、破壊された扉の向こうから、武装したゴロツキたちがぞろぞろと押し寄せてくる。
「な、何だ!?」
エドガーが立ち上がるよりも早く、男たちは三人を取り囲んだ。
逃げ道は塞がれ、あっという間に部屋の隅へと追い詰められてしまう。
突然の襲撃に、リリィは息を呑んだ。
だが、ジェスターだけは違った。
『ヨホホホ! これはこれは! お客様をお迎えするにしては、随分と荒っぽいご挨拶でございますなぁ!』
まるで愉快な舞台でも始まったかのように、ジェスターは両手を広げて笑った。
その姿を見た男たちが、警戒するように武器を構える。
「……嘘だろ」
エドガーは、彼らの背後にある扉を見つめていた。
この屋敷で、いったい何が起きているのか。
自分たちは、アンジェロに会いに来ただけだ。まだ何の話もしていない。それなのに、なぜ武装した男たちが襲い掛かってくるのだろう。
アンジェロは、このことを知っているのか。
それとも、彼自身も何かに巻き込まれているのか。
答えは、どこにもなかった。
「……アンジェロ。お前は、一体……」
エドガーの声がかすれる。
信じていた友人の名を口にしても、返ってくるのは男たちの荒い息遣いだけだった。
だが、目の前の襲撃が偶然であるとは思えなかった。
自分たちの来訪を知り、何者かが口を封じようとしているのだろうか。それとも、別の理由があるのか。
エドガーには、判断がつかなかった。
ただ一つ確かなのは、目の前の男たちが明確な敵意を向けているということだった。
「……信じていたのに」
エドガーの口から、かすれた声が漏れた。
それはアンジェロに向けた言葉だったのか。それとも、何も知らずに友人を信じようとしていた自分自身に向けた言葉だったのか。
エドガーにもわからなかった。
ふつふつと、腹の底から何かが煮え立つ。
娘を苦しめた相手への怒り。
信じてきたものが崩れ去るかもしれないという恐怖。
そして、何もできずにいた自分への悔しさ。
その感情は、ジェスターにとって十分すぎるほどの呼び水となった。
『ヨホホホ! さてさて、エドガーさん』
ジェスターは、追い詰められた状況などまるで気にしていない様子で、エドガーへと顔を向けた。
『あなたは、何をお望みですかな?』
「……何?」
『この者たちを皆殺しにいたしましょうか? それとも、二度と立ち上がれぬようにして差し上げましょうか?』
陽気な口調。
まるで、食事の注文でも尋ねるかのような気軽さだった。
だが、その問いに含まれた意味は、決して軽いものではない。
ジェスターならば、本当にやる。
エドガーには、なぜかそう確信できた。
彼は一瞬だけ目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、ベッドに横たわる娘の姿。
苦しみながらも、誰かを傷つけることを恐れていた、あの優しい子。
自分が今、怒りに任せて彼らの命を奪えば、エミリアはどう思うだろうか。
「……いや」
エドガーは、ゆっくりと首を横に振った。
「殺しは駄目だ。無力化してくれ。それ以上のことは望まない」
『おやおや』
ジェスターは、意外そうに目を丸くした。
『なかなかに強いご意思をお持ちですなぁ。怒りに身を任せてもおかしくない状況だというのに』
「……許せない気持ちはある。だが、誰が何をしたのかも、まだわかっていない」
エドガーは拳を握り締めた。
「少なくとも、こいつらを殺したところで娘が救われるわけじゃない。まずは、エミリアを助けることが先だ」
その言葉を聞いたジェスターは、しばしエドガーを見つめたあと、口元を愉快そうに歪めた。
『ヨホホホ! 承知いたしました。それでは、ご注文どおりに』
「ジェスター、どうするの?」
『どうするも何も──こうするのでございますよ』
ジェスターは、何気ない仕草で虚空へと手を伸ばした。
そして、そこに何かがあるかのように、ぎゅっと握り締める。
ただ、それだけだった。
呪文もなければ、派手な身振りもない。
次の瞬間。
「ぐああああっ!?」
「な、何だぁっ!?」
男たちの悲鳴が、応接室に響き渡った。
ある者は腕を、ある者は脚を、見えない何かに握り潰されたかのようにひしゃげさせ、その場に崩れ落ちる。
武器を構えていた男たちも、何が起きたのか理解できないまま、次々と床へ転がっていった。
ほんの一瞬。
それだけで、三人を取り囲んでいたゴロツキたちは、誰一人としてまともに動けなくなっていた。
「な……なんという……!」
エドガーは目を見開いた。
無力化してほしい。
確かに、そう頼んだ。
だが、まさかこれほどあっさりと、しかも一瞬で叶えられるとは思ってもいなかった。
ジェスターは、倒れ伏す男たちを一瞥すると、満足げに頷いた。
『ヨホ! ご注文どおり、殺してはおりませんぞ』
「……本当に、何者なんだ……」
『おやおや? アタクシは、しがない旅のピエロでございますが?』
ジェスターは、いつもの調子で帽子の先を指先で弾いた。
ちりん、と小さな鈴の音が鳴る。
『さてさて、皆様方が目を覚ます前に、ここは退散するといたしましょうか』
「そ、そうね! 早く行こう!」
リリィが慌てて頷く。
「あ、ああ!」
エドガーも我に返り、二人の後を追った。
三人は、倒れた男たちを残して応接室を飛び出し、屋敷の出口へと急いだ。
結局、アンジェロの姿を見ることはなかった。
彼が襲撃を命じたのか。それとも、屋敷の中で何か別の事態が起きていたのか。ジャスはどこへ行ったのか。
わからないことばかりだった。
ただ、あの屋敷に留まっていても、真相に近づけるとは思えなかった。
こうして三人は、素早くアンジェロの屋敷を脱出した。
エドガーは一度だけ振り返り、立派な門構えを見つめた。
長年の友人を、疑いたくはない。
しかし、疑わずにいることも、もうできなかった。
「……アンジェロ。お前は、本当に何も知らないのか?」
その問いに答える者は、誰もいなかった。
────────────────
アンジェロの邸宅から逃げ出した三人は、どうにか無事にエドガーの屋敷へと帰り着いた。
屋敷の扉が閉まるなり、三人は揃って大きく息を吐いた。
『ヨホホホ! いやぁ、危ないところでしたねぇ!』
「はぁ……はぁ……アンジェロ、あいつ……」
息を切らしながら、エドガーは苦々しく呟いた。
「危なかったね」
「あぁ、そうだな……」
リリィの言葉に頷きながらも、エドガーの表情は晴れなかった。
先ほどの光景が、何度も脳裏をよぎる。
長年、商売を共にしてきた友人。その屋敷で待ち受けていた、あまりにも不自然な襲撃。
あれは本当にアンジェロの差し金だったのだろうか。
そう考えれば辻褄が合う気もする。だが、長年の付き合いを思えば、どうしても信じ切ることができなかった。
「……こうなったら、アンジェロを直接見つけるしかない」
エドガーは息を整え、そう口にした。
「だけど、どうやって? またあのお屋敷に戻るの?」
リリィが首を傾げる。
「ただ戻るだけじゃ駄目だ。さっきの二の舞になる可能性が高い。それに……できることなら、これ以上の負傷者は出したくない」
エドガーの脳裏に、襲いかかってきた男たちの姿が浮かんだ。
真正面から乗り込めば、道を切り開くこと自体はできるだろう。少なくとも、ジェスターの力を目の当たりにした今なら、それは決して無謀な考えではない。
しかし、相手が何者であれ、無関係な人間まで巻き込むわけにはいかなかった。
どうにかしてアンジェロ本人と接触する方法はないものか。
エドガーが考え込んでいると──
『ヨホホホ! それでしたら、こちらを使いましょう!』
待ってましたとばかりに、ジェスターが腰巾着をごそごそと漁り始めた。
そして取り出したのは、小さなガラス瓶。
中には淡い色の液体が入っている。見た目だけなら、どこにでも売っていそうな、ごく普通の香水だった。
「……香水?」
エドガーが怪訝そうに瓶を見つめる。
『左様! こちら、ワタクシ特製の──希釈の香水でございます!』
「希釈の……?」
「香水?」
エドガーとリリィは顔を見合わせた。
名前だけでは、何の効果があるのかさっぱり分からない。
『ヨホホホ! まぁまぁ、百聞は一見に如かず! 実際にお見せした方が早いでしょうなぁ』
ジェスターはそう言うと、香水の瓶を軽く振った。
『それでは、まずはワタクシに吹きかけてみましょう!』
シュッ、シュッ。
軽やかな音とともに、ジェスターの衣装へ香水が吹きつけられる。
……が。
見た目には何の変化もなかった。
赤と黒の派手な衣装も、二股の帽子についた鈴も、いつもの胡散臭い笑顔も、何ひとつ変わっていない。
「……何も起きてないように見えるけど」
リリィが首を傾げる。
『ヨホ? そう見えますかな? それでは、お二人とも少々こちらでお待ちください』
ジェスターはくるりと踵を返し、部屋の扉へと向かった。
『ワタクシ、一旦外に出てまいります。適当な頃合いを見計らって戻ってきますので、お二人はそのまま談笑でもしていてくださいな!』
そう言うと、ジェスターは扉を開けた。
そして──
パタン。
静かに扉を閉めた。
「……何だったんだ?」
エドガーは閉じられた扉を見つめ、困惑した声を漏らした。
「大丈夫ですよ、エドガーさん」
リリィは小さく笑った。
「ジェスターの秘密の道具って、すごいものがいっぱいあるんです。きっと今回も大丈夫です!」
「そうか……そうだな」
エドガーは苦笑した。
これまでジェスターが見せてきた奇妙な力を思えば、今さら香水ひとつで驚くのもおかしな話なのかもしれない。
「……それにしても、エドガーさん」
リリィはふと思い出したように顔を上げた。
「アンジェロさんとは、どんな人なの? さっきはあんなことになっちゃったけど……二人のこと、もっと知りたいな」
「アンジェロとの思い出か……そうだな」
エドガーは目を伏せ、しばし考え込んだ。
「もう随分と長い付き合いになる。商売を始めた頃から、何かと一緒にやってきた仲だ」
懐かしむように、彼の口元がわずかに緩む。
「時には意見をぶつけ合ったし、商売のことで本気で喧嘩したこともある。だが、最後には一緒に酒を飲んで笑い合った。互いの商売がうまくいけば喜び合ったし、困った時には助け合ってきた」
そこで言葉を切り、エドガーは遠くを見るような目をした。
「……私にとっては、そういう男だったんだ」
その声音には、長年の友情が確かに滲んでいた。
だからこそ、分からない。
もしもあの襲撃がアンジェロの仕業だったのなら、なぜなのか。
何か理由があったのか。それとも、自分が知らないところで、彼は変わってしまったのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
「そうなんだ……」
リリィはエドガーの顔をじっと見つめ、それから小さく首を傾げた。
「それなら、ますますおかしいね」
「……おかしい?」
「うん。だって、今の話を聞いているだけだと、二人はすっごく仲良しじゃない」
あまりにも素直な言葉だった。
だからこそ、エドガーはすぐに返事ができなかった。
「……そう、だよな」
信じたい。
だが、信じるための材料が、今はあまりにも少なかった。
『ヨホホホ! まったく、その通りでございますなぁ!』
「「うわぁぁぁっ!?」」
突然、すぐそばから声が響いた。
エドガーとリリィは、文字通り飛び上がった。
いつの間にか、二人のすぐ横にジェスターが立っていたのだ。
「い、いつの間に!?」
「ジェスター!? さっき外に出たんじゃなかったの!?」
『おやおや? いつの間に、とは心外ですなぁ! ワタクシ、最初からここにおりますよ?』
「……は?」
エドガーが間の抜けた声を漏らした。
『いやいや、正確には扉を開けて、閉めただけでございますな!』
「えっ……でも、確かに出ていったように見えたんだけど……」
『ヨホホホ! そうでしょう、そうでしょう! 出ていったように見えたでしょうとも!』
ジェスターは楽しそうに両手を広げた。
『しかし、実際には一歩たりとも外へ出ておりません! お二人のすぐ近くで、じっくりお話を聞かせていただきましたとも!』
「マジか……」
エドガーは額に手を当てた。
扉を開けて、閉めただけ。
ただそれだけの動作で、目の前の男は自分たちの認識をあっさりと欺いてみせたらしい。
「それが……その香水の力なの?」
リリィが手元の瓶を指さす。
『その通りでございます! 名づけて、希釈の香水!』
ジェスターは得意げに瓶を掲げた。
『存在感を希釈し、周囲の意識から自分という存在を薄めてしまう。姿を消すわけでも、透明になるわけでもございません。ただ、そこにいるという事実が、ひどく認識されにくくなるのでございます!』
「存在感を……薄める?」
「つまり、そこにいても気づかれにくくなるってこと?」
『ご名答! ヨホホホ! まぁ、透明人間になれる香水とでも思っていただければ結構!』
ジェスターは人差し指を立て、ただし、と付け加えた。
『もちろん、絶対に見つからないというわけではございません。注意深い相手や、何か特別な手段を持つ相手には気づかれる可能性もございますので、そこはくれぐれもご注意をば!』
「……なるほど。これなら、無駄に戦わずに済むかもしれないな」
エドガーの表情に、ようやくわずかな希望が戻った。
アンジェロが何を考えているのか。
あの襲撃は何だったのか。
まだ何ひとつ分かっていない。
それでも、直接本人と話す機会さえ得られれば、何かが変わるかもしれない。
ジェスターはそんなエドガーの心中などお構いなしに、ぱん、と両手を打ち鳴らした。
『さぁさぁ! それでは皆々様! 謎多き館、アンジェロ邸へと再び向かいましょう!』
鈴が、ちりん、と鳴った。
『今度こそ、舞台の幕を開けるといたしましょうか! ヨホホホ!』
こうして三人は、再びアンジェロの邸宅へと向かうことになった。
果たして、あの屋敷で彼らを待ち受けるものは何なのか。
そして、長年の友人であるアンジェロは、本当に何も知らないのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。




