友人と呪物
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屋敷へと到着した三人を出迎えたのは、ひどく疲れた様子の女性だった。
身なりこそ上品に整えられているものの、その顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。目元には薄い隈が浮かび、今にも倒れてしまいそうなほど憔悴していた。
おそらく、エドガーの妻であり、エミリアの母親であるクララなのだろう。
「あなた……! 助けが来たの?」
「ああ。この方が娘を助けてくれるそうだ」
エドガーがそう告げると、クララの表情に安堵が広がった。
しかし、その視線がジェスターへと移った途端、彼女の顔からみるみる笑みが消えていく。
『ヨホ! これはこれは奥様! ワタクシ、しがない旅のピエロ、ジェスターと申します。そして、こちらが──』
「一緒に旅をしているリリィです」
「…………あぁ」
クララは何かを言いかけ、口を閉ざした。
そして、眩暈でも覚えたかのように、そっと扉脇の壁へ寄りかかる。
「あなた……ふざけている場合じゃないのよ。ちゃんとした方を連れてきてちょうだい」
『おやおや、これは手厳しい』
「クララ! 娘を助けてくれるかもしれない方に、そんな言い方はないだろう!」
「あなたこそ、本気で言っているの!? こんな素っ頓狂なピエロに、エミリアを助けられると本気で思っているの!?」
「ああ。何もしないよりは、ずっといい」
エドガーは迷いなく答えた。
その声には疲労が滲んでいたが、諦めの色はなかった。
どれほどの医師に診せても、どれほどの魔術師を招いても、娘を救う方法は見つからなかった。財産も、地位も、人脈も──娘の命を前にしては、何の役にも立たなかったのだ。
それでも、彼は諦めていなかった。
たとえ目の前にいるのが、場違いなほど陽気なピエロであろうとも。
『まぁまぁ、お二人とも。そんなにカッカなさらずに』
「そうだよ。ジェスターはピエロだけど、凄いのよ!」
リリィもまた、ジェスターを庇うように口を挟んだ。
彼がどれほど常識外れな存在なのか、リリィは身をもって知っている。見た目や振る舞いだけで判断すれば、その本質を見誤ることになるだろう。
もっとも、そんなリリィの言葉にも、クララはすぐには納得できないようだった。
「……はぁ。もういいわ。とにかく、家に入ってちょうだい」
『ヨホホホ! それでは、お言葉に甘えて失礼いたしますぞ!』
ジェスターは帽子の先についた鈴をちりんと鳴らし、軽やかな足取りで屋敷へと入っていった。
その後に続きながら、リリィは思わず感嘆の声を漏らす。
「わぁ……! すごい。絵画もたくさんあるし、壺も綺麗……!」
屋敷の中には、壁一面にさまざまな絵画が飾られていた。廊下の隅には精巧な彫刻が置かれ、飾り棚には見るからに高価そうな壺や陶器が並んでいる。
どれも一目で上等な品だとわかるものばかりだった。
『そうですなぁ……。あの壺など、二百万ほどでしょうか』
「おや? 値打ちがおわかりになるので?」
『えぇ。伊達に旅のピエロをやっておりませんので』
「ピエロって、そういうものなの……?」
リリィが不思議そうに首を傾げる。
『さてさて、それよりも。エミリアさんのお部屋はどちらですかな?』
「ああ、こちらだ」
エドガーの案内で廊下を進み、屋敷の奥へと向かう。
やがて一行は、ひときわ頑丈そうな扉の前にたどり着いた。
扉には幾重にも鍵が取り付けられ、厳重に施錠されている。まるで、中にいる何かを閉じ込めるための牢獄のようだった。
『これはこれは……。随分と厳重に鍵がかかっておりますなぁ』
「ああ。これも娘自身が望んだことなんだ」
エドガーは扉を見つめ、苦しげに眉を寄せた。
「自分の魔力がいつ暴走するかわからない。もし眠っている間に制御を失って、部屋を飛び出してしまったら……。そうなれば、私たちを傷つけてしまうかもしれない。エミリアは、それをひどく恐れているんだ」
「そんな……」
リリィの表情が曇る。
自分の力が誰かを傷つけてしまうかもしれない。その恐怖がどれほど心を蝕むものなのか、彼女には痛いほどわかる気がした。
「エミリアは、今もこの部屋に?」
「ああ。だが、かなり衰弱している。食事もろくに取れず、眠っている時間も増えた。最近では、目を覚ましているだけでも苦しいらしい」
エドガーの拳が、ぎゅっと握り締められた。
娘の苦しむ姿を、これ以上見ていたくはない。
けれど、代わってやることもできない。
父親として、これほど無力さを思い知らされることがあるだろうか。
『なるほど、なるほど。それでは、そろそろご対面と参りましょうか』
「ああ。今、鍵を開ける」
エドガーが一つずつ鍵を外していく。
かちゃり、かちゃりと金属音が響くたびに、リリィの胸にも言いようのない緊張が募っていった。
そして最後の鍵が外れ、扉がゆっくりと開かれる。
部屋の中は、妙なほど静かだった。
窓には厚いカーテンが引かれ、家具は必要最低限のものしか置かれていない。壁にはいくつものひびが走り、床には何かが激しくぶつかったような傷跡が残っていた。
かつては少女らしい飾りつけがされていたのだろう。部屋の隅には、色褪せた花瓶が一つ置かれていた。
そして、その中央にあるベッドの上で──一人の少女が眠っていた。
エミリア。
かつては健やかで、花を愛する優しい少女だったという。
しかし、今の彼女には、その面影を探すことさえ難しかった。
細い腕。浮き出た鎖骨。血の気を失った頬。布団から覗く指先さえ、ひどく頼りなく見える。
まるで、命の灯火が今にも消えてしまいそうだった。
リリィは思わず息を呑んだ。
「……こんなに、苦しんでいたんだ」
その声は、ほとんど吐息のようだった。
エドガーは何も答えない。ただ、眠る娘を見つめる瞳が悲しげに揺れていた。
そんな中、ジェスターだけは違っていた。
少女をじっと眺めたかと思うと、口元に浮かべた笑みを深める。
『これはこれは……実に面白い』
「──ッ!?」
エドガーの顔色が変わった。
「面白いだと!? 娘がこんなにも苦しんでいるというのに……!」
『おやおや、これは失礼。言葉が足りませんでしたなぁ』
怒りを露わにするエドガーを前にしても、ジェスターはいつもの調子を崩さなかった。
ただし、その深紅の瞳は、眠るエミリアから一瞬たりとも離れていない。
「待って! 落ち着いてください! ジェスター、そういう言い方をする癖があるんです!」
リリィが慌てて二人の間に入る。
ジェスターの言葉が誤解を招きやすいことは、彼女もよく知っていた。
エドガーはしばらくジェスターを睨みつけていたが、やがて深く息を吐いた。
「……娘を助けてくれるのなら、方法は問いません。どうか……どうか、エミリアを救ってください」
そう言って、エドガーは深々と頭を下げた。
この街でも有数の名家を率いる男が、誇りも体裁もかなぐり捨て、ただ一人の父親として頭を下げている。
その姿を見て、リリィはそっと胸を撫で下ろした。
少なくとも、この人は娘を救うためなら何でもするつもりなのだ。
その願いを、ジェスターが踏みにじるはずはない。
『ええ、ええ。もちろんですとも』
ジェスターは、ようやく少女から視線を外した。
『取り敢えず、原因はわかりましたぞ』
「……は?」
エドガーが顔を上げる。
「もう、わかったのですか?」
『ヨホ! 簡単なことです。彼女──エミリアさんは、魔力が多すぎるのですよ』
「魔力が……多すぎる?」
エドガーは困惑したように繰り返した。
「ですが、先生は、ただの魔力覚醒ならば時間とともに落ち着くと……」
『ですから、先ほども申し上げたでしょう? 魔力が多すぎるのです』
ジェスターは、まるで子供に物事を教えるように、楽しげに指を一本立てた。
『よろしいですかな? ここに、小さな木桶があるとしましょう』
彼が手を動かすと、どこからともなく木桶が一つ現れた。
その中へ滝のような濁流が流れ込む様子を、ジェスターは身振り手振りを交えて表現してみせる。
『さてさて、この小さな木桶に、滝のような水を注ぎ込んだらどうなるでしょう?』
「それは……当然、壊れてしまうわ」
リリィが答える。
『ピンポン! 正解ですぞ!』
ジェスターは楽しげに手を叩いた。
『エミリアさんは、まさにその状態なのです。身体が未熟なうちに、膨大な魔力だけが溢れ出している。器となる身体が、その力を受け止めきれていないのですなぁ』
「ですが、魔力覚醒というものは、身体の成長に合わせて魔力量が増えていくものでは……?」
『えぇ、本来ならばそうでしょうな。魔力量が増えれば、それに見合うだけ器も育つ。ところが、エミリアさんの場合は、その成長が何者かによって妨げられている』
ジェスターは、眠る少女へと視線を戻した。
『言い換えれば、身体という木桶は小さなままなのに、中へ注がれる水だけが増え続けている。これでは、いずれ壊れてしまうのも道理というものです。はい』
「それなら……その妨げているものを取り除けば、娘は助かるのですか?」
『えぇ。原因さえ取り除ければ、エミリアさんは治りますとも。ヨホホホ!』
「……よかった。本当に……よかった……!」
エドガーは震える声で呟き、目元を押さえた。
半年もの間、どれほどの医師にも、どれほどの魔術師にも見つけられなかった原因。それがようやく判明したのだ。
その喜びは、彼にとって何物にも代えがたいものだった。
しかし、ジェスターはまだ話を終えていなかった。
『さてさて、それではリリィちゃんに問題です!』
「えっ? わ、私?」
『その通り! ではでは、何がエミリアさんの成長を妨げているのでしょうか?』
「そ、そんな急に言われても……!」
『ヨホホホ! よーく目を凝らしてご覧なさい。普通の人には見えないものが、そこにあるはずですぞ』
「普通の人には見えないもの……?」
リリィは戸惑いながらも、エミリアへと向き直った。
白い髪。青白い肌。かすかに上下する胸元。
少女の身体には、目立った傷も、異常な痣も見当たらない。
それでも、ジェスターが何の根拠もなく言っているとは思えなかった。
リリィは目を凝らし、エミリアの周囲に意識を集中させる。
最初は、何も見えなかった。
だが、さらに深く見つめていると──。
「……あれ?」
少女の身体を覆うように、何かが漂っている。
黒い影。
煙のように薄く、輪郭も曖昧なそれは、エミリアの身体にまとわりつき、まるで彼女の魔力を啜るかのように蠢いていた。
リリィの背筋に、ぞくりと悪寒が走る。
「あれは……呪い?」
『ピンポン! ピンポン! 大正解ですぞ、リリィちゃん!』
ジェスターは、クイズの正解を喜ぶ司会者のように、両手を広げた。
その陽気な声が、静まり返った部屋の中に響き渡る。
しかし、リリィの目には、もう黒い影しか映っていなかった。
それは、ただ少女を苦しめているだけのものではない。
まるで何かを押し留めるように、エミリアの身体へと深く食い込んでいる。
膨大な魔力の成長を妨げ、逃げ場を失った力を暴走させているのだ。
「──の、呪いですと!?」
ジェスターの言葉を聞いたエドガーは、驚愕に目を見開いた。
『えぇ、そうです。呪いでございます』
「呪いなんて、そう簡単に見つかるものではないのでしょう?」
リリィが不安げに尋ねる。
呪い。それは魔術の中でも特殊な部類に属する術だ。単純に傷を負わせたり、命を奪ったりするだけなら、ほかにも手段はいくらでもある。わざわざ呪いという形を取るからには、それなりの理由があるはずだった。
『そうでございますなぁ。呪いそのものが珍しいというわけではありませんが、今回のようなものは別格ですぞ』
ジェスターは、エミリアの眠るベッドへと視線を向けた。
『高名な医師や、名の知れた魔術師たちですら、その存在に気づけなかった。しかも、呪いはエミリアさんの魔力の成長を妨げ、行き場を失った魔力を暴走させている。実に巧妙で、実に悪趣味な仕掛けでございますなぁ』
「一体、誰がそんなことを……!」
エドガーの顔が怒りに歪んだ。
「私の可愛い娘に、どうしてこんなことを! もし犯人がわかったら、絶対に許さん……!」
握り締められた拳が震える。
娘は半年もの間、苦しみ続けてきた。
原因もわからず、治療法も見つからず、ただ衰弱していく姿を見守るしかなかった。その苦しみが、誰かの悪意によって引き起こされたものだというのなら──怒りを抑えられるはずもなかった。
『ヨホ! まぁまぁ、落ち着いてくださいませ、エドガーさん』
ジェスターは、いつもの調子でひらひらと手を振った。
『まだ犯人が決まったわけではありませんぞ。まずは、呪いの正体を見極めるところからでございます』
「……それは、そうですが」
『それにですなぁ……これは、人間が直接かけた呪いではありません』
「何ですって?」
エドガーが眉をひそめる。
リリィもまた、不思議そうに首を傾げた。
「人がかけた呪いじゃないって……どういうこと?」
『呪物でございます』
「呪物?」
『えぇ。文字通り、呪いが宿った物体のことですな。誰かが術を施したのか、それとも別の経緯で呪いを帯びたのか。それは品物によってさまざまでございますが……今回の件では、呪物がエミリアさんの魔力を乱しているようですなぁ』
「そんなものが、どうして娘のところに……」
エドガーは困惑した様子で呟いた。
娘の周囲に、呪いを帯びた品などあっただろうか。
そもそも、そんな危険な物を誰が持ち込んだというのか。
考え込むエドガーを見て、ジェスターはぽん、と手を叩いた。
『おや? そういえば、エドガーさん。一つお尋ねしてもよろしいですかな?』
「な、何でしょう?」
『エミリアさんのお誕生日に、何か贈り物をされた方はいらっしゃいませんでしたかな? 特に、装飾品の類など』
「誕生日の贈り物……?」
エドガーは記憶を探るように目を伏せた。
半年ほど前。エミリアが倒れたのは、ちょうど誕生日を迎えた頃だったはずだ。
「……そういえば」
やがて、何かを思い出したように顔を上げた。
「同じ商家のアンジェロが、エミリアの誕生日に贈り物を持ってきたんです。確か、ペンダントだったはず……」
『ヨホ! なるほど、なるほど!』
ジェスターは楽しげに手を叩いた。
『それは実に興味深いですなぁ。エドガーさん、少々失礼』
そう言って、ジェスターはベッドの傍らへと歩み寄った。
眠り続けるエミリアの首元には、一本の細い鎖が掛けられていた。その先で、小さなペンダントが静かに揺れている。
華美すぎず、それでいて上品な装飾。大切な人から贈られた品として、少女が気に入って身につけていたとしても不思議ではない。
『ふむふむ……これですな』
ジェスターはペンダントを手に取り、赤い瞳を細めた。
『いやはや、これはまた……』
「やはり、それが呪物なのですか?」
エドガーが息を呑んで尋ねる。
『えぇ。間違いありませんな』
ジェスターはあっさりと答えた。
『このペンダントに宿った呪いが、エミリアさんの魔力の成長を妨げているのでございます。成長できない器に魔力ばかりが溜まっていく……先ほど申し上げた木桶の話、そのものですなぁ』
「そんな……! では、これを外せば娘は……!」
『少なくとも、呪いが魔力の成長を妨げることはなくなります。もっとも、半年もの間、身体に負担が掛かり続けていたのです。外した途端に元通り、というわけにはいかないでしょうな』
その言葉に、エドガーは唇を噛んだ。
原因がわかったからといって、娘がすぐに元気になるわけではない。
それでも、ようやく希望が見えたのだ。
「……エミリア、もう少しだけ頑張ってくれ」
エドガーは眠る娘の手を、そっと握った。
そしてジェスターは、ペンダントの留め具に指を掛ける。
『それでは、少々失礼いたしますぞ』
かちり、と小さな音が鳴った。
首元から鎖が外れる。
その瞬間、ペンダントを覆っていた黒い靄が、まるで獲物を失った生き物のように揺らめいた。
「……っ!」
リリィが息を呑む。
それまで目に見えないほど薄かった呪いの気配が、ペンダントを外したことで、かえってはっきりと感じ取れるようになったのだ。
ジェスターはペンダントを指先でつまみ、ひらひらと揺らした。
『ヨホホホ! なるほどなるほど。随分と念入りに仕込んでありますなぁ』
「ジェスター、それを持っていて大丈夫なの?」
『おや、リリィちゃん。ご心配には及びませんぞ。こんなもの、ワタクシにとっては小さな玩具のようなものですからなぁ』
そう言いながら、ジェスターはペンダントを懐へとしまった。
エミリアの身体を蝕んでいた原因は、ひとまず彼女から引き離された。
だが、これで全てが解決したわけではない。
「……アンジェロが、これを?」
エドガーは呆然と呟いた。
長年、商売を通じて付き合ってきた男。互いに利益を求める商人同士、時には競い合うこともあったが、それでも信頼できる相手だと思っていた。
その男が、娘に呪物を贈ったというのか。
『さてさて、そこが問題でございますなぁ』
ジェスターは、いつもの調子で肩をすくめた。
『アンジェロ殿が意図して贈ったのか。それとも、ご本人も知らずに呪物を渡してしまったのか。今の段階では、まだわかりませんからな』
「……そうだな。直接、確かめるしかない」
エドガーは顔を上げた。
その表情には、まだ迷いが残っていた。
長年の付き合いがある相手を疑いたくはない。だが、娘を苦しめた呪いの手掛かりが、彼から贈られた品にある以上、見て見ぬふりをするわけにもいかなかった。
「アンジェロの屋敷へ行こう。本人に話を聞く」
「うん。そうしよう」
リリィも頷いた。
エミリアを救うためにも、呪いの出どころを突き止めなければならない。
『ヨホホホ! それでは皆々様、次なる舞台へ参りましょう!』
ジェスターは帽子の先についた鈴を、ちりん、と鳴らした。
『果たしてアンジェロ殿は、いったい何を語ってくださるのでしょうなぁ? これはこれは、先が楽しみでございます!』
「……あまり面白がらないでくれ」
『おやおや、失礼いたしました! ですが、エドガーさん。真実というものは、本人の口から聞くまではわからないものですぞ』
その言葉に、エドガーは小さく頷いた。
こうしてジェスター、リリィ、そしてエドガーの三人は、呪いの宿ったペンダントを携え、アンジェロの屋敷へと向かうのだった。
読んでくれてあんがとな




