冒険者と模擬戦
例の事件が解決しジェスター達は突如として現れた謎の道化師とその同行者と街の中では話題で溢れていた。
「ジェスター! ジェスター! 次のショーはいつやるの?」
「そうだぜ、ジェスター! 早くマジックを見せてくれよな!」
「ねぇねぇ、今度は鳩を出してよ!」
「私はお花がいい!」
『ヨホホホ! お子様方、どうか、どうか落ち着いてくだされ! このしがないピエロ、逃げも隠れもいたしませんぞぉ!』
件のジェスターは、子供たちに揉みくちゃにされていた。
右から袖を引っ張られ、左から帽子をつつかれ、挙げ句の果てには長い衣装の裾にまで子供たちが群がっている。
それでもジェスターは嫌がるどころか、実に楽しそうに笑っていた。
『おやおや! そんなに引っ張ってはいけませんぞ! ワタクシの腕がびよーんと伸びてしまいますので!』
「えっ、伸びるの!?」
「見せて見せて!」
『ヨホホホ! それはまた次回のお楽しみでございます!』
「えーっ!」
子供たちから一斉に不満の声が上がる。
ジェスターは大げさに肩を落とし、わざとらしくため息をついた。
『おお、なんということでしょう! お客様の期待に応えられぬとは、ピエロ失格でございますなぁ!』
「じゃあ、今すぐ見せてよ!」
『あちゃー! これは一本取られましたなぁ!』
そんなやり取りを、少し離れた場所から眺めている二人の少女がいた。
「うふふ、ジェスターったら。すっかり子供たちに揉みくちゃにされちゃってる」
リリィは口元に手を添え、楽しそうに笑った。
「そうね、リリィちゃん。あの人、本当に生き生きしているわね」
隣に立つエミリアも、穏やかな笑みを浮かべていた。
かつてはベッドから起き上がることすらままならなかった少女。
今ではこうして自分の足で外へ出て、友人と並んで笑えるまでに回復していた。
その顔には、以前のような怯えも、いつ自分の魔力が暴走するかという恐怖も、ほとんど見られない。
もちろん、完全に元通りというわけではない。
体力はまだ戻りきっておらず、魔力の制御にも慎重な経過観察が必要だった。それでも、少しずつ日常を取り戻していることは、誰の目にも明らかだった。
そして、それから数か月。
ジェスターとリリィは、エドガーの屋敷に滞在していた。
エミリアの回復を見守るため──というのも、もちろん理由の一つではある。
しかし、実のところジェスターは、エミリアの魔力を妨げていた呪いの正体や、その呪いがもたらした騒動の後始末に興味を持っていた。
何より、エドガー一家との交流が、思いのほか気に入っていたらしい。
昼間は子供たちに手品を披露し、時にはリリィと街を散策し、時にはエドガーの商談に顔を出しては、場違いな冗談で周囲を困惑させる。
そんな日々を、ジェスターは存分に楽しんでいた。
──そして、その日の午後。
昼下がりの柔らかな日差しが、屋敷の庭を照らしていた。
ジェスターは相変わらず子供たちに囲まれ、今度は空っぽの帽子から何かを取り出そうとしていた。
『さぁさぁ、皆様ご注目! 今回取り出しますのは、なんと──』
「お花!」
「鳩!」
「お菓子!」
『ヨホホホ! 皆様、欲望に忠実でございますなぁ!』
ジェスターが帽子の中へ手を差し入れた、そのときだった。
「ジェスターさん、リリィさん。エドガー様がお呼びです」
屋敷の使用人が、庭先へやってきた。
『おや? エドガーさんが?』
「はい。お二人とも、応接室まで来ていただきたいとのことです」
『ほほう! これはこれは! ワタクシたちにお話とは、いったい何でございましょうなぁ!』
ジェスターは帽子をくるりと回し、子供たちに向かって深々と一礼した。
『お子様方、申し訳ございません! 本日のショーは、ここで一時閉幕でございます!』
「えーっ!」
「まだ見たい!」
『ヨホホホ! ご安心を! ピエロは逃げませんぞぉ!』
そう言い残すと、ジェスターは長い衣装の裾を翻し、リリィのもとへ歩み寄った。
「ジェスター、エドガーさん、何のお話だろうね?」
『さてさて、何でございましょうなぁ! 新しいお仕事の依頼か、それとも豪華なお食事のお誘いか!』
「もう、ジェスターったら。そんなに食いしん坊だった?」
『おやおや、リリィちゃん。旅というものは体力勝負でございますぞ! 腹が減ってはショーもできませんので!』
「ふふっ、そうね」
二人は顔を見合わせて笑いながら、屋敷の中へと入っていった。
やがて、応接室の扉の前にたどり着く。
ジェスターは帽子の位置を整え、いつものように芝居がかった仕草で扉をノックした。
『エドガーさーん! しがない旅のピエロと、その可愛らしい同行者がお越しになりましたぞぉ!』
「入ってくれ」
扉の向こうから返事があった。
ジェスターはリリィへ目配せすると、ゆっくりと扉を開く。
そこには、いつになく真剣な面持ちのエドガーが待っていた。
机の上には、一通の封書が置かれている。
『おやおや? これはこれは……』
ジェスターは封書に目を向け、口元を吊り上げた。
『どうやら、ただのお茶会というわけではなさそうですなぁ!』
深紅の瞳が、愉快そうに細められる。
『ヨホホホ! さてさて、今度はいったい、どんな舞台がワタクシたちを待ち受けているのでございましょうか!』
「唐突だが君達には冒険者になってもらいたい」
応接室に響いたエドガーの言葉は、あまりにも唐突なものだった。
『おやおや、唐突ですなぁ? はてさて、どうしてそのようなお話に?』
ジェスターは首を傾げ、芝居がかった仕草で両手を広げる。
「単純に、私が君達に冒険者になってほしいからだよ」
『ほほう?』
「貴方は途轍もない力を有している。だが、だからといって、その力で弱者を救済してほしいなどと言うつもりはない」
『なるほど、なるほど』
ジェスターはうんうんと頷いている。
……頷いてはいるのだが、その表情からは、真剣に話を聞いているのかどうか、いまひとつ判然としない。
「貴方は人間の感情や行いに興味があるようだし、旅を続けるつもりなのだろう? ならば、冒険者という肩書きと冒険者カードを持っていても損はないはずだ」
『ふむふむ、なるほどなるほど』
「……っ。本当に話を聞いているのか?」
『はいなぁ! もちろん、ちゃあんと聞いておりますとも!』
ジェスターは胸を張り、満面の笑みで答えた。
『つまり、スズメが牛になったというお話でございましょう?』
「どこをどう聞けばそうなるんだ!」
「もう、ジェスターったら……」
隣にいたリリィが、呆れたように笑う。
「はぁ……」
エドガーは深々とため息をついた。
『ヨホホホ! ジョーク、ジョーク! ちょっとした冗談でございますよ!』
ジェスターは楽しそうに肩を揺らしたあと、ひょいと首を傾げた。
『冒険者の件、引き受けてもよろしいですよ』
「本当か!?」
思いがけない返答に、エドガーは目を見開いた。
『えぇ。ワタクシ一人であれば、そのような肩書きなど必要ありませんが……今回は、同行者もおりますので』
そう言って、ジェスターは隣に立つリリィへと視線を向けた。
「……私のこと?」
『はいな。そうでございます』
ジェスターは、いつもの調子で大仰に頷いてみせる。
『ワタクシはどこへ行こうと、何をしようと、さして困りませんからなぁ。ですが、リリィちゃんと一緒に旅をするとなれば、話は別でございます』
「ジェスター……」
『せっかくの旅ですからねぇ! いちいち門前払いを食らったり、身分を証明するためにあれこれ説明したりするのは、少々面倒でございますから!』
「なるほど……確かに、冒険者の身分があれば便利そうだね」
リリィは納得したように頷いた。
そんな彼女を見て、ジェスターは満足げに両手を広げる。
『そういうことでございます! いやはや、エドガーさん。なかなか気の利いた提案をしてくださいましたなぁ!』
「……君に褒められると、どうにも素直に喜べないな」
『ヨホホホ! それはそれは! 実に残念でございますなぁ!』
エドガーは苦笑し、リリィはくすくすと笑った。
こうして、ジェスターとリリィは冒険者となることを決めたのだった。
冒険者になることを決めたジェスターとリリィは、早速、冒険者ギルドへと足を運んだ。
────────────────
街の大通りに面したその建物は、想像していた以上に大きかった。
『ヨホホホ! これが冒険者ギルドでございますか! いやはや、エドガーさんのお屋敷にも負けず劣らずの大きさですなぁ!』
「本当ね! とっても大きいわ!」
リリィは建物を見上げ、感心したように目を輝かせた。
『おまけに、宿屋と酒場も一緒になっているとか! これはなかなか、賑やかな場所のようですぞ!』
建物の中からは、いくつもの話し声や笑い声が聞こえてくる。
『それではリリィちゃん! 早速、中へ入ってみましょうぞ!』
「うん!」
二人は扉をくぐり、冒険者ギルドの中へと足を踏み入れた。
途端、賑やかな喧騒が二人を包み込む。
そこは、まさに人種の坩堝だった。
屈強な大男に、身軽そうな身なりの青年。耳の長い者や、獣のような耳や尻尾を持つ者。人間とは異なる姿をした者たちも、当たり前のように同じ空間で酒を飲み、食事を楽しみ、仲間と談笑していた。
「おーい! こっちに酒をもう一杯!」
「こっちはステーキを頼まぁ!」
「はいよ! 少し待ってな!」
「お前、あの依頼を受けるつもりなのか?」
「お前より上手くやってやるよ!」
「あんだとぉ!?」
「やんのかぁ、コラァ!」
「喧嘩するなら外でおやり! 店の中で暴れるんじゃないよ!」
あちらこちらで飛び交う怒声と笑い声。
食器のぶつかる音に、酒場の主人の威勢のいい声。
落ち着いて会話をするには、少々騒がしすぎるほどだった。
『ヨホ! これはこれは! なんとも面白い場所ですこと!』
「そうね! 色んな人たちがいるわ!」
リリィも興味津々といった様子で、辺りを見回している。
見たことのない種族。聞いたことのない言葉。見慣れない武器を携えた冒険者たち。
その一つひとつが、彼女にとって新鮮だった。
『それでは、リリィちゃん! まずは受付へ参りましょうか!』
「うん!」
二人は人混みを縫うようにして、奥にある受付カウンターへと向かった。
途中、酔っぱらった冒険者たちの大きな笑い声が響いたり、依頼書を手にした一団が慌ただしく駆け抜けたりと、なかなか前へ進めなかったものの、どうにか受付までたどり着く。
そこには、若い女性職員が座っていた。
ジェスターはカウンターの前に立つと、軽く身を乗り出した。
『コンコン、ノックしてもしも〜し!』
「は〜い! 何かご用でしょうか? それとも、依頼を受けにいらしたんですか?」
女性職員は顔を上げ、にこやかに応対した。
『ノンノン! 今回は、ちょいとばかり違うのでございます! 実はワタクシたち──』
「冒険者になりに来たの!」
リリィが元気よく言葉を引き継いだ。
その瞬間。
周囲の喧騒が、ぴたりと止まった。
「…………は?」
誰かが間の抜けた声を漏らす。
冒険者たちの視線が、一斉に受付へと集まった。
そこにいたのは、奇抜な赤と黒の衣装を身にまとった道化師と、白いワンピースを着た小柄な少女。
片や、どこか胡散臭い笑みを浮かべたピエロ。
片や、武器らしい武器も持たない幼い少女。
その二人が、堂々と冒険者になりに来たと宣言したのだ。
数秒の沈黙。
そして──。
「ぎゃはははははははっ!!」
ギルド中が爆笑に包まれた。
「おいおい、冗談だろ!? ピエロとガキが冒険者だってよ!」
「お前ら、ここをどこだと思ってんだ! サーカス会場じゃねぇぞ!」
「大人しく街でショーでもしてろ!」
「その嬢ちゃん、魔物に睨まれただけで泣いちまうんじゃねぇか!?」
「ぎゃはははははっ!!」
あちこちから嘲笑が飛んでくる。
受付の女性職員も困ったような表情を浮かべ、どう対応したものかと二人を見つめていた。
「ッ〜〜〜!!」
リリィの頬が、みるみるうちに赤く染まった。
悔しかった。
自分たちが何も知らないからといって、何もできないと決めつけられるのは。
言い返してやろうと、リリィが口を開きかけた、そのとき。
『──お静かに』
ジェスターが、静かに告げた。
たった、それだけだった。
大声を張り上げたわけでもない。
威圧的な言葉を並べたわけでもない。
ただ、いつもの軽薄な声音で、ひと言。
それだけで──。
「「「…………ッ!?」」」
ギルドの空気が凍りついた。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、そこにいた全員が感じ取った。
死。
抗うことも、逃げることも許されない、圧倒的な死の気配。
まるで、巨大な何かに喉元を押さえつけられたかのような感覚。
呼吸が止まり、心臓が跳ね上がる。
先ほどまで笑っていた者たちの顔から、血の気が引いていく。
そして、数々の死線を潜り抜けてきた上位冒険者たちは、誰よりも強くその異常さを感じ取っていた。
目の前にいるのは、ただの道化師などではない。
自分たちがこれまで対峙してきた魔物とは、根本から何かが違う。
「ハッ……ハッ……!」
「な、何だ今の……!?」
「ドラゴンと対峙した時だって、こんな感覚は……!」
「冗談だろ……あいつ、いったい何者なんだ……!」
ギルドの片隅では、とある冒険者の一団が武器を抜き、臨戦態勢を取っていた。
彼らの額には、冷たい汗が浮かんでいる。
だが、ジェスターはそんな周囲の反応など気にも留めず、いつものように楽しげな声を上げた。
『ヨホ! いやぁ、静かになりましたなぁ! 実に結構、実に結構!』
そして、何事もなかったかのように受付へ向き直る。
『それでは、改めて本題に入りましょうか!』
ジェスターは懐から一通の茶色い封筒を取り出し、カウンターの上へと差し出した。
『こちらを、どうぞ!』
「こ、こちらは……?」
女性職員は恐る恐る封筒を受け取った。
そして、封蝋に刻まれた紋章を確認した瞬間、その表情が一変した。
「ア、アッシュフォード家の蝋印……!?」
彼女は慌てて姿勢を正し、先ほどまでの困惑した態度を改めた。
「アッシュフォード家のお客様でしたか! これは、とんだご無礼を……!」
『本当でございますよ』
ジェスターは、わざとらしく肩をすくめた。
『ピエロのワタクシが笑われるのは、別に構いませんとも! 道化師とは、笑いをお届けするのがお仕事でございますからなぁ!』
そこで、ジェスターは隣に立つリリィへと視線を向けた。
『ですが──リリィちゃんが笑われるのは、いただけませんな』
「ジェスター……」
リリィは、驚いたように彼を見上げた。
ジェスターはいつもの笑みを浮かべている。
けれど、その深紅の瞳は、先ほどまでとは違う静かな光を宿していた。
『さてさて! それでは受付のお嬢様、冒険者登録をお願いできますかな?』
まるで、何事もなかったかのように。
ジェスターは再び、陽気な道化師へと戻っていた。
しかし、ギルドにいた者たちは、もう誰一人として二人を笑おうとはしなかった。
ジェスターとリリィは、ギルドの職員に案内され、応接間へと通されていた。
室内には来客用のソファーとテーブルが置かれている。二人が腰を下ろしてしばらく待っていると、扉の向こうから低く渋い声が響いた。
「入るぞ」
返事を待って扉が開き、現れたのは、いかにも歴戦の戦士といった風貌の男だった。
「ワシはギルド長のモルドだ。よろしく頼む」
『ヨホ! 貴方がモルドさんですな? これはこれは、ご丁寧に! ワタクシ、しがない旅のピエロ、ジェスターと申します。それで、こちらは……』
「リリィって言います! よろしくお願いします!」
ジェスターに続いて、リリィも元気よく頭を下げた。
「さん付けなんぞ堅苦しい。モルドと呼び捨てで構わんぞ。代わりに、ワシもお前たちを呼び捨てにさせてもらうからな」
『ヨホホ! それではモルド、よろしくお願い致します』
「よろしくな、ジェスター、リリィ」
ひと通り挨拶を交わすと、モルドは向かいのソファーに腰を下ろした。そうして、いよいよ本題へと話を進める。
「まず、冒険者カードの発行についてだが……これは問題なく認められる。それに伴って、正式な冒険者登録をしてもらう必要がある。登録には簡単な実力確認を兼ねた模擬戦を行う決まりでな。まあ、そう身構える必要はない」
『なるほど、なるほど。実力を見極めるための腕試しというわけですな』
「そういうことだ」
モルドは頷き、それからふと思い出したようにリリィへ視線を向けた。
「そういえば、リリィは戦えるのか? 冒険者として活動する以上、まったく戦えないとなると、カードの発行も考えねばならんのだが……」
「問題ないよ! 私、魔法が使えるもん!」
「ほう、魔法か。例えば、どんなものが使えるんだ?」
「氷でしょ、炎でしょ、それに雷も! あとはね、ほかにもいろいろ!」
リリィは指を折りながら、楽しそうに答えた。
「……はぁ。見た目に似合わず、なかなか多彩なんだな」
モルドは感心したように息を吐く。目の前にいるのは、どう見ても幼い少女だ。その少女がいくつもの属性魔法を使えるというのだから、驚くのも無理はない。
「まあ、それだけ使えるなら問題ないだろう。では、早速模擬戦といこうか」
モルドに連れられ、ジェスターたちがやって来たのはギルド併設の修練場だった。
広々とした敷地には、武器を振るう者、魔法の制御を練習する者、仲間と連携を確かめる者など、数多くの冒険者たちが集まっていた。金属がぶつかり合う音や、威勢のいい掛け声があちこちから響き、冒険者たちの熱気が肌に伝わってくる。
「よし。それじゃあ、模擬戦の相手を決めるとするか……」
「私たちにやらせてください」
モルドの言葉を遮るように、凛とした声が響いた。
声の主は、先ほどギルドの受付でジェスターたちに武器を向けた冒険者たちだった。
その先頭に立つのは、大剣を背負った女性。彼女はモルドの前まで歩み出ると、真っ直ぐにギルド長を見据えた。
「リーザ、お前たちは……」
モルドは困ったように眉をひそめた。
「ランクが高いお前たちを相手にするのは、少々やりすぎじゃないか?」
「ギルド長も感じたでしょう? あの殺気を」
「ああ……」
モルドの表情から、わずかに笑みが消えた。
先ほど、ジェスターが一言『お静かに』と告げた瞬間。
その場にいた者たちは、まるで死そのものに触れたかのような感覚を味わった。今でも、あの得体の知れない圧迫感を忘れられない者は少なくない。
「アレは並の相手じゃありません。素行の悪い連中を当てて、万が一のことがあれば困るでしょう?」
「……確かにな」
モルドは顎に手を当て、少し考え込んだ。
「分かった。ただし、怪我をさせない程度に留めておけよ」
「相手が、そうさせてくれるならね」
リーザは意味ありげに笑うと、ジェスターたちへと視線を向けた。
モルドは小さくため息をつき、それから二人を振り返る。
「そういうわけだ。ジェスター、リリィ。模擬戦の相手は、このリーザたちのパーティーに頼むことになった」
『ヨホホホ! これはこれは、頼もしい方々ですな! リーザさん、それに皆々様、どうぞよろしくお願い致します!』
「よろしくお願いします!」
ジェスターはいつもの調子で陽気に頭を下げ、リリィもそれに倣った。
対するリーザたちは、まだ警戒を解いていない。特にリーザは、ジェスターの飄々とした態度を見極めるように、その姿をじっと観察していた。
「さて、模擬戦を始める前にルールを説明する」
モルドは懐から、古びた木札の付いたネックレスを取り出した。
「まずはこれを首に掛けろ」
二人に手渡されたのは、簡素な作りの木札だった。
「そいつは『身代わりの札』だ。結界の中で致命傷を負うような攻撃を受けた場合、即座に結界の外へ転移させる仕組みになっている。これがある限り、模擬戦で命を落とすことはない」
『ほほう! それは便利な品ですなぁ』
「ねえ、ジェスター。これ、すごく便利だね!」
『ヨホ! まことに! これなら安心して、思い切り遊べるというものです!』
ジェスターは木札を指先でつまみ、興味深そうにくるりと回した。
「それから、武器や弓矢の使用に特別な制限はない。自分が扱えるものなら、好きに使って構わん。 準備ができた者から結界の中へ入れ!」
モルドの説明を聞き終えると、ジェスターは弾むように両手を広げた。
『ヨホホホ! これはこれは、実に面白そうですなぁ! こうして誰かと競い合うなど、いったいいつ以来のことでしょう!』
その声には、心の底から楽しんでいる様子が滲んでいた。
「ジェスター、楽しみ?」
『それはもう! 相手がいればこそ、遊戯は愉快になるというもの!』
「えへへ、私も楽しみ!」
リリィも嬉しそうに笑う。
二人はこれから始まる模擬戦に、すっかり胸を躍らせているようだった。
「よし! それでは──全員、構え!」
モルドの号令が修練場に響き渡った。
リーザたちは一斉に武器を抜き、それぞれの得物を構える。大剣を携えたリーザを先頭に、全員が隙なく戦闘態勢へと移行した。
対するジェスターはというと──。
武器を構えるどころか、両手を後ろで組み、楽しげに身体を左右へ揺らしていた。
まるで、これから始まるのが命懸けの模擬戦ではなく、観客を沸かせる愉快な見世物であるかのように。
『さぁて、皆々様! いったいどんな舞台を見せてくださるのでしょうなぁ!』
鈴の音が、ちりん、と軽やかに鳴った。
模擬戦開始の合図が響いた、その瞬間だった。
真っ先に動いたのは、弓兵のマゼンタ。
彼女は即座に弓を引き絞り、狙いを定める。鍛え上げられた腕が弦を限界まで引き伸ばし、矢尻が真っ直ぐにジェスターを捉えた。
そして──
ヒュンッ!
鋭い風切り音とともに、矢が放たれた。
『ヨホ?』
ジェスターが首を傾げた、その直後。矢は彼の身体を射抜く──はずだった。
「重力よ」
リリィの声が静かに響く。
次の瞬間、矢は見えない何かに押さえつけられたかのように軌道を変え、地面へと叩き落とされた。
ズドンッ!
「くっ! やっぱり、あっちの子が魔法使いか!」
「しかも詠唱破棄ですって!?」
マゼンタと仲間たちが驚きの声を上げる。
しかし、彼らが体勢を立て直すよりも早く、次の一手が繰り出された。
地を蹴り、風のように駆け出したのは盗賊のカールだ。
彼女は低い姿勢で修練場を駆け抜け、ジェスターの隙を突くようにリリィへと肉薄する。
「取った!」
「雷鳴よ」
リリィが微笑んだ。
刹那、空気を切り裂く閃光が走る。
轟音とともに落ちた雷が、カールの身体を撃ち抜いた。
「ぐあぁぁぁっ!」
カールの身体が大きく跳ね、煙を上げながら地面に倒れ込む。
その光景を目にしても、リリィの笑みは消えなかった。
「うふふ! 楽しいわ! もっともっと、足掻いてちょうだい!」
『ヨホ! アチラは何やら白熱しておりますなぁ!』
ジェスターは、まるで舞台の観客にでもなったかのように、楽しげな声を上げた。
だが、その余裕たっぷりの態度に、リーザは不満げに口元を歪める。
「そうね。だけど今は──アタシのことを見てほしいかしらッ!」
振り下ろされる大剣。
リーザの剣筋は、豪快な見た目に反して洗練されていた。長年の鍛錬を積み重ね、幾度となく実戦を潜り抜けてきたことが窺える、無駄のない一撃。
しかし、ジェスターはその斬撃を、ひらり、ひらりと軽やかにかわしていく。
まるで、舞台の上で踊るように。
『ヨホホホ! すんばらしい大剣さばきでございます! いやはや、積み重ねてきた努力がヒシヒシと伝わってまいりますなぁ!』
「だったら、少しくらい当たってくれてもいいんじゃない!?」
リーザが大剣を振り抜きながら叫ぶ。
ジェスターは答える代わりに、ひょいと身体を傾けた。大剣が鼻先を掠め、空を切る。
「リーダー! どいて!」
ミカの声が飛んだ。
リーザは即座に身を引く。その判断に一切の迷いはなかった。
彼女が退いた直後、後方から魔力が膨れ上がる。
リーザのパーティー最後の一人、魔法使いのミカが、渾身の魔法を放った。
「火の灯火よ、我が眼前に至る敵を焼き払え──【ファイヤーボール】!」
轟ッ!
燃え盛る火球が唸りを上げ、ジェスターの顔面へと直撃した。
『アチャチャチャチャッ!? こりゃ熱い! 熱いでございますよぉ!』
「ちょっと! ジェスター、大丈夫!?」
リリィが思わず声を上げる。
火球の炎に包まれたジェスターの姿を見て、リーザたちも一瞬だけ動きを止めた。
だが──
『…………なーんて、嘘〜』
次の瞬間。
ジェスターは、燃え盛る炎をまるで着ぐるみでも脱ぐかのように、するりと脱ぎ捨てた。
炎が地面へと落ち、ぱっと消える。
その下から現れたのは、火傷ひとつ負っていない、いつもどおりのジェスターだった。
「……は?」
「ど、どうなってんの!?」
リーザたちの顔に、困惑が広がる。
今の攻撃は、決して手加減したものではなかった。魔法使いとしての技量を注ぎ込んだ、ミカ渾身の一撃だったはずだ。
それを、まるで何事もなかったかのように受け流した。
いや、そもそも──炎を脱ぎ捨てるとは、いったいどういうことなのか。
『さぁさぁ! お次はコチラの番でさぁ!』
ジェスターは、どこからともなく一本の風船を取り出した。
それを口元に運び、ぷぅっと息を吹き込む。
膨らんだ風船を器用に捻り、結び、あっという間に剣の形へと変えてしまった。
どこからどう見ても、子供向けの大道芸で使うような風船の剣だった。
『武器はこれでよござんしょ!』
「……アタシのことを舐めてんのか!」
リーザの額に青筋が浮かぶ。
次の瞬間、彼女は大剣を両手で握り締め、力の限り振り下ろした。
ガキィィンッ!
金属同士がぶつかり合ったかのような、甲高い音が響き渡る。
リーザの大剣と、ジェスターの風船の剣。
二つの剣が、真正面から拮抗していた。
「はぁ!? なんでアタシの大剣と、アンタのその風船が互角なのよ!?」
『何故って……何故でしょうなぁ?』
「ッ! バカにして……!」
リーザは歯を食いしばり、さらに力を込めた。
しかし、風船の剣はびくともしない。
ジェスターは相変わらず、楽しそうに笑っているだけだった。
それから先は、まさに一進一退──いや、リーザたちにとっては、終わりの見えない悪夢のような時間だった。
ミカが魔法で援護し、マゼンタが隙を狙って矢を放つ。カールが死角から接近し、リーザが大剣でジェスターを追い詰めようとする。
それぞれが自分の役割を理解し、連携を崩すことなく攻め続ける。
その戦い方は見事だった。
だが、ジェスターはそのすべてに対応してみせた。
風船の剣で大剣を受け止め、身体を傾けて矢を避け、足取りひとつでカールの不意打ちをかわす。魔法が迫れば、まるでその軌道を知っているかのようにひらりと身を翻した。
一方のリリィも、魔法による支援を続けていた。
敵の動きを妨げ、攻撃を防ぎ、時には雷を落として反撃する。それだけの魔法を使い続けているというのに、彼女の表情から疲労の色はほとんど見られなかった。
どれほどの時間が経ったのだろう。
やがて、先に限界を迎えたのはリーザたちだった。
「はぁ……はぁ……っ!」
荒い呼吸を繰り返しながら、リーザは大剣を構え直す。
額から汗が滴り落ち、腕は鉛のように重い。仲間たちも同様だった。マゼンタは弓を引く腕を震わせ、カールは息を整えるのに精いっぱいで、ミカの額にも大粒の汗が浮かんでいる。
「どうなってんのよ……。ピエロの方は、風船なんかでアタシと渡り合ってるし……。少女の方は、魔力切れの兆しすらない……」
対照的に、ジェスターは相変わらず涼しい顔をしていた。
風船の剣を肩に担ぎ、まるで散歩でも楽しんでいるかのように、のんびりと立っている。
『ヨホホホ! いやはや、実に愉快な舞台でございました!』
ジェスターは満足げに笑うと、リリィへと顔を向けた。
『ですが、そろそろ閉幕のお時間ですなぁ。リリィちゃん、終わりの呪文は覚えておりますね?』
「!!! うん!」
リリィは一瞬目を見開き、それから元気よく頷いた。
「な、何をする気……?」
リーザが警戒を強める。
しかし、ジェスターは答えない。
ただ、リリィと顔を見合わせ、二人そろって楽しそうに笑った。
そして──
『ピリカラ・ポリカラ・ポンパッパ!!!』
「ピリカラ・ポリカラ・ポンパッパ!!!」
二人の声が重なった、その瞬間だった。
景色が、歪んだ。
いや──違う。
リーザたちの身体が、いつの間にか結界の外へと移されていたのだ。
「……は?」
「な、何が起きたの!? なんで私たち、結界の外にいるの!?」
「まさか……死んだ、のか?」
「ありえない……! あの一瞬で、何をされたの!?」
誰もが状況を理解できず、呆然と立ち尽くしていた。
致命傷を負った覚えはない。身代わりの札が発動した感覚もなかった。
それなのに、彼らは結界の外にいる。
まるで、戦いそのものを強制的に終わらされたかのように。
『ヨホホホホ! それでは皆々様、これにて閉幕!』
ジェスターは風船の剣をくるりと回し、観客に挨拶するように大きく一礼した。
『よろしいですかな、モルド?』
呼びかけられたモルドは、しばらくの間、言葉を失っていた。
やがて、深々と息を吐く。
「……ああ。文句なしの決着だ」
そして、修練場に響き渡る声で宣言した。
「勝負あり! 勝者、ジェスターチーム!」
その宣言を聞いてもなお、リーザたちはすぐには動けなかった。
彼らは今、身をもって理解したのだ。
目の前のピエロと少女は、自分たちが想像していたような相手ではないのだと。




