復興と旅立ち
──邪神とピエロの大舞台。
その幕が上がった瞬間、地下神殿を埋め尽くすほどの魔力が、一斉に膨れ上がった。
「消え失せろ、道化風情がッ!!」
邪神が咆哮する。
次の瞬間、ジェスターを取り囲むように無数の魔法陣が展開された。
氷結。
雷鳴。
火炎。
重力。
それだけではない。
空間を歪める魔法、身体の自由を奪う呪詛、対象を内側から破壊する術、さらには存在そのものを消し去ろうとする異様な魔法まで。
数十種類にも及ぶ魔法が、ほとんど同時にジェスターへと襲いかかった。
その光景は、まさしく圧倒的だった。
人間であれば、抵抗する間もなく消し飛んでいただろう。
並の魔術師ならば、ひとつを防ぐだけでも命懸け。
それほどの攻撃が、容赦なく降り注ぐ。
しかし。
『ヨホホホホホホ!』
ジェスターは笑っていた。
まるで、舞台の上で観客を楽しませる余興でも始まったかのように。
まず、氷結の魔法が彼を包み込んだ。
瞬く間に周囲の空気が凍りつき、分厚い氷がジェスターの身体を覆い尽くす。
だが、その直後。
ぱきん。
氷の内側から、何かが割れる音がした。
続いて、氷の隙間から赤い光が漏れ出す。
そして──。
『いやぁ、冷えますなぁ! こういうときには、やはり火が恋しくなるものでございます!』
ジェスターは、いつの間にか手にしていた松明を掲げていた。
燃え盛る炎が氷へ触れる。
じゅわぁぁぁ……。
氷は、まるで熱湯に放り込まれた飴細工のように、あっという間に溶けていった。
最後には、氷の欠片ひとつ残らない。
ジェスターは松明をくるりと回し、満足げに頷いた。
『うむうむ! やはり冬場の焚き火は格別でございますなぁ!』
「…………は?」
邪神の声が、間の抜けたものに変わった。
だが、ジェスターはそんなことなどお構いなしに、次の攻撃を待ち構えていた。
今度は雷鳴。
天井を覆い尽くすほどの魔法陣から、無数の稲妻が降り注ぐ。
轟音が神殿を揺るがし、閃光が視界を白く塗り潰した。
雷光はジェスターの頭上へと集中し、彼を焼き尽くさんと迫る。
その瞬間。
『おや、これはこれは!』
ジェスターは懐を探り、何かを取り出した。
それは、一本の鉄の棒だった。
彼は何のためらいもなく、その棒を床へと突き刺した。
ずぶり。
石床に、まるで柔らかな土へ差し込むかのように、鉄の棒が沈んでいく。
次の瞬間。
バリバリバリバリッ!!
落雷のすべてが鉄の棒へと吸い寄せられ、地面へ流れ込んでいった。
轟音が止む。
閃光が消える。
神殿に、静寂が戻った。
ジェスターは鉄の棒を引き抜き、先端を眺める。
『いやはや、避雷針というものは実に便利でございますなぁ!』
そして、鉄の棒をどこかへしまい込んだ。
いったい、どこへ。
そもそも、あんなものをいつ取り出したのか。
考え始めれば疑問は尽きない。
だが、それを問いただす者は、この場にはいなかった。
邪神を除いて。
「き、貴様……ッ!」
邪神の声に、初めて動揺が混じった。
だが、攻撃の手は緩まない。
「ならば、これでどうだッ!!」
神殿を覆う魔法陣が、今度は紅蓮の光を放った。
次の瞬間、凄まじい業炎がジェスターを呑み込む。
轟音。
爆炎。
天井を焼かんばかりの火柱。
先ほどアンジェを襲ったものと同じ、いや、それを遥かに上回る規模の炎だった。
しかし。
炎の中から、ひょっこりとジェスターが顔を出した。
『おやおや、これはまた景気のよろしい!』
彼の指先には、小さな蝋燭が一本。
蝋燭の先端では、豆粒ほどの火がちろちろと揺れていた。
ジェスターは、その火をじっと見つめる。
『しかしながら、少々火力が強すぎますなぁ。舞台装置が燃えてしまっては、元も子もございません』
そう言って、彼は蝋燭を口元へ運び──。
『ふっ』
吹き消した。
それだけだった。
ごうごうと燃え盛っていた業炎が、音もなく消滅した。
まるで、最初からそこには何もなかったかのように。
蝋燭の煙が、細く、ゆっくりと立ち上る。
ジェスターは満足げに頷いた。
『はい、消火完了! 火の元には十分注意いたしましょう!』
「…………」
邪神は、言葉を失った。
何が起きている。
自分は、確かに魔法を放った。
しかも、ただの魔法ではない。
この地下神殿に蓄えられた膨大な魔力を用い、幾重にも強化した必殺の術だ。
それが、どうして。
どうして松明一本で氷が溶け、鉄の棒一本で雷が消え、蝋燭の火を吹き消すだけで業炎が消滅するのだ。
理解できない。
いや、理解できるはずがない。
そして、邪神が次の魔法を放とうとした、そのとき。
ふと、ジェスターの身体が浮き上がった。
『おや?』
重力の魔法だった。
空間そのものに干渉し、対象へ凄まじい圧力をかける術。
床が軋み、石畳に亀裂が走る。
普通の生物ならば、その場で押し潰されてもおかしくない。
だが。
ジェスターは、ぴょこんと跳ねた。
ぽよん。
もう一度。
ぽよよん。
さらにもう一度。
ぽよん、ぽよん、ぽよよん。
まるでゴム毬のように、神殿の床を跳ね回っていた。
『ヨホホホホホ! こいつぁ楽しい! 見てくだされ、邪神様! アタクシ、空飛ぶ毬になってしまいましたぞ!』
ぽよん。
ぽよよん。
『おっとっと! 次は天井まで届きますかな?』
ぽよぉぉん!
ジェスターの身体が高々と跳ね上がる。
そして、天井にぶつかる寸前で、ぴたりと静止した。
そのまま、何事もなかったかのように、ふわりと床へ降り立つ。
『いやぁ、実にすんばらしい! これなら見世物小屋でも大人気間違いなしでございますなぁ!』
「………………」
邪神は、ただただ呆然としていた。
氷結も。
雷鳴も。
火炎も。
重力も。
その他、ありとあらゆる魔法も。
そのすべてが、目の前のピエロには通じない。
いや、通じないどころの話ではなかった。
攻撃を受けているはずのジェスターが、まるでそれを楽しむためにわざと受けているかのようなのだ。
しかも、そのたびに。
『ヨホホホホホホ!』
笑う。
ただ、笑い続ける。
まるで邪神の魔法など、手品の小道具にすぎないとでも言うように。
「何なのだ、貴様はッ!!」
ついに、邪神が叫んだ。
「何故だ! 何故、我の魔法が通じぬ! 何故、傷ひとつ負わぬ! 貴様はいったい、何者なのだッ!!」
ジェスターは、きょとんと首を傾げた。
『おやおや? 先ほども申し上げたでしょう?』
そして、くるりと一回転。
『ワタクシ、しがない旅のピエロ。それ以上でも、それ以下でもありやせん』
「ふざけるなァァァッ!!」
邪神の絶叫が、地下神殿を震わせた。
「ピエロ風情がッ! 我に勝てるわけがなかろう!! 我は神に等しき存在! この地において、我に敵う者など──」
『それが勝てちゃうんですね、はい』
あまりにもあっさりと。
あまりにも軽々しく。
ジェスターは、邪神の言葉を遮った。
その顔には、いつもの笑みが浮かんでいた。
『ヨホホホホホホ!』
そしてまた、笑う。
邪神の怒りも、困惑も、恐怖すらも。
すべてを舞台の彩りとして楽しむかのように。
一方、その頃。
「母さん! 母さん! 大丈夫? ねぇ、返事して!」
アンジェは、必死に母親へと手を伸ばしていた。
母親の身体に絡みつく黒いナニカ。
それは、まるで意思を持っているかのように蠢き、彼女の手足や胴体にしつこくまとわりついていた。
引き剥がそうと指をかけても、黒いナニカはぬるりと形を変え、指の隙間から逃げてしまう。
「くそっ……! 離れろよ! 母さんから離れろ!!」
アンジェは歯を食いしばり、両手で黒いナニカを掴んだ。
冷たい。
まるで、氷水に手を突っ込んだかのようだった。
それなのに、触れた感触はどこか生々しく、指先にまとわりつく感覚がひどく気持ち悪い。
それでも、アンジェは手を離さなかった。
怖くないわけではない。
気持ち悪くないわけでもない。
ただ、目の前に母親がいる。
それだけで、手を止める理由にはならなかった。
「お願いだから……! 母さんを返してよ……!」
力任せに引っ張る。
黒いナニカが、びくりと震えた。
そして、ずるり、と。
一本が剥がれ落ちた。
アンジェは、それを放り投げると、すぐさま次の一本へと手を伸ばした。
「もう少し……! もう少しだから……!」
声が震える。
目の奥が熱くなる。
それでも、手を動かす。
一本。
また一本。
母親に絡みついていた黒いナニカが、少しずつ剥がれていく。
やがて。
「……うぅ」
かすかな声がした。
アンジェの手が止まる。
「……え?」
今の声は。
まさか。
アンジェは、恐る恐る母親の顔を覗き込んだ。
閉じられていた瞼が、かすかに震える。
そして、ゆっくりと開かれた。
焦点の定まらない瞳が、ぼんやりと周囲を彷徨う。
「……アンジェ?」
か細い声だった。
けれど。
聞き間違えるはずがなかった。
「アンジェなの……?」
「……っ!」
アンジェの喉が、ひくりと震えた。
「そうだよ……!」
声が裏返る。
涙が、視界を滲ませる。
「そうだよ、母さん! 僕だよ! アンジェだよ!」
母親は、しばらく呆然と息子を見つめていた。
まるで、夢でも見ているかのように。
そして、ゆっくりと表情を和らげた。
「……良かった」
母親の唇が、かすかに動く。
「元気なのね……」
その言葉を聞いた瞬間。
アンジェの胸の奥で、何かが崩れた。
ずっと、ずっと張り詰めていたもの。
怒りも。
憎しみも。
悲しみも。
自分を支えるために、必死に握り締めていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「母さん……!」
アンジェは、母親の手を握った。
その手は冷たく、弱々しかった。
けれど、確かにそこにあった。
もう二度と触れられないと思っていた手が。
もう二度と声を聞けないと思っていた人が。
今、目の前にいる。
「……よかった……本当に、よかった……!」
涙が頬を伝い、ぽたぽたと床へ落ちていく。
母親は、まだ力の入らない手を持ち上げようとした。
そして、かろうじてアンジェの頬に触れる。
「……泣かないで、アンジェ」
その手つきは、弱々しくとも、昔と変わらなかった。
「もう……大丈夫だからね」
その言葉に、アンジェは首を横に振った。
何も大丈夫ではなかった。
村は焼かれた。
大切な人たちは奪われた。
自分は人を殺した。
そして、母親は今も、ここに囚われている。
それでも。
それでも、今だけは。
母親の手を握り締めながら、アンジェは声を上げて泣いた。
もう、我慢する必要などなかった。
目の前には、母親がいるのだから。
その温もりを確かめるように、アンジェは彼女の手を強く握った。
「……ただいま、母さん」
震える声で、そう告げる。
母親は、微笑んだ。
「……おかえりなさい、アンジェ」
その瞬間だけは。
邪神の咆哮も。
神殿を揺るがす轟音も。
すべてが、遠くに聞こえた。
母と子の間に、確かな時間が戻ってきていた。
「ジェスタァァァァァ!!!」
地下神殿に、少年の叫び声が響き渡った。
「お母さんが……! お母さんが生きてたぁぁぁ!!!」
その声を聞いた瞬間。
邪神と対峙していたジェスターは、ぴたりと動きを止めた。
そして、ゆっくりと振り返る。
その顔に浮かんでいたのは、いつもと変わらぬ道化師の笑み。
──いや。
いつも以上に、満面の笑みだった。
『ヨホ!』
弾むような声が、神殿に響く。
『それはそれは! いやぁ、実にめでたい! まことにめでたいことでございますなぁ!』
ジェスターは大仰に両手を広げ、まるで観客から祝福を受ける主役のように、くるりと一回転した。
『さぁさぁ、閉幕の時刻が差し迫ってまいりました! 舞台もいよいよ大詰め! 残すところは、最後の一幕でございます!』
「まだ……まだ我は……!」
その声を遮るように、邪神が呻いた。
かつて神殿を満たしていた圧倒的な魔力は、見る影もなかった。
身体の輪郭はところどころ歪み、無数の眼は力なく明滅している。
何百もの魔法を放った。
氷結、雷撃、業火、重力操作。
空間を歪め、存在を消し去ろうとする術さえも使った。
それでも、目の前のピエロには何ひとつ通じなかった。
攻撃すればするほど、ジェスターは楽しそうに笑うばかり。
まるで、自分の全力を込めた魔法が、子供の手品と何ら変わらないとでも言うように。
そして今、ついに邪神の魔力は尽きかけていた。
「クソ……! 何なんだ、こいつは……!」
邪神は歯噛みした。
理解できない。
理解したくもない。
自分は神に等しい存在として崇められ、恐れられてきた。
それなのに、どうして。
どうして、こんなふざけた格好の道化師ひとりに、何もかも通用しないのだ。
『おやおや? まだお分かりになりませんかな?』
ジェスターは、わざとらしく首を傾げた。
『ワタクシ、しがない旅のピエロでございますよ?』
「分かった! 分かったから、もうその台詞は聞き飽きたわッ!!」
『おや! それは失礼! 何度も同じ台詞を繰り返すのは、芸人として芸がありませんでしたなぁ!』
けらけらと笑うジェスター。
邪神のこめかみに、ぴしりと何かが走った。
もちろん、比喩である。
だが、今にも爆発しそうな怒りだけは、誰の目にも明らかだった。
『……さて』
不意に。
ジェスターの声が、ほんの少しだけ落ち着いた。
彼は邪神を見つめたまま、首を傾げる。
『邪神様に、ひとつお伺いしたいことがございます』
「……何だ」
『貴女、まだ人を殺したことがありませんね?』
「──ッ!」
邪神の身体が、びくりと震えた。
ほんの一瞬。
だが、それだけで十分だった。
『ヨホ! やはり図星でございましたか!』
ジェスターは、ぱん、と手を打った。
『いやはや、これはこれは! なるほど、なるほど! 大方、カルト宗教の神様として祀り上げられ、その果てに邪神と呼ばれるようになった……そんなところでございましょう?』
「違う……!」
邪神の声が震えた。
「違う、違う違う違うッ! 我は……私は……!」
言葉が続かない。
無数の眼が、不規則に明滅する。
怒りなのか、恐怖なのか。
それとも、もっと別の感情なのか。
邪神自身にさえ、分からなくなっているようだった。
ジェスターは、そんな彼女を見つめていた。
いつもの笑顔を浮かべたまま。
そして、ふいに視線を外すと、神殿の向こうにいる少年へと声を投げかけた。
『さぁ、坊っちゃん!』
アンジェは、母親の傍らで顔を上げた。
『この方を、どうなさいますかな?』
ジェスターは、邪神を指差した。
『殺しますか? それとも、生かしますか?』
アンジェの表情が強張る。
『この方もまた、誰かに祀り上げられ、望まぬものへと変えられた被害者なのかもしれません』
ジェスターは、まるで世間話でもするように続けた。
『ですが同時に、坊っちゃんの故郷を襲い、大切な方々を奪った加害者でもある。被害者であれば罪が消えるというわけでもございません』
邪神は何も言わなかった。
ただ、無数の眼でアンジェを見つめている。
アンジェは、すぐには答えられなかった。
殺すか。
生かすか。
あれほど憎んだ相手が、今、目の前にいる。
自分の村を焼き、大切な人を奪い、母親を生贄に捧げようとした元凶。
殺してやりたいと思った。
苦しませてやりたいと思った。
その願いが、間違いなく自分の中にあった。
けれど。
アンジェは、隣にいる母親を見た。
母親はまだ弱々しい身体を起こし、息子を見つめていた。
そして、そっと口を開く。
「……アンジェ」
「……母さん?」
母親は、疲れ切った顔で微笑んだ。
「あなたが……後悔しないように、しなさい」
その言葉は、ひどく静かだった。
何かを命じるわけでもない。
何かを許すわけでもない。
ただ、息子が自分自身の選択を悔やまないようにと、願う言葉だった。
アンジェは、母親の顔を見つめた。
そして、再び邪神へと視線を戻す。
もし、ここで殺したなら。
自分は満足するのだろうか。
失ったものが戻ってくるわけではない。
焼けた村が元に戻るわけでも、殺された人々が蘇るわけでもない。
それでも、復讐を果たしたという事実が、自分を支えてくれるのかもしれない。
反対に、もし許したなら。
自分はこの先、後悔しないでいられるのだろうか。
あのとき殺しておけばよかったと、いつか思わないでいられるのだろうか。
分からない。
何が正しいのかなんて、分からない。
けれど。
アンジェは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……僕は」
声が、かすかに震える。
「僕は……」
それでも、目は逸らさなかった。
「……貴女を、許すよ」
地下神殿が、静まり返った。
邪神の無数の眼が、一斉にアンジェへと向けられる。
ジェスターもまた、一瞬だけ動きを止めた。
アンジェは、続けた。
「許せないことは、たくさんある。村のみんなのことも……あの子のことも……母さんをこんな目に遭わせたことも」
拳を握り締める。
「僕は、貴女を憎んでいた。今だって、本当に全部許せたのかなんて、自分でも分からない」
それでも。
アンジェは、まっすぐに邪神を見つめた。
「でも、僕はもう……憎しみだけで生きていきたくないんだ」
それは、復讐を望んだ少年が、自分自身で選んだ答えだった。
「だから、僕は貴女を許す」
邪神は、何も言えなかった。
ただ、呆然とアンジェを見つめていた。
その姿を見ていたジェスターは──。
『ンンンンンンンンンン!!!』
突如、天を仰いだ。
『すんばらしい! すんばらしいですよ、坊っちゃん!!』
両腕を広げ、くるくると回転する。
『あぁ、なんと美しい選択! なんと人間らしい決断! 憎しみを抱いたまま、それでも憎しみだけに未来を委ねない! いやはや、実に! 実にすんばらしい!!』
ジェスターは、満足げに胸を押さえた。
その笑顔には、いつものふざけた雰囲気があった。
けれど、その奥には確かな喜びがあった。
アンジェが何を選ぶのか。
彼がどこへ向かうのか。
それを見届けることこそ、ジェスターがこの旅で求めていたものなのだから。
『さてさて! それでは、それでは!』
ジェスターは、邪神へ向き直ると、恭しく帽子を取った。
『最後の演目とまいりましょう!』
邪神が、はっと顔を上げる。
「……何をするつもりだ」
『おやおや、決まっているではありませんか!』
ジェスターは、にっこりと笑った。
『この舞台を、あるべき場所へお返しするのでございます!』
「……何?」
ジェスターは答えなかった。
代わりに、両手を大きく広げる。
赤と黒の衣装が、風もないのにふわりと翻った。
帽子の先についた鈴が、ちりん、と鳴る。
その音が、妙に遠く聞こえた。
『さぁさぁ、皆々様! お耳を拝借!』
明るく、軽やかに。
まるで、これから始まるのが愉快な余興であるかのように。
『今よりお見せしますのは、一世一代の大手品! 舞台は神殿、観客は邪神様! そして、幕引きを飾るのは──』
ジェスターは、ぱちん、と指を鳴らした。
『ピリカラ・ポリカラ・ポンパッパ!!!』
瞬間。
世界が、歪んだ。
まず、床が揺れた。
いや、違う。
揺れたのは床ではなかった。
神殿そのものが、紙で作られた舞台装置のように、ぐにゃりと捻じ曲がっていたのだ。
壁が波打つ。
天井が遠ざかる。
赤黒い魔法陣が、まるで水面に落とした絵の具のように溶けていく。
空間の輪郭が崩れ、距離も、方向も、上下さえも意味を失っていった。
「な……何だ、これは……!?」
邪神の声が、遠くから聞こえた。
その身体もまた、歪み始めていた。
無数の眼が引き伸ばされ、異形の輪郭がぐにゃりと捻れる。
しかし、ジェスターだけは変わらなかった。
彼は舞台の中央で、楽しそうに笑っていた。
『ヨホホホホホ! それでは皆様、お忘れ物のございませんように!』
その言葉を最後に。
地下神殿は、音もなく裏返った。
闇が消える。
光が弾ける。
時間さえも、誰かの指先で弄ばれる玩具のように巻き戻っていく。
そして──。
次の瞬間、アンジェたちの目の前に広がっていたのは、見慣れた景色だった。
焼け落ちた家々。
踏み荒らされた畑。
黒く焦げた大地。
かつて、アンジェが暮らしていた村。
すべてが始まった場所だった。
「……え?」
アンジェは、呆然と周囲を見回した。
先ほどまで、確かに地下神殿にいたはずだ。
母親を救い、邪神と対峙し、ジェスターが奇妙な呪文を唱えた。
その直後、世界が歪んで──。
「……ジェスター?」
隣に立つ道化師は、いつものように帽子を押さえながら、満足げに周囲を見回していた。
『ヨホホホ! はい、到着!』
まるで、馬車で目的地に着いたとでも言うような気軽さだった。
『いやぁ、やはり舞台というものは、始まりの場所に戻ってこそ締まりがよろしい!』
アンジェは、まだ理解できずにいた。
ここは、間違いなく自分の故郷だ。
母と暮らしていた家も、友人たちと走り回った道も、今では焼け跡しか残っていない。
けれど、確かにここにいる。
自分は今、何をされたのだろう。
そもそも、あの呪文は何だったのだろう。
問いかけようとした、そのとき。
ジェスターが、くるりと振り返った。
『さてさて、坊っちゃん!』
満面の笑み。
帽子の鈴が、ちりん、と鳴る。
『ここから先は、また新しい舞台の始まりでございますなぁ!』
彼はそう言って、焼け落ちた村を見渡した。
『ヨホホホホ! さてさて、次はどんな物語が待っているのでしょう!』
その笑顔の意味を、アンジェはまだ知らない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
少年の物語は、まだ終わっていない。
そして、道化師の旅もまた──終わる気配など、微塵もなかった。
────────────────
「これが……私が犯した罪……」
焼け落ちた家屋。
黒く焦げた大地。
踏み荒らされ、見る影もなくなった畑。
かつて人々の笑い声に満ちていた村は、今や見るも無惨な姿へと変わり果てていた。
その光景を前に、邪神はぽつりと呟いた。
先ほどジェスターが唱えた魔法によって、ここへ連れてこられたのはアンジェとその母親だけではない。
邪神もまた、例外なくこの場所へと移されていた。
彼女は何も言わず、ただ静かに村を見つめている。
そんな彼女に、ジェスターは敵意を向けることもなく、いつもの調子で声をかけた。
『はてさて、邪神様? 貴女もこちらへお連れしましたが……さて、貴女はこれから、どうなさりたいのでしょうな?』
「私は……」
少女は、しばらく言葉を探すように俯いていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「私は……罪を償いたい」
その声には、もう先ほどまでの威圧感はなかった。
「邪神として犯した罪を……私が奪ってしまったものを、少しでも償いたいの」
少女は、自分の手を見つめた。
「もちろん、こんなことをしたところで、すべてが元どおりになるわけではない。私自身の自己満足にすぎないのかもしれない。それでも……」
変質した手を、ぎゅっと握り締める。
「私は、そうしなければいけない。……そんな気がするの」
『ヨホ!』
ジェスターは、ぱん、と両手を打ち鳴らした。
『それはそれは! 実に、すんばらしい選択でございますなぁ!』
少女は、わずかに目を見開いた。
責められると思っていたのかもしれない。
あるいは、そんな願いを口にする資格などないと、誰かに告げられると思っていたのかもしれない。
だが、ジェスターは彼女の選択を否定しなかった。
ただ、愉快そうに頷いている。
『ですが、ひとつ問題がございますなぁ』
「……問題?」
『はいな! 今の貴女のお姿では、人々に恐れられてしまうでしょう。せっかく罪を償おうというのに、顔を見せただけで逃げられてしまっては、なかなかに骨が折れますからなぁ!』
「それは……分かっている」
少女は、自分の異形の身体を見下ろした。
「けれど、私がこうなってから、もうどれほどの時間が過ぎたのかも分からない。人間だった頃の姿なんて、とうの昔に失われてしまった。今さら、元に戻ることなど……」
『ヨホ! そういうときのために、ワタクシがいるのでございます!』
「……ジェスター?」
アンジェは、母親の肩を支えながら首を傾げた。
「今度は何をするつもりなの?」
『おやおや、坊っちゃん! 何をおっしゃいますやら! もちろん、目の前の問題を解決するのでございます!』
ジェスターは、芝居がかった仕草で胸を張った。
『それでは、それでは──』
くるりと一回転。
赤と黒の衣装が、ひらりと翻る。
『ピリカラ・ポリカラ・ポンパッパ!』
その瞬間。
少女の身体が、ぐにゃりと歪んだ。
「──っ!?」
アンジェが思わず息を呑む。
異形の輪郭が波打ち、無数に開閉していた眼が、ひとつ、またひとつと消えていく。
歪んだ手足が縮み、異様に膨れ上がっていた身体が、まるで粘土細工をこね直すように形を変えていった。
それは、恐ろしい光景のはずだった。
けれど、不思議なことに、そこに苦痛の気配はなかった。
まるで、長い間間違った形で組み立てられていた人形が、本来あるべき姿へと戻っていくかのようだった。
そして──。
次の瞬間、そこに立っていたのは、一人の少女だった。
白いワンピース。
清潔な白い靴。
透き通るように白い肌。
雪のように白い髪。
そして、その髪の隙間から覗く、鮮やかな紅い瞳。
その姿は、まるで絵本から抜け出してきたかのように美しかった。
白銀の髪が風に揺れ、少女は呆然と自分の手を見つめていた。
「これは……」
細い指を開き、閉じる。
恐る恐る、自分の頬に触れる。
それから、両手で顔を覆った。
「これは……っ!」
声が震えた。
紅い瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「私の……私の、元の姿……!」
少女は何度も自分の身体を確かめた。
頬に触れ、髪を撫で、白いワンピースの裾を握り締める。
まるで、失くしてしまった宝物を、ようやく見つけ出したかのように。
「……思い出した」
少女の唇が震える。
「私……昔は、こんな姿だったんだ……」
その声は、ひどく幼かった。
「他の子たちとは、見た目も、髪の色も、瞳の色も違っていたから……。だから、あの人たちは私を選んだんだ」
少女は、涙を拭おうともせずに続けた。
「邪神の依代にするために……私を、選んだんだ……」
長い年月の果てに、忘れてしまっていた記憶。
自分が何者だったのか。
どんな姿をしていたのか。
そんな当たり前のことさえ、彼女は思い出せなくなっていた。
けれど今、確かに取り戻した。
かつての自分を。
邪神になる前の、一人の少女だった頃の自分を。
『ヨホ! これはこれは!』
ジェスターは、感嘆するように両手を広げた。
『かの邪神様が、かくも美しいお嬢さんになるとは! いやはや、実に見事な変身手品でございますなぁ!』
「……綺麗」
アンジェの母親も、思わず呟いた。
少女は涙に濡れた顔を上げ、二人を見つめる。
その紅い瞳には、先ほどまでの邪神としての威圧感はない。
ただ、長い孤独から解き放たれた少女の、戸惑いと喜びが浮かんでいた。
ジェスターは、そんな彼女を満足そうに眺めていたが──。
『さてさて! お次の問題でございます!』
突然、ぱん、と手を打った。
『では、坊っちゃんの御母上! ここで問題です! 坊っちゃんたちにとって、今、最も解決しなければならない問題とは何でしょう!』
「えっ!? わ、私ですか?」
突然話を振られた母親は、目をぱちぱちと瞬かせた。
しばらく考え込んだあと、周囲の焼け跡を見渡す。
「うーん……そうですねぇ。やっぱり、村がこんなふうになってしまったことでしょうか?」
『デレデレデレデレデレデレ……』
ジェスターは、口で妙な効果音を奏で始めた。
そのまま、もったいぶるように間を置き──。
『正解でございます!!!』
両腕を大きく広げた。
『いやはや、さすがは坊っちゃんの御母上! 見事に正解でございますなぁ!』
「え、ええと……ありがとうございます?」
母親は、困惑したように微笑んだ。
ジェスターは、そんな彼女の反応など気にする様子もなく、勢いよく指を鳴らした。
『考えてもごらんなさい! せっかく坊っちゃんも御母上も助かり、邪神様も元のお姿に戻られた! しかし、住む家もなければ、食べるものもない! 助け合う村人たちもいなければ、明日からどうやって暮らせばよいのか分からない!』
ジェスターは、焼け落ちた家々を指差した。
『これでは、めでたしめでたしとはまいりません! 物語には後日談が必要なのでございます!』
「それは……そうだけど」
アンジェは、困ったように頭を掻いた。
「まさか、またテレポートで近くの村に連れていってくれるの?」
『残念ながら、坊っちゃん』
ジェスターは、わざとらしく肩を落とした。
『ワタクシ、知らない場所へはテレポートできないのでございますよ』
「……あんなにめちゃくちゃなことをしておいて、そこはできないんだ」
『アチャ~! これは手厳しい!』
ジェスターは、大袈裟に胸を押さえた。
『ですが、ご安心ください! もっと簡単で、もっと素敵な方法がございます!』
「もっと簡単な方法?」
『はいな! 皆々様、どうか目を閉じていただけますかな?』
「……目を?」
『そう! ぎゅっと、しっかりと! まばたきひとつせずにお願いいたします!』
「いや、目を閉じたらまばたきはできないだろ……」
『おやおや坊っちゃん! 細かいことは気にしない、気にしない!』
ジェスターは、けらけらと笑った。
アンジェは呆れたように息を吐きながらも、母親と少女に目配せをする。
そして、三人そろって目を閉じた。
ジェスターは全員が目を閉じたことを確認すると、満足げに頷いた。
『よろしい! それでは皆々様、ご唱和ください!』
両手を大きく広げる。
『いきますよぉ? せーの!』
「「「ピリカラ・ポリカラ・ポンパッパ!!!」」」
その瞬間。
ひゅう、と一陣の風が吹き抜けた。
アンジェの髪が揺れる。
母親の服の裾が、ふわりと舞い上がる。
少女の白い髪が、風にさらさらと流された。
けれど、それ以外には何も起こらなかった。
少なくとも、目を閉じている三人にはそう思えた。
『はい! それでは皆々様、どうぞお目をお開けください!』
言われるがままに、アンジェはゆっくりと瞼を開いた。
そして──。
「…………え?」
言葉を失った。
目の前に広がっていたのは、つい先ほどまでの光景とは、まるで別世界だった。
焼け落ちていた家々は、元どおりに建ち並んでいる。
黒く焦げていた大地は、豊かな土の色を取り戻していた。
踏み荒らされていた畑には、青々とした作物が瑞々しい葉を広げている。
ひび割れていた石畳の道も、崩れた柵も、焼け焦げた井戸の屋根も。
何もかもが、元どおりになっていた。
「すごい……」
アンジェは、呆然と呟いた。
「村が……村が、元に戻ってる……!」
『ヨホホホ! それだけではございませんぞ、坊っちゃん!』
「……え?」
ジェスターが、にこにこと笑いながら村の奥を指差した。
そこでは、一人の老人が不思議そうに首を傾げていた。
「ううむ……ワシはいったい、何をしておったのじゃ?」
「なんだか、怖い夢を見たような気がするんだけど……」
「……あら? 私、いつの間に寝ちゃったのかしら?」
村人たちが、次々と起き上がっていた。
傷ひとつない身体。
血の気の戻った顔。
つい先ほどまで、確かに命を落としていたはずの人々が、何事もなかったかのように立ち上がり、辺りを見回している。
切り殺された村長も。
邪教徒に刺されたパン屋のおばさんも。
そして──アンジェが恋心を寄せていた、あの少女までも。
皆、生きていた。
「……嘘、でしょ」
アンジェの声が震えた。
目の前にいるのは、間違いなく自分の知っている人たちだった。
もう二度と会えないと思っていた人たち。
もう二度と、その声を聞くことはできないと思っていた人たち。
それなのに。
彼らは、そこにいる。
笑い、首を傾げ、互いに顔を見合わせながら、いつもの日常へと戻っていく。
「すごい……! すごいよ、ジェスター!」
アンジェは、思わず声を上げた。
「みんな、生きてる! みんな、元どおりだよ!」
「……まさか」
母親も、信じられないというように口元を押さえた。
そして、周囲を見渡しながら、何度も目を瞬かせる。
「こんなこと……本当に、こんなことが……」
『ヨホホホホ!』
ジェスターは、満面の笑みで胸を張った。
『驚天動地! 前代未聞! まさかまさかの大手品! 死者蘇生に、村の復元! これぞワタクシの、とっておきの特別演目でございます!』
「…………」
元邪神の少女は、村人たちを見つめたまま、呆然としていた。
自分が奪った命。
自分が壊した日常。
そのすべてが、目の前で戻っていく。
少女は、そっと胸元を押さえた。
何かを言おうとして、けれど言葉が出てこない。
その紅い瞳から、再び涙が零れ落ちた。
「……すごい」
アンジェは、ジェスターを見上げた。
「すごいよ、ジェスター! 本当に、全部元どおりだよ!」
『はいな、はいな! これにて一件落着! めでたし、めでたし!』
「いや……もう驚かんぞ」
邪神はポツリと呟いたが。
「……いや、やっぱり無理だ。意味が分からない」
『ヨホホホ! その調子、その調子! 人生、驚きがなくてはつまらないのでございます!』
ジェスターは、楽しそうに笑った。
アンジェは、そんな彼の姿を見て、思わず笑みをこぼした。
そして、母親とともにジェスターへ向き直る。
「ありがとうございます、ジェスターさん。本当に……何とお礼を言ったらいいのか」
『ノンノンノン!』
ジェスターは、ぴんと人差し指を立てた。
『さんはいりませんぞ! ワタクシ、しがない旅のピエロ! 呼び捨てで結構、結構!』
「ふふ……分かりました。ありがとう、ジェスター」
『ヨホ! どういたしまして!』
母親も、深々と頭を下げた。
「ジェスター……あなたには、息子の命も、私の命も、村のみんなも救っていただいて……。何とお礼を申し上げればよいのか……」
『ヨホホ! お代は結構でございますよ!』
ジェスターは、ひらひらと手を振った。
『ワタクシ、もう十分にいただきましたからなぁ!』
「……いただいた?」
アンジェが首を傾げる。
「何を?」
『おやおや、坊っちゃん! それはもちろん──』
ジェスターは、意味ありげに目を細めた。
『とびっきりの人間模様でございますよ!』
そう言って、彼はくるりと背を向けた。
赤と黒の衣装が、軽やかに翻る。
帽子の鈴が、ちりん、と鳴った。
『さてさて、それではアタクシは、そろそろ次の舞台へ向かうといたしましょう!』
「えっ……?」
アンジェは、慌てて声を上げた。
「ジェスター! もう行っちゃうの!?」
『はいな! 何しろ、ワタクシしがない旅のピエロ! どうにも放浪癖が治らないのでございますよ!』
「そんな……!」
アンジェは、思わず一歩踏み出した。
ようやく出会えた、不思議で、奇妙で、何を考えているのか分からないピエロ。
けれど、彼がいなければ、今の自分はなかっただろう。
母を取り戻すことも。
自分自身の選択と向き合うことも。
そして、もう一度、村のみんなの笑顔を見ることも。
すべては、この道化師との出会いから始まったのだ。
「……また、会えるよね?」
アンジェが尋ねると、ジェスターは振り返り、にっこりと笑った。
『ヨホ! さてさて、それはどうでしょうなぁ!』
「もう、ジェスター!」
『ヨホホホホ! 冗談、冗談! 近くを通りかかった際には、ぜひとも寄らせていただきますとも!』
「……絶対だよ!」
『はいな! お約束いたしましょう!』
そして。
ジェスターが再び歩き出そうとした、そのときだった。
「──待って!」
凛とした少女の声が響いた。
その場にいた全員が、そちらを振り返る。
声の主は、元邪神の少女だった。
彼女は、白いワンピースの裾を握り締めながら、ジェスターのもとへ駆け寄った。
「ジェスター!」
『おんやぁ? どうしましたかな、邪神ちゃん?』
少女は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
そして、意を決したように顔を上げる。
「……その旅に、私も連れていって!」
ジェスターの動きが止まった。
少女は、真剣な眼差しで彼を見つめていた。
「私は、自分の罪を償いたい。私が傷つけた人たちに、少しでも償いをしたいの。そのために、いろんな場所へ行って、いろんな人たちと出会いたい」
彼女は、自分の手を見つめた。
もう、異形の身体ではない。
かつての自分の手。
誰かを傷つけるためではなく、誰かを助けるために使うこともできる手。
「……だから、お願い。私も一緒に連れていって!」
ジェスターは、しばらく少女を見つめていた。
やがて、わざとらしく腕を組み、ううむと唸る。
『ふぅむ……そうですなぁ。アタクシの旅は、それはそれは過酷な旅でございますぞ?』
「……うん」
『野宿は日常茶飯事! 食べるものがなくなることもしばしば! 道に迷って、何日も同じ場所をぐるぐる回ることだってございます!』
「……うん」
『そのうえ、盗賊に襲われたり、恐ろしい魔物に追いかけられたり、行く先々でとんでもない騒動に巻き込まれたり!』
「それでも、行きたいの」
少女は、迷いなく答えた。
「私は、もう逃げたくない。自分が犯した罪からも、自分自身からも。だから……私は、自分の足で歩いていきたいの」
その言葉を聞いたジェスターは、ぴたりと動きを止めた。
そして──。
『ヨホ!』
ぱん、と手を打ち鳴らした。
『いやはや、これはこれは! 実にすんばらしい心意気でございますなぁ!』
彼は、くるりと一回転した。
『実を申しますと、アタクシもちょうど一人旅に飽きてきたところでして!』
「……えっ?」
少女の顔が、ぱっと明るくなる。
「それじゃあ……!」
『えぇ、えぇ! ご一緒いたしましょう!』
ジェスターは、少女へ向かって恭しく手を差し出した。
『これからよろしくお願いいたしますぞ、リリィちゃん!』
「……リリィ?」
少女は、きょとんと首を傾げた。
『ヨホ! いつまでも邪神ちゃんでは、少々味気ないでしょう? せっかくの新しい旅! 新しい出会い! 新しい人生! ならば、新しいお名前があってもよろしいではありませんか!』
ジェスターは、楽しそうに笑った。
『いかがですかな? リリィ、というのは』
「リリィ……」
少女は、その名前を口の中でそっと繰り返した。
リリィ。
それは、これまでの自分とは違う、新しい名前。
罪を忘れるための名前ではない。
過去をなかったことにするための名前でもない。
過去を抱えたまま、それでも前へ進んでいくための名前。
「……リリィ」
少女の頬に、再び涙が伝った。
けれど今度の涙は、悲しみだけによるものではなかった。
「リリィ……うん! 私、リリィ! よろしくね、ジェスター!」
『はいなぁ! こちらこそ、よろしくお願いいたしますぞ!』
二人は、互いに顔を見合わせて笑った。
その光景を見ていたアンジェは、どこか寂しそうにしながらも、やがて笑顔を浮かべた。
「……ジェスター。リリィのこと、よろしくね」
『ヨホホホ! お任せくださいませ! こう見えてアタクシ、人を見る目には自信がございますので!』
「……本当かなぁ」
『おやおや坊っちゃん! そこは信頼していただきたいところでございますぞ!』
ジェスターは、大袈裟に肩を落とした。
その仕草に、アンジェも、母親も、リリィも、思わず笑みをこぼす。
そして、ジェスターは改めてアンジェたちへ向き直った。
『それでは坊っちゃん、御母上! どうかお達者で!』
「うん! ジェスターも、リリィも元気でね!」
『ヨホ! またお会いいたしましょう!』
ジェスターは帽子を取り、深々と一礼した。
リリィもまた、アンジェたちへ向かって小さく手を振る。
「アンジェ……お母さんも。ありがとう」
その言葉には、言い尽くせないほどの思いが込められていた。
アンジェは、笑顔で頷いた。
「……うん。リリィも、元気で」
こうして。
一人の少年と、その母親。
そして、かつて邪神と呼ばれた少女。
それぞれの物語は、新たな道へと歩み始めた。
アンジェたちは、再び日常を取り戻した村で。
そして、ジェスターとリリィは、まだ見ぬ世界のどこかへ。
赤と黒の衣装を翻し、白い髪を風になびかせながら、二つの影は並んで歩いていく。
『ヨホホホホ! さぁて、リリィちゃん! 次はどんな舞台が待っているのでしょうなぁ!』
「ふふっ……楽しみね、ジェスター!」
道化師は笑う。
少女もまた、笑う。
その先に待つのが、祝福なのか。
それとも、厄災なのか。
それは、まだ誰にも分からない。
ただひとつ確かなことは──。
道化師ジェスターの旅は、まだまだ始まったばかりだということだった。




