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陽気な足取りと少年の覚悟


 気軽にコメントくれ〜



ジェスターは、陽気な足取りで城内を歩いていた。


鼻歌を口ずさみ、ときおりくるりと回ってみせたり、廊下に飾られた甲冑にお辞儀をしたり。その姿は、まるで観光旅行を楽しむ旅人そのものだった。


もっとも、彼が通った場所には、例外なく邪教徒たちの死体が転がっていたのだが。


ある者は天井に逆さまに貼り付けられ、ある者は自分の影に引きずり込まれ、またある者は、見えない糸に操られる人形のように奇妙な踊りを披露した末、動かなくなった。


そのたびにジェスターは、手品を成功させた芸人のように愉快な笑い声を上げていた。


けれど、隣を歩くアンジェの心は、少しも晴れなかった。


「……母さん。いったい、どこにいるんだよ……」


寝室、食堂、倉庫、武器庫。果ては普段使われていないらしい小部屋まで、城内の部屋という部屋を探し回った。


しかし、母親の姿はどこにもない。


見つかるのは、邪教徒たちの死体ばかりだった。


焦りが、じわじわと胸の内側を締めつけていく。


「もしかして……別の場所に連れて行かれちゃったのかな……」


最悪の想像が脳裏をよぎった。


すでに母は、この要塞にはいないのかもしれない。


あるいは、自分たちがこうして探している間にも、どこかで――。


「……っ」


アンジェは、頭を振ってその考えを追い払った。


今は、悪い想像をしている場合ではない。


母はきっと生きている。


そう信じなければ、足が止まってしまいそうだった。


『坊っちゃん、坊っちゃん!』


不意に、隣を歩いていたジェスターが声を上げた。


『どうやら、大事な場所を探し忘れているようですなぁ!』


「……大事な場所?」


『左様! こういうときには、もっとも大切な場所を探すのが定石というもの!』


「だから、それはどこなんだよ?」


ジェスターは、もったいぶるように人差し指を立てた。


『地下、でございます!』


「……地下?」


『はいな! 秘密の計画、怪しげな儀式、囚われのお姫様! こういったものには地下室が付き物でございましょう?』


「母さんはお姫様じゃないよ……」


『おやおや、これは失礼! それでは、囚われのお母上様ということで!』


ジェスターは悪びれる様子もなく、ヨホホホホ、と笑った。


アンジェは呆れたように眉をひそめる。


「でも、地下に続く階段なんてなかったじゃないか。城中を探したんだよ?」


『ええ、ええ! 確かにございませんでしたなぁ!』


「だったら……」


『――ないのならば、作ればよろしい!』


ジェスターは、ぱん、と両手を打ち鳴らした。


「……また?」


『そうです、またです!』


アンジェの問いに、ジェスターは満面の笑みで答えた。


そして、芝居がかった仕草で腰を折り、片手を腰巾着へと伸ばす。


『さぁさぁ、お立ち会い! これより皆々様にお見せしますのは、世にも奇妙で愉快な手品! 種も仕掛けも――』


そこで、ぴたりと口を閉じる。


にやり。


『……あるかもしれませんなぁ!』


「絶対、あるんだろ……」


『ヨホホホ! それでは、始めましょう!』


ジェスターは腰巾着を探り、やがて大きな赤い布を取り出した。


どう考えても、あの小さな巾着に収まる大きさではない。


それでも彼は、何の不思議もないといった様子で布を広げ、廊下の石畳へとふわりと敷いた。


赤い布は、床を覆い尽くすほどに広がった。


ジェスターはその中央に立ち、両手を大きく掲げる。


『タラリラリラ〜!』


陽気な鼻歌。


そして、あの呪文が響き渡った。


『ピリカラ・ポリカラ・ポンパッパ!』


――しん。


一瞬、何も起こらなかった。


アンジェは、じっと布を見つめる。


「……何も起きないけど?」


『おやおや? これは失礼! 少々お待ちを!』


ジェスターは布の端をつまむと、もったいぶった手つきでゆっくりと持ち上げた。


その下には――地下へと続く、石造りの階段が口を開けていた。


「…………」


アンジェは、無言でそれを見下ろした。


赤い布の下に、ぽっかりと階段が存在している。


つい先ほどまで、そこは何の変哲もない石畳だったはずだ。


穴を掘った形跡もなければ、石を動かした痕跡もない。


ただ、そこに階段がある。


『ヨホホホホ! いかがですかな、坊っちゃん! 見事なものでございましょう!』


ジェスターは得意げに胸を張った。


「……もう、わけがわからないよ」


『ヨホホホ! それでは、参りましょう!』


ジェスターは何事もなかったかのように階段へと足を踏み入れた。


アンジェも、その後を追う。


母を見つけるために。


たとえ、どれほど奇妙な場所であろうとも。


◇


地下へと続く階段は、思いのほか長かった。


壁に据え付けられた燭台には火が灯っていない。階段の入口から差し込むわずかな光だけが、石造りの通路をぼんやりと照らしていた。


かつ、かつ、かつ。


アンジェの靴音が、暗闇の中へと吸い込まれていく。


階段を下りるたび、地上の光は少しずつ遠ざかっていった。


冷たい空気が肌を撫でる。


湿った石の匂い。


どこかから漂ってくる、かすかな鉄錆の臭い。


アンジェは無意識のうちに、服の裾を握り締めていた。


一方、隣を歩くジェスターは、まるで暗闇など存在しないかのように鼻歌を口ずさんでいる。


ときおり壁を指先で叩いたり、天井を見上げたり、何か面白いものでも見つけたかのように小さく頷いたりしていた。


まるで、初めて訪れた観光名所を楽しんでいるかのようだった。


――不思議な男だ。


アンジェは、隣を歩く道化師を横目で見つめた。


突然現れ、自分の願いを叶えてやると言い、信じられないような魔法を次々と披露する。


そして、その力を使って大勢の人間を殺した。


それなのに、本人は少しも変わらない。


笑っている。


楽しそうに歩いている。


人を殺したことなど、とうに忘れてしまったかのように。


怖くないのだろうか。


人を殺すことに、何も感じないのだろうか。


それとも、自分がおかしいのだろうか。


考えれば考えるほど、分からないことばかりだった。


アンジェは、しばらく迷った末に口を開いた。


「……ジェスター」


『はいはい?』


ジェスターは、くるりとアンジェの方へ顔を向けた。


その顔には、いつもと変わらない笑みが浮かんでいる。


アンジェは少しだけ言葉に詰まった。


聞きたいことなら、いくらでもあった。


どうして、あんなことができるのか。


どうして、邪教徒たちを殺すことに何の躊躇いもないのか。


どうして、自分のような何の力も持たない少年に手を差し伸べたのか。


けれど、いくつもの疑問を押しのけて、最後に残った問いは一つだった。


「……なんで、僕を助けたの?」


アンジェは俯きながら尋ねた。


「見返りも、何もないのに……」


自分には何もない。


金も、力も、頼れる人も。


邪教徒たちを皆殺しにしたところで、ジェスターに何かを返せるわけではなかった。


それなのに、この男は自分を助けてくれた。


どうしてなのだろう。


優しい人だから?


それとも、何か裏があるのだろうか。


そもそも、この男は本当に人間なのだろうか。


アンジェには、何一つ判断がつかなかった。


『…………おや?』


ジェスターは、きょとんとした顔をした。


まるで、思いもよらない質問をされたかのように。


そして次の瞬間。


『ヨホホホホホ!』


地下通路に、陽気な笑い声が響き渡った。


『見返り! 見返りでございますか! いやはや、坊っちゃんは面白いことをおっしゃいますなぁ!』


「……え?」


『もちろん、ありますとも! ちゃあんとありますとも!』


ジェスターは、ぱんぱんと両手を叩いた。


アンジェの胸が、どくりと跳ねる。


やっぱり、何かを求めていたのだろうか。


お金だろうか。


それとも、自分の命?


あるいは、もっと恐ろしい何かを――。


『ワタクシがいただくのは、坊っちゃんの感情と行い!』


「……感情?」


『左様!』


ジェスターは両手を大きく広げ、舞台の上で観客に語りかける役者のように、くるりと回った。


『ワタクシ、人間というものが大好きでしてなぁ! 喜び、悲しみ、怒り、憎しみ! 希望に絶望、愛情に嫉妬! いやはや、実に多彩! 実に愉快!』


その声は、暗い地下通路には不釣り合いなほど明るかった。


『人間というものは、実に不思議な生き物でございます! 同じ出来事に遭遇しても、ある者は怒り、ある者は泣き、またある者は笑う! そして、その感情に突き動かされ、さまざまな選択をするのでございます!』


ジェスターは、指を一本ずつ折りながら数え始めた。


『誰かを愛するから守ろうとする! 誰かを憎むから傷つけようとする! 何かを失いたくないから嘘をつき、何かを手に入れたいから命を懸ける!』


そこで、彼はぴたりと足を止めた。


アンジェの方へ向き直り、ゆっくりと身を屈める。


道化師の顔が、すぐ目の前まで近づいた。


『……そして、坊っちゃん』


口元には、相変わらず笑みが浮かんでいた。


『ワタクシは、坊っちゃんの殺意に興味を抱いたのでございます。はい』


「…………」


アンジェは、何も言えなかった。


殺意。


自分が抱いた、あの感情。


村を焼かれ、愛した少女を殺され、母を奪われた。


あのとき、胸の奥から湧き上がってきた、どす黒い感情。


邪教徒たちを殺してやりたい。


苦しませてやりたい。


自分が味わった絶望を、そっくりそのまま味わわせてやりたい。


そんな、醜くて、恐ろしい願い。


それを、この男は――。


『いやぁ、実にすんばらしい!』


ジェスターは、心底楽しそうに両手を叩いた。


『大切なものを奪われ、何もできなかった無力さに打ちひしがれ、それでもなお、坊っちゃんは復讐を選んだ! 実に力強い感情でございますなぁ!』


「……でも、僕は……」


アンジェは、自分の手を見つめた。


震えていた。


あのとき、自分は確かに願った。


邪教徒たちを皆殺しにしてやりたいと。


ただ殺すだけでは足りないとさえ思った。


苦しめて、絶望させて、最後には命乞いをさせてやりたいと。


そんなことを考えた自分が、恐ろしかった。


「……僕は、あいつらを殺したいって思ったんだ」


声が震える。


「ぐちゃぐちゃにして、苦しませて……。あいつらが僕たちにしたことを、全部、同じように返してやりたいって……」


唇を噛み締める。


「こんなの……悪いことじゃないの?」


ジェスターは、しばらくアンジェを見つめていた。


笑みを浮かべたまま、首を傾げる。


『おやおや? 坊っちゃんは、それが悪いことだと思っているのですかな?』


「……分からない」


アンジェは、正直に答えた。


「だって、僕はあいつらが憎い。許せない。殺してやりたい。でも……」


言葉が途切れる。


自分の胸の奥にあるものを、どう説明すればいいのか分からなかった。


「……そんなことを考える僕も、悪い人間なんじゃないかって」


しばらくの沈黙が落ちた。


ジェスターは、ふむ、と唸る。


そして。


『ヨホホホ! 実に良い質問ですなぁ!』


唐突に、ぱちん、と指を鳴らした。


「……え?」


『ですが、残念! その答えは、ワタクシの担当外でございます!』


ジェスターは両手を広げ、舞台の上の役者さながらに深々とお辞儀をした。


『人間の善悪を決めるのは、人間の仕事! このジェスター、しがない旅のピエロでございますからなぁ!』


「……君なら、分かるんじゃないの?」


アンジェは思わず尋ねた。


「そんなに強くて、何でもできて……。僕たち人間のことも、何でも分かるんじゃないの?」


ジェスターは、ほんの一瞬だけ黙った。


その沈黙は、あまりにも短かった。


けれど、アンジェには、彼が何かを考えたように見えた。


次の瞬間には、いつもの笑顔が戻っていた。


『おやおや! 坊っちゃんは、ワタクシを何でも知っている全知全能の神様か何かだと思っておいでですかな?』


「……違うの?」


『ヨホホホホ! さてさて、どうでしょうなぁ!』


結局、何も答えてはくれなかった。


ジェスターは、くるりと踵を返して歩き始める。


『ただ、ひとつ申し上げるならば――感情を抱くことと、その感情をどう扱うかは、別のお話でございます』


その声は、いつもどおり軽妙だった。


『怒りを覚えることも、憎しみを抱くことも、それだけで坊っちゃんという人間のすべてが決まるわけではございません。大切なのは、その感情を抱えたうえで、何を選び、何をするのか。それは坊っちゃん自身が決めることでございます』


アンジェは、黙ってその背中を見つめた。


『さてさて! 坊っちゃんは、これからどうなさるのでしょうなぁ?』


ジェスターは振り返り、道化師らしく両腕を広げた。


『この憎しみを抱えたまま歩き続けるのか。それとも、いつか別の何かを見つけるのか! はたまた、今の坊っちゃんには想像もつかないような、もっともっとすんばらしい感情に出会うのか!』


そして、いつものように笑った。


『ヨホホホホ! 先が楽しみでございます!』


アンジェは、まだ答えを見つけられなかった。


自分の憎しみは正しいのか、間違っているのか。


復讐を果たしたあと、自分はどうなってしまうのか。


そもそも、復讐を果たせば、本当に心は救われるのだろうか。


何ひとつ分からない。


それでも。


隣を歩く奇妙なピエロは、自分の憎しみを否定しなかった。


恐ろしいとも、醜いとも言わなかった。


ただ、それに興味を抱き、すんばらしいと笑った。


それが救いだったのか。


それとも、自分をさらに深い闇へと誘う、甘い誘惑だったのか。


アンジェには、まだ分からなかった。


ただ一つ確かなことがあるとすれば――ジェスターは、自分がどこへ向かうのかを、心の底から楽しみにしているということだった。


◇


やがて、階段の先に微かな光が見え始めた。


冷たい空気の向こうから、何かが焼けるような臭いが漂ってくる。


アンジェは足を止めかけた。


しかし、ジェスターは気づいているのかいないのか、帽子の鈴をちりんと鳴らし、楽しそうに声を弾ませた。


『さぁさぁ、もうすぐ到着ですぞ! 果たして地下には何が待ち受けているのか! いやはや、期待に胸が膨らみますなぁ!』


そして、彼は軽やかな足取りで、光の向こうへと進んでいった。


アンジェもまた、その背中を追いかける。


母を取り戻すために。


そして、自分の胸に宿った憎しみが、いったいどこへ向かうのかを知るために。


◇


最後の一段を踏み越えた瞬間、アンジェは思わず足を止めた。


「……うわ」


目の前には、途方もなく広い地下空間が広がっていた。


天井は遥か高く、見上げても全貌を窺い知ることはできない。黒ずんだ石壁には無数の紋様が刻まれ、床には幾何学的な模様が幾重にも描かれている。


その中央には、巨大な建造物がそびえ立っていた。


周囲の空間そのものから切り離されたかのような、異様な存在感。


人の手によって造られたものなのか。それとも、人知を超えた何かによって生み出されたものなのか。


アンジェには判断すらできなかった。


ただ、地上の砦の地下に、こんな空間が存在していること自体、どう考えても異常だった。


アンジェは、ふと自分たちが下りてきた階段を振り返った。


「……あれ?」


おかしい。


階段は壁から伸びているわけでも、天井から吊り下げられているわけでもなかった。


その入口は、何もない空間にぽっかりと開いていた。


周囲には壁もなければ、階段を支える柱もない。


ただ虚空に穴が開き、そこから階段だけが伸びている。


まるで、何もない場所へ、階段という存在だけを無理やり付け足したかのようだった。


「……これ、どうなってるの?」


アンジェが呆然と呟くと、隣のジェスターは、ひょいと肩をすくめた。


『おやおや、気になりますかな?』


「気になるに決まってるだろ! こんなの、どう見たっておかしいじゃないか!」


『いやぁ、便利なものでございますなぁ! 階段が欲しいと思えば階段ができる! 入口が欲しいと思えば入口ができる! 実にすんばらしい世の中でございます!』


「……ジェスターが作ったの?」


『さぁて、どうでしょう?』


ジェスターは人差し指を唇に当て、悪戯っぽく笑った。


『種明かしは、舞台が終わってからのお楽しみでございますよ!』


「……絶対、教える気ないだろ」


『ヨホホホ! さて、どうでしょうなぁ!』


アンジェは小さくため息をついた。


これ以上尋ねたところで、まともな答えは返ってこないだろう。


そもそも、目の前のピエロに常識を求めること自体が間違っているのかもしれない。


そう考えることにして、アンジェは再び歩き始めた。


二人の足音が、広大な空間に響いていく。


やがて、中央の建造物の前へと辿り着いた。


そこには、ひとつの扉があった。


左右に分かれた黒鉄の扉は、アンジェの背丈の何倍もある。表面には複雑な紋様がびっしりと刻み込まれ、中央には、何かを象徴するかのような奇妙な紋章が彫り込まれていた。


扉の隙間からは、冷たい空気が絶え間なく漏れ出している。


その向こうに何があるのか、アンジェには分からない。


けれど、ひとつだけ分かっていた。


ここまで来て、もう引き返すことなどできない。


母がいるかもしれない。


自分の村を焼き払い、大切な人たちを奪った邪教徒たちの秘密が、この先にあるのかもしれない。


アンジェが黒鉄の扉を見上げていると、不意にジェスターが口を開いた。


『……坊っちゃん』


その声に、アンジェは顔を向けた。


いつもの軽薄な調子はなかった。


ふざけた仕草も、芝居がかった抑揚もない。


ジェスターは、ただ静かにアンジェを見つめていた。


『ここから先は、貴方にとっての分水嶺』


アンジェは息を呑んだ。


道化師の顔には、いつもと変わらぬ笑みが浮かんでいる。


それなのに、その笑顔がひどく遠いものに感じられた。


『この先で何を見て、何を知り、何を選ぶのか』


ジェスターは、巨大な扉へと視線を向けた。


『それによって、貴方がどこへ向かうのかは変わるでしょう』


そして、再びアンジェを見つめる。


『どうなるかは、貴方次第です』


アンジェは、しばらく黙っていた。


今まで、誰もそんなことを言ってくれなかった。


村が襲われたときも。


母が連れ去られたときも。


自分が地面に這いつくばり、何もできずにいたときも。


アンジェに残されていたのは、奪われたものを嘆き、犯人を憎み、その憎しみに身を焦がすことだけだった。


けれど、今は違う。


目の前には扉がある。


その向こうに何が待ち受けているのかは分からない。


それでも、自分には選ぶことができる。


この先へ進むことも。


ここで立ち止まることも。


そして、何を望み、何を成すのかも。


アンジェは、ゆっくりとジェスターを見上げた。


「……わかった」


小さな声だった。


けれど、今度は震えていなかった。


「ありがとう、ジェスター」


その言葉を聞いた瞬間。


ジェスターは、ほんのわずかに目を細めた。


そして、いつものように大げさな仕草で帽子を取り、深々と一礼する。


『いえいえ、どういたしまして』


その声には、再び軽やかな調子が戻っていた。


『ワタクシ、しがない旅のピエロでございますからなぁ! お客様を舞台までお連れするのも、立派なお仕事のひとつでございます!』


彼は一歩、後ろへ下がった。


『さぁさぁ、坊っちゃん!』


そして、扉へ向かって片手を差し出す。


『主役のお出ましでございます。どうぞ、ごゆるりと!』


アンジェは、黒鉄の扉を見つめた。


母を取り戻したい。


邪教徒たちが憎い。


その気持ちは、今も変わらない。


けれど、この扉の向こうで、自分は何を知ることになるのだろう。


アンジェは、一歩を踏み出した。


そして、重々しい黒鉄の扉へと手を伸ばす。


その先に待つものが、救いなのか。


それとも、さらなる絶望なのか。


まだ、誰にも分からない。


ただひとり、道化師だけが。


舞台の幕が上がる、その瞬間を静かに見届けていた。


◇


アンジェが黒鉄の扉を押し開けた、その先。


そこに広がっていたのは、地下神殿だった。


先ほどまでの広大な空間とは異なり、ここには明確な目的をもって造られた気配があった。


天井は遥か高く、壁面には見たこともない文字がびっしりと刻まれている。


床一面に描かれた幾何学模様は、赤黒い光を脈打たせながら、まるで生き物のように明滅していた。


光が明滅するたび、壁の紋様が浮かび上がる。


まるで、神殿そのものが呼吸しているかのようだった。


空気が重い。


息を吸うだけで肺が押し潰されそうな、異様な圧迫感。


その場に立っているだけで、身体の奥底にある本能が警鐘を鳴らしていた。


――ここにいてはいけない。


――ここにいる何かに、関わってはいけない。


だが。


アンジェの目は、神殿の中央に釘付けになっていた。


そこにいたのは、化け物だった。


怪物と呼ぶべきか。


邪神と呼ぶべきか。


あるいは、そのどちらの言葉すら当てはまらない、理解の及ばぬナニカなのか。


その姿を、一言で表すことはできなかった。


幾つもの異形を無理やり縫い合わせたような身体。


視線を向けるたびに輪郭が歪み、形を変え、見ているはずの姿が定まらない。


頭部と思しき場所には、いくつもの眼が不規則に開閉していた。


その眼のひとつひとつが、異なるものを見ているようだった。


ある眼はアンジェを。


ある眼はジェスターを。


そして、ある眼は――この世界のどこでもない、何かを見つめているようだった。


怪物の足元には、巨大な魔法陣が広がっていた。


赤黒い光が幾筋も走り、その中心へと吸い込まれていく。


そして、その魔法陣の中央に横たわっていたのは――。


「……え?」


アンジェは息を呑んだ。


見間違えるはずがなかった。


何度も自分を抱きしめてくれた腕。


優しく頭を撫でてくれた手。


どんなときでも、自分の名前を呼んでくれた声。


たとえ、どれほど離れた場所にいたとしても。


たとえ、どれほど姿が変わってしまったとしても。


その人だけは、間違えるはずがない。


「……母、さん?」


そこにいたのは、紛れもなくアンジェの母親だった。


彼女の身体には奇妙な紋様が刻まれ、手足は拘束されている。


意識があるのかどうかも分からない。


彼女を囲む魔法陣からは、黒い光が幾筋も伸び、その身体を絡め取っていた。


まるで、これから何かの贄に捧げられるかのように。


アンジェの頭から、あらゆる思考が吹き飛んだ。


邪教徒に連れ去られた母。


奪われた日常。


焼け落ちた村。


胸の奥で燃え続けていた憎悪。


そのすべてが、一瞬にして眼前の光景へと収束する。


「母さん!!」


アンジェは駆け出した。


考えるよりも先に、身体が動いていた。


罠かもしれない。


何か恐ろしいことが起こるかもしれない。


そんなことは、どうでもよかった。


ただ、母親を助けたい。


それだけだった。


「何者だ。……我が儀式の邪魔をする者は」


地の底から響くような声が、神殿を震わせた。


怪物が、ゆっくりとアンジェへ顔を向ける。


無数の眼球が、一斉にアンジェを捉えた。


その瞬間、アンジェの足が止まった。


身体が震える。


呼吸が乱れる。


心臓が、今にも張り裂けそうなほど激しく脈打つ。


本能が告げていた。


逃げろ、と。


目の前にいる存在は、自分がこれまで出会ってきたどんな生き物とも違う。


邪教徒などとは比較にすらならない。


人間がどうこうできる相手ではない。


そもそも、あれを人間の尺度で測っていいのかさえ分からなかった。


それでも。


「母さん!! 今、助けるから!!」


アンジェは再び走ろうとした。


そのときだった。


『ちょいとストップ』


ひょい、と。


アンジェの目の前に、一本の腕が差し出された。


黒と赤の奇妙な衣装。


ひょうきんな化粧。


そして、この場にはあまりにも似つかわしくない、陽気な佇まい。


ジェスターだった。


「何だよジェスター! 母さんが! 母さんがいるんだよ!」


アンジェは、彼の腕を振り払おうとした。


今すぐにでも駆け出したかった。


母親が目の前にいるのだ。


もう二度と会えないかもしれないと思っていた母親が、手を伸ばせば届くかもしれない場所にいる。


なのに、どうして止めるのか。


どうして今、そんなことをするのか。


アンジェの悲痛な叫びに、ジェスターはいつもの笑みを浮かべたまま、そっと首を傾げた。


『坊っちゃんは今、何を求める?』


その声は、妙に静かだった。


『元凶の死か。それとも、御母上の生か』


ジェスターは、怪物とアンジェを交互に見やる。


『選べるのは、どちらか一方です』


「……え?」


アンジェは目を見開いた。


ジェスターは、アンジェの顔を覗き込む。


『あの化け物を殺すことに集中すれば、御母上を助ける機会は失われるかもしれない。反対に、御母上を助けることに集中すれば、元凶を討つ機会を逃すかもしれない』


もちろん、ジェスター自身にとっては、どちらも不可能ではないだろう。


怪物を消し去ることも。


母親を救い出すことも。


その両方を、何の苦労もなく成し遂げることさえできるだろう。


だが、彼はそれを口にしなかった。


彼が見たいのは、単なる結果ではない。


人間が、選択を迫られたときに何を選ぶのか。


憎悪と愛情。


復讐と救済。


怒りと願い。


相反する感情の狭間で、ひとりの人間が何を見いだすのか。


その選択によって、どんな未来へと歩き出すのか。


それこそが、ジェスターの愛してやまないものだった。


「僕は……僕は……」


アンジェの視線が揺れる。


怪物を見た。


母親を見た。


再び、怪物を見た。


――殺せ。


胸の奥で、何かが囁いた。


こいつさえ殺せば。


こいつがいなくなれば。


すべての元凶を消し去れば、この苦しみも、この悲しみも、少しは報われるのではないか。


それほどまでに、アンジェの心は復讐へと傾いていた。


しかし、憎しみが消えたわけではない。


怪物への怒りも、許せないという気持ちも、確かにそこにある。


この怪物を殺したいという願いは、今も胸の奥で燃えている。


けれど、母親の姿を目にした瞬間、それ以上に強い感情がアンジェの胸を満たしてしまった。


生きていてほしい。


もう一度、声を聞きたい。


もう一度、抱きしめてほしい。


もう一度、母さんと一緒に帰りたい。


ただ、それだけだった。


しかしアンジェは、その願いを口にできなかった。


復讐を選んだ自分が、今さら何を願っていいのか分からなかったのだ。


母親を奪われた怒りに身を任せ、邪教徒たちを殺すと決めた自分。


その自分が、母親を助けたいと願ってもいいのだろうか。


復讐を諦めてもいいのだろうか。


それとも、ここで怪物を殺さなければ、今までの自分を裏切ることになるのだろうか。


自分は、一体何を望んでいるのだろう。


「僕は……」


言葉が続かなかった。


その様子を見ていた怪物が、退屈そうに身じろぎした。


「……まぁよい。死ね」


次の瞬間。


神殿全体が、赤く染まった。


アンジェの足元に、幾重もの魔法陣が展開される。


ひとつ、ふたつ、みっつ。


その数は瞬く間に増えていき、アンジェを取り囲むように空中へ浮かび上がった。


魔法陣の中心から噴き出したのは、凄まじい業炎だった。


轟音。


熱風。


視界を埋め尽くす灼熱の奔流。


炎はアンジェを呑み込み、天井にまで届くほどの火柱となって立ち昇った。


「――っ!」


アンジェの姿が、炎の中に消えた。


普通の人間ならば、跡形もなく焼き尽くされていてもおかしくない。


怪物は、アンジェのいた場所を一瞥すると、興味を失ったかのように視線を戻そうとした。


だが。


『おやおや』


炎の中から、軽薄な声が響いた。


『舞台がすぐに終わってしまうのもつまらない』


パチン。


小気味よい指鳴らしが、神殿に響く。


その瞬間、燃え盛っていた業炎が、まるで時を巻き戻すように収縮した。


膨れ上がっていた火柱は一本の細い炎となり、やがて小さな火の玉へと変わる。


最後には、ふっ、と。


何事もなかったかのように消え去った。


その場に立っていたのは、二人。


アンジェと。


アンジェを庇うように立つ、ひとりのピエロ。


『いやはや、危ない危ない! いきなり焼き殺そうとするとは、随分とせっかちなお方でございますなぁ!』


ジェスターは、服についた煤を払うような仕草をした。


もちろん、彼の衣装には煤ひとつ付いていない。


その背後で、アンジェが呆然と立ち尽くしていた。


何が起きたのか、理解が追いついていない。


つい先ほどまで、全身を焼き尽くすほどの炎に呑まれていたはずなのだ。


それなのに、自分は生きている。


痛みもない。


火傷ひとつない。


まるで、最初から何も起きていなかったかのように。


「…………何者だ、貴様」


怪物の声が、わずかに低くなった。


先ほどまで、そこにあったのは絶対的な余裕だった。


人間など、指先ひとつで消し飛ばせる。


儀式の邪魔をする者など、誰であろうと殺せばよい。


その程度の認識しかなかったはずだ。


だが、今は違う。


目の前にいるピエロは、確かに自分の魔法を受け止めた。


いや。


受け止めたという表現すら正確ではない。


まるで、最初からその魔法など存在しなかったかのように消し去ったのだ。


理解できない。


何者だ。


この場にいるはずのない、異物。


ジェスターは、くるりと一回転すると、恭しく帽子を取った。


『ワタクシ、ジェスター。しがない旅のピエロでございます』


そして、いつもの調子で深々と頭を下げる。


『ヨホホホホ! いやぁ、名乗りというのは大切ですなぁ! 初対面の相手には、まず自己紹介! 礼儀作法の基本でございます!』


場違いなほど明るい笑い声が、神殿に響き渡った。


その姿を見つめていたアンジェは、ようやく我に返った。


そうだ。


自分は何をしている。


何のために、ここまで来た。


目の前には母親がいる。


今も、あの恐ろしい怪物の手によって、何かの儀式に捧げられようとしている。


自分が迷っている間にも、母親の命は危険に晒されているのだ。


だったら。


だったら、自分が選ぶべき道は――。


『坊っちゃん!』


突然、ジェスターが声を張り上げた。


アンジェの身体が、びくりと震える。


ジェスターは振り返らない。


怪物から目を離すことなく、ただアンジェへ向けて、芝居がかった仕草で片腕を広げた。


『さぁさぁ、坊っちゃん! お答えを! 貴方は何を望む!』


アンジェは、唇を噛んだ。


胸の中には、今も憎しみがある。


怪物を殺したい。


この世から消し去ってやりたい。


その気持ちがなくなったわけではない。


けれど、それ以上に。


それ以上に、今は――。


「僕は……」


アンジェは、顔を上げた。


その視線の先には、母親がいる。


目を閉じ、横たわる母親。


もう一度、あの手に触れたい。


もう一度、あの声を聞きたい。


もう一度、母さんと一緒に帰りたい。


アンジェは、自分の両手を強く握り締めた。


そして。


「僕は……母さんを助ける!!!」


叫んだ。


迷いを振り払うように。


胸の奥に残る憎悪を否定するのではなく、それでも自分が何を選ぶのかを、はっきりと示すように。


何よりも大切なものを守りたいと願う、純粋で、眩しいほどの輝きだった。


それを見た瞬間。


ジェスターの動きが止まった。


ほんの一瞬。


いつも浮かべている笑みが、ぴたりと静止した。


そして――。


『ンンンンンンンンンンンンンンン!!!』


次の瞬間、彼は天を仰いで歓喜の声を上げた。


『すんばらしい!!! 実に! 実に! すんばらしい選択でございます、坊っちゃん!!』


両腕を大きく広げ、くるくると回転する。


まるで、人生最高の舞台を目の当たりにした役者のように。


『復讐のために憎悪を燃やした少年が! 憎き元凶を前にしてなお! 復讐ではなく、大切な者の救済を選ぶ! あぁ、なんと美しい! なんとすんばらしい!』


ジェスターは、胸元を押さえ、天を仰いだ。


『これだから人間というものはやめられないのでございます!』


笑い声が響く。


その声には、嘲笑も、皮肉もなかった。


ただ、純粋な喜びだけがあった。


アンジェの選択を、心の底から称賛していた。


『さぁさぁ、坊っちゃん! お母様をお早く!』


ジェスターは、片手をひらひらと振った。


『ワタクシ、少々こちらのお客様と遊んでおりますので!』


アンジェは、彼の背中を見つめた。


その背中は、ひどく頼りなく見えた。


細い身体。


派手な衣装。


ふざけた口調。


目の前の怪物と比べれば、あまりにも小さな存在。


それでも。


アンジェには、もう分かっていた。


このピエロは、自分を助けてくれた。


復讐を望んだときも。


憎しみを抱えたまま立ち尽くしていたときも。


そして今、自分が母親を助けると決めたときも。


ずっと、そばにいてくれた。


「……ありがとう、ジェスター」


小さく呟く。


その声が届いたかどうかは分からない。


けれど、ジェスターはひらりと片手を振った。


『なぁに、お気になさらず! ワタクシ、ピエロでございますからな! お客様の笑顔と、すんばらしい舞台があれば、それで十分!』


そして、怪物へと向き直る。


その瞬間。


彼の纏う空気が、変わった。


笑みは消えていない。


軽薄な口調も変わらない。


だが、その姿からは、先ほどまでの道化じみた雰囲気とは異なる、底知れぬ何かが滲み出していた。


まるで、舞台の上でふざけていた役者が、仮面の奥に隠していた本性を覗かせたかのように。


ジェスターは、帽子を被り直した。


『さてさて、邪神様』


その声音は、相変わらず愉快そうだった。


『大変申し訳ございませんが、しばしお相手願えますかな?』


怪物の無数の眼が、彼を睨みつける。


「……貴様。何をした」


『おやおや? 何をした、と申されましても』


ジェスターは、両手を広げた。


『ちょいと舞台の火加減を調整しただけでございますよ』


その言葉に呼応するかのように、怪物の周囲で魔力が膨れ上がる。


神殿を覆う魔法陣が、いっせいに赤黒く輝いた。


「戯言を……! 我の儀式を邪魔するのみならず、我が魔法を無効化するとは……! 貴様、何者だ!」


『ワタクシ、しがないピエロでございます』


「ふざけるなァッ!!」


怪物の咆哮が、地下神殿を揺るがした。


空間が軋み、床に刻まれた魔法陣が眩い光を放つ。


神殿に満ちる魔力が、嵐のように渦巻いていく。


その圧倒的な威圧を正面から受けながら、ジェスターは愉快そうに肩を揺らした。


『ヨホホホホ! これはこれは! ずいぶんと元気なお客様だ!』


そして、ゆっくりと一礼する。


『それでは皆様――』


ジェスターは、片手を高々と掲げた。


『邪神とピエロの、愉快で素敵な大舞台!』


赤と黒の衣装が、ふわりと翻る。


帽子の鈴が、ちりん、と鳴った。


『これにて、開幕でございます!!』


その瞬間。


邪神の殺意と、ピエロの狂騒が激突した。


神殿を揺るがす轟音。


赤黒く染まる魔法陣。


そして、その中心で笑う道化師。


人の理解を超えた怪物と、人の理解を超えたピエロ。


二つの異形が、互いの存在をぶつけ合う。


――こうして。


アンジェが母親を救うために駆け出した、その背後で。


邪神とピエロの戦いが、幕を切った。



 読んでくれてあんがとな


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