ピリカラ・ポリカラ・ポンパッパ
要塞の正門前。
アンジェは、目の前にそびえ立つ巨大な城壁を呆然と見上げていた。
いったい、どうやってここまで来たのだろうか。
つい先ほどまで、彼は焼け落ちた故郷にいた。奇妙なピエロと手を繋ぎ、ぐるぐると回っていたと思ったら、次の瞬間にはこの場所に立っていたのだ。
夢でも見ているのではないか。そう思って頬をつねってみたが、当然ながら痛みが返ってきただけだった。
「テレポートなんて……絵本の中の話だと思っていたのに……」
『ヨホ? 何かおっしゃいましたかな、坊っちゃん?』
「……いや、何でもない」
アンジェは目の前の男を見やった。
赤と黒の奇妙な衣装。鈴の付いた帽子。浮かべられた人懐っこい笑み。
初めて会ったときから、どこかおかしな男だとは思っていた。
しかし、まさかここまでとは。
目の前の男は、まるで散歩の途中で少し道を間違えた程度の顔をしている。自分たちが一瞬にして何十、何百キロも離れているかもしれない場所へ移動したというのに、驚く様子すらない。
アンジェは、改めてこのピエロの異常さを思い知らされていた。
『──さてさて!』
そんなアンジェの内心などお構いなしに、ジェスターはぱん、と両手を打ち鳴らした。
『それよりも坊っちゃん! これからどうなさいますかな?』
「……どうするって?」
『決まっているでしょう! 坊っちゃんの大切なお母上様を連れ去った、憎き邪教徒ども! あやつらをどうしてくれましょうか、というお話でございます!』
ジェスターは大袈裟に両腕を広げ、要塞を仰ぎ見た。
まるで、これから始まる見世物の舞台を紹介する座長のように。
アンジェは唇を噛み締めた。
「……奴らを、皆殺しにしたい」
口にした瞬間、胸の奥でどす黒い感情が膨れ上がった。
燃え落ちる家々。血に染まった大地。目の前で命を奪われた、好きだったあの娘。そして、連れ去られた母。
忘れられるはずがない。
許せるはずがない。
「でも……僕の力じゃ……」
言葉が途切れる。
アンジェは自分の両手を見つめた。
何の力もない、ちっぽけな手。
村を守ることもできなかった。大切な人を救うこともできなかった。
そんな自分に、何ができるというのだろう。
『もぉ〜う、坊っちゃん!』
突然、ジェスターが大袈裟に肩をすくめた。
『先ほども申し上げたではありませんか! この愉快なピエロ、ジェスターが! 坊っちゃんの願いを叶えて差し上げる、と!』
「……え?」
アンジェは顔を上げた。
ジェスターは、にっこりと笑っていた。
その笑顔には、迷いも、ためらいも、恐れもない。
まるで、これからおもちゃを使って遊ぶ子供のように、無邪気な笑みだった。
『それでは、さっそく始めましょう!』
ジェスターは、正門の脇に立つ門番を指差した。
武装した男が一人。槍を手に、周囲を警戒しながら立っている。
『まずは、あちらの方から──』
ジェスターは右手を持ち上げた。
そして、人差し指と親指を、何かをつまむようにそっと合わせる。
『えいっ!』
ぷちん。
まるで、指先で小さな虫を潰したかのような、あまりにも軽い仕草だった。
──次の瞬間。
ぐしゃり。
門番の身体が、突如として目に見えない何かに押し潰された。
鎧がひしゃげ、身体が歪み、男は声を上げる間もなく地面へと崩れ落ちた。
槍が石畳に転がり、乾いた音を立てる。
それきり、動かなくなった。
「…………」
アンジェは、目の前で起きた出来事を理解できなかった。
何が起きた?
今、何をした?
ジェスターは、ただ指を合わせただけだった。
それだけで、人間が潰れた。
まるで、蟻を踏み潰すように。
『ヨホホホホ!』
場違いな笑い声が響き渡る。
『まずは一人! いやはや、実にお手軽でございますなぁ!』
ジェスターは倒れた門番を眺め、満足げにうんうんと頷いた。
まるで、手品が上手くいったことを喜ぶ芸人のように。
「は……?」
アンジェの喉から、かすれた声が漏れた。
「え……? い、今……何を……?」
『おや? ご覧になりませんでしたかな? いやぁ、これは失礼! 次はもっと分かりやすくお見せいたしましょう!』
「ち、違う……そうじゃなくて……!」
アンジェは一歩、後ずさった。
その瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。
ぞわり、と。
全身の肌が粟立つ。
目の前にいるのは、何なのだ。
確かに、ジェスターは奇妙な男だった。常識外れで、ふざけていて、何を考えているのか分からない。
けれど、それでも。
彼は、ただのピエロだと思っていた。
少なくとも、人間の姿をした何かだと。
しかし、違った。
目の前の男は、人間を殺したのだ。
何のためらいもなく。
怒りに任せて殴り殺したわけでもない。憎しみに駆られて刃を振るったわけでもない。
ただ、指を動かした。
それだけで、一人の人間の命を奪った。
そして、その死を前にして──笑っている。
楽しそうに。
心の底から、面白がるように。
「…………っ」
アンジェは、思わず自分の身体を抱き締めた。
怖い。
そう思った。
邪教徒たちに対して抱いていた憎しみとは、まるで違う感情だった。
あいつらは憎い。殺してやりたい。母を奪い、村を焼き払った報いを受けさせたい。
けれど、目の前の男は──。
自分が望んだことを、あまりにも簡単に実行してしまった。
人間を殺すという行為を、あまりにも軽々しく。
『おやおや? 坊っちゃん、どうなさいましたかな?』
ジェスターが顔を覗き込んでくる。
『お顔が真っ青でございますよ? お腹でも痛くなりましたかな? それとも、少々刺激が強すぎましたかな?』
「……お前……」
アンジェは震える声で呟いた。
「お前は……いったい、何なんだ……?」
ジェスターは、きょとんと目を丸くした。
そして、次の瞬間にはいつもの笑顔を浮かべる。
『ヨホホホホ!』
鈴が、ちりん、と鳴った。
『何をおっしゃいますやら! アタクシはただの、しがない旅のピエロでございますよ!』
そう言って、ジェスターは深々とお辞儀をした。
その背後では、門番が物言わぬ骸となって転がっている。
『さぁさぁ、坊っちゃん! まだまだ舞台は始まったばかり! ここで立ち止まっていては、お母上様がどんどん遠くへ行ってしまいますぞぉ!』
ジェスターは軽やかに手を叩き、巨大な正門へと視線を向けた。
『それでは皆々様! 次の演目へと参りましょう!』
ヨホホホホ!
陽気な笑い声が、静まり返った門前に響き渡る。
アンジェは、その背中を見つめていた。
自分が望んだはずの復讐。
それを叶えてくれるという、得体の知れない道化師。
この男と一緒に進んで、本当にいいのだろうか。
その疑念に答えてくれる者は、どこにもいなかった。
しばらくして、アンジェはジェスターと共に城門の前までたどり着いた。
その道すがら、彼は一度たりとも足元に目を向けなかった。
門番だったもの。もはや人の形を留めていない、無惨に潰れた死体。
見てはいけない。
そう思った。
見てしまえば、何か大切なものが壊れてしまうような気がしたのだ。
自分が人の死に慣れてしまうのか。それとも、目の前の惨状を当たり前のものとして受け入れてしまうのか。
どちらにせよ、それだけは嫌だった。
『ヨホホホ! おやおや、門が閉じておりますなぁ!』
隣から響く、場違いなほど陽気な声。
アンジェは顔を上げた。
目の前には、天を衝くほど巨大な城門がそびえ立っている。分厚い鉄板で補強されたそれは、外敵の侵入を拒むための堅牢な造りをしていた。
正面から押して開くような代物ではない。
「……どうするの? 門番は死んじゃったよ?」
『はてさて、困りましたなぁ! 門番がおりませんと、門を開けてもらうこともできません! いやはや、これは一大事!』
「いや、だから……」
『しかし!』
ジェスターは、びしっと人差し指を立てた。
『何事も、入るときにはノックが必要なのでございます!』
「…………は?」
アンジェが呆気に取られている間に、ジェスターは城門へと歩み寄った。
そして、こつこつと拳で門を叩く。
『ノック、ノック!』
こつん、こつん。
あまりにも軽い音だった。
分厚い鉄の門を前にして、まるで誰かの家を訪ねたかのような気安さである。
「…………」
アンジェは、しばらく黙っていた。
そして、深々とため息をつく。
「……当たり前だよ。そんなことしたって、誰にも聞こえないし……」
『シィーッ!』
「ひゃっ!?」
突然、ジェスターが人差し指を唇に当てた。
『聞こえますぞぉ……! 聞こえますとも!』
「……はぁ?」
『ほらほら、聞いてごらんなさい! 門の向こうから、ちゃあんと返事が返ってきております!』
「そんなわけないだろ!? 何も聞こえないよ!」
『おやおや? これは失礼! 坊っちゃんには、まだ聞こえませんでしたかなぁ?』
ジェスターは耳に手を当て、城門へと顔を寄せた。
『……ふむふむ。なるほど、なるほど! ええ、ええ! はいはい!』
何やら真剣な面持ちで、うんうんと頷いている。
やがて、ぱっと顔を輝かせた。
『おぉ! どうやら、入ってもよいとのことでございます!』
「……はぁ!?」
アンジェは思わず声を裏返らせた。
「ど、どうやって会話したんだよ!? 門の向こうに誰かいるの!?」
『さてさて、どうでしょうなぁ?』
「ふざけないでよ!」
『ヨホホホ! それでは、さっそくお邪魔いたしましょう!』
ジェスターは、城門の前で立ち止まると、何の変哲もない鉄の表面へ手を伸ばした。
そして──。
『ドアノブを捻って、扉を開けるのでございます! 坊っちゃん、ご存じありませんでしたかな?』
「そんなの知ってるよ! でも、ここは扉じゃなくて門だろ!? ドアノブなんて──」
ない。
そう言おうとしたアンジェは、言葉を失った。
門の表面に、金色のドアノブが付いていた。
古びた真鍮のような色合い。丸みを帯びた取っ手には、奇妙な装飾まで施されている。
まるで、最初からそこに取り付けられていたかのように。
「…………え?」
アンジェは目を擦った。
もう一度、見る。
やはり、ある。
ドアノブだ。
巨大な城門に、どう考えても不釣り合いなドアノブが付いている。
「……えっ? ちょっと待って。さっきまで、こんなのなかったよね?」
『おやおや? これはこれは!』
ジェスターは大袈裟に目を見開き、感激したように両手を叩いた。
『こんなところにドアノブがあるではありませんか! いやはや、僥倖、僥倖! まさか、こんなに都合のよいものが見つかるとは!』
「いや、見つかるとかいう問題じゃ……!」
『それでは、失礼して!』
ジェスターはアンジェの言葉を待たず、金色のドアノブを握った。
そして、くいっと捻る。
──カチャリ。
小気味よい音が響いた。
次の瞬間。
すうっ。
巨大な城門の一部分が、まるで最初からそこに扉が存在していたかのように、静かに開いた。
鉄の壁に切れ目が走ったわけでも、門全体が動いたわけでもない。
ただ、四角く切り抜かれた一部分だけが、何の抵抗もなく内側へと開いたのだ。
その向こうには、要塞の内部へと続く石造りの通路が広がっていた。
『ヨホホホホ! ほぉら、ご覧あれ! 扉が開きましたぞぉ!』
ジェスターは得意げに胸を張った。
『いやはや、やはり何事も礼儀が大切でございますなぁ! ノックをして、許可をいただき、ドアノブを捻る! 実に正しい手順でございます!』
「…………」
アンジェは、開かれた扉とジェスターの顔を交互に見つめた。
理解できない。
どうして、あの巨大な城門にドアノブが現れたのか。
どうして、ただ捻っただけで、こんなにも簡単に開いてしまったのか。
そもそも、門の向こうから返事があったという話は何だったのか。
何一つ分からなかった。
『さぁさぁ、坊っちゃん! いつまでも呆けていてはいけませんぞぉ!』
ジェスターは開いた扉をくぐり、ひらひらと手招きした。
『お母上様がお待ちでございます! 善は急げ、急がば回れ! 回っている間に日が暮れてしまっては大変でございますからなぁ! ヨホホホ!』
「……もう、何でもありじゃないか……」
アンジェは額を押さえた。
けれど、立ち止まっているわけにはいかなかった。
この先に、母がいる。
そう思うと、胸の奥に再び熱が灯った。
アンジェは小さく息を吸い込み、開かれた扉へと足を踏み出す。
その背後で、金色のドアノブがちりん、と小さな鈴の音を立てた。
──そんなはずはない。
ドアノブに、鈴など付いていないのだから。
────────────────
城門をくぐり、薄暗い石造りの通路をしばらく進んでいくと、やがて視界が大きく開けた。
そこは、豪奢な装飾が施された大広間だった。
天井には巨大なシャンデリアが吊るされ、壁際には金銀の装飾品が並び、長大なテーブルの上には酒瓶や大皿に盛られた料理が所狭しと並んでいる。
そして、その広間には──大勢の人間がいた。
人間族、獣人族、エルフ族。見慣れない種族の者まで入り交じり、誰もが酒を飲み、料理を貪り、楽しげに談笑している。
笑い声が響き、杯が打ち鳴らされ、まるで祭りの最中であるかのような賑わいだった。
ただし、その光景には一つ、奇妙な共通点があった。
そこにいる者たちは、誰もが胸元に金色のブローチを着けていたのだ。
──邪教徒の証。
アンジェは、思わず息を呑んだ。
「こいつら……全員、邪教徒なの……?」
目の前に広がる光景が信じられなかった。
村を襲った黒いフードの連中だけでも、アンジェにとっては十分すぎるほどの脅威だった。
しかし、ここにいる人数は、その比ではない。
数十人どころではない。大広間を埋め尽くすほどの人間が、当たり前のように酒宴を楽しんでいる。
「多すぎる……。いったい、何人いるんだ……?」
アンジェの声が震えた。
これだけの人数を相手に、どうやって戦えばいいというのだろう。
母を探し出すどころか、見つかる前に自分たちが取り囲まれてしまうに違いない。
『ふぅ〜む……』
隣では、ジェスターが顎に手を当て、広間をぐるりと見渡していた。
『いやはや、これはこれは! 確かに多すぎますなぁ! まったく、ずいぶんと盛大な宴会を催しているようで!』
「感心してる場合じゃないよ……! こんなにいたら、母さんを探すどころじゃ……!」
『ええ、ええ! ごもっとも! この人数を一人ずつ相手にしていたのでは、日が暮れるどころか、明日の朝までかかってしまうかもしれませんなぁ!』
「だったら……!」
『──なんてことは、ございませんが!』
「……え?」
ジェスターは、ぱっと顔を輝かせた。
そして、芝居がかった仕草で両手を広げる。
『ご安心あれ、坊っちゃん! このジェスター、こう見えても魔法の心得がございましてなぁ!』
「魔法……?」
『はいな! それでは、ちょいとばかり景気よく参りましょう!』
ジェスターは、すっと人差し指を立てた。
『よぉ〜くご覧くださいませ! これからアタクシが呪文を唱えます。すると、ぱっと驚くようなことが起こるのでございます!』
にんまりと笑う。
『くれぐれも、よそ見は厳禁ですよ? 瞬き一つで見逃してしまうかもしれませんからなぁ!』
「ちょ、ちょっと待っ──」
『ピリカラ!』
ジェスターの声が、大広間に響き渡った。
その瞬間、近くのテーブルに座っていた邪教徒の一人が、ふと顔を上げた。
「ん? なんだ、あいつら。どうやって入ってきた?」
その声に、周囲の者たちもこちらへと視線を向け始める。
『ポリカラ!』
「お〜い! 侵入者だぞ〜! 門番は何やってんだ!」
広間のあちこちから声が上がった。
酒宴の喧騒が、にわかにざわめきへと変わっていく。
椅子を引いて立ち上がる者。腰の武器に手を伸ばす者。仲間を呼ぼうと口を開く者。
数え切れないほどの視線が、二人へと集中した。
アンジェの身体が強張る。
まずい。
そう思ったときには、もう遅かった。
『ポンパッパ!』
ジェスターが、最後の言葉を陽気に唱えた。
──瞬間。
ぐにゃり。
世界が歪んだ。
「早ぎゅッ──!!」
叫びかけた男の身体が、不自然にねじれた。
「──ッッッ!!」
誰かが悲鳴を上げるよりも早く、その異変は広間全体へと広がっていった。
人間も、獣人も、エルフも。
種族も、年齢も、体格も関係なかった。
そこにいた全員の身体が、まるで目に見えない巨大な手で掴まれ、雑巾を絞るように捻じ曲げられていく。
鎧が軋み、椅子が倒れ、杯が床に落ちて砕け散る。
抵抗する間もなかった。
武器を抜く暇も、逃げ出す暇も、仲間に助けを求める暇さえも。
ほんの一瞬。
それだけで、広間を埋め尽くしていた人々は、次々と物言わぬ骸へと変わっていった。
そして──静寂。
先ほどまで響き渡っていた笑い声も、杯の音も、陽気な談笑も、すべてが消え失せていた。
床には倒れた椅子と割れた食器、散乱した料理、そして無数の死体。
宴会場だったはずの大広間は、瞬く間に凄惨な光景へと変貌していた。
「…………」
アンジェは、立ち尽くしていた。
何が起きたのか。
理解できない。
いや、理解したくなかった。
つい先ほどまで、あそこには人間がいた。
酒を飲み、笑い、談笑していた人間たちが。
それが今では、誰一人として動いていない。
たった一言。
たった一つの呪文。
それだけで、全員が死んだ。
「……う、そ……」
喉が引きつった。
胃の奥から、熱いものがせり上がってくる。
「うっ……ぐ、ぅ……」
アンジェは口元を押さえた。
けれど、耐えられなかった。
「うゔ……おえぇぇぇぇっ!!」
その場に膝をつき、激しく嘔吐する。
胃の中のものを吐き出しても、吐き気は治まらなかった。
目の前の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
自分が望んだことだ。
邪教徒たちを皆殺しにしたい。
そう願ったのは、自分自身だった。
けれど──。
こんなものを望んだのだろうか。
こんなにも簡単に、人間の命が消えてしまうことを。
『ヨホホホホ!』
不意に、陽気な笑い声が響いた。
『いかがでしたかな、坊っちゃん! ピリカラ・ポリカラ・ポンパッパ! いやぁ〜、我ながら実に見事な出来栄えでございます!』
ジェスターは、倒れたテーブルの傍らで満足げに両手を叩いていた。
まるで、手品を披露し、観客から拍手をもらうのを待っている芸人のように。
『さぁて! これで少しは歩きやすくなりましたかなぁ?』
アンジェは答えられなかった。
ただ、震える身体を抱き締めながら、目の前の道化師を見上げていた。
ジェスターは、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。
その顔には、怒りも憎しみも、殺意さえも見当たらない。
あるのは、ただ純粋な愉快さだけだった。
アンジェは、そのとき初めて理解した。
この男にとって、人を殺すことは特別な行為ですらないのだ。
指を鳴らすことと、何ら変わらない。
それほどまでに──目の前の道化師は、アンジェの理解できる世界からかけ離れた存在だった。




