第99話 ジャンルができてしまった
「トーマ」
前室のドアが開いて、ケイが入ってきた。
俺は振り返らなかった。振り返らなかったのは、誰のことかわからなかったからだ。
「おい。トーマ」
「誰だ」
「お前や」
ケイは俺の隣の椅子に鞄を投げた。投げてから、自分も座った。
「なんでだ」
「台本にそう書いてある」
ケイは机の上の紙を一枚取って、こっちに寄越した。
進行表だった。上から三つ目の枠に、〈トーマ&ケイ〉と印刷されている。
「昨日、溝口さんから電話きてん。二人でやるとき、名字と名字やと固いから、片方だけ縮めさせてくれって」
「縮めるのは俺のほうか」
「俺のほうを縮めたら、もう縮んどるやろ」
鴻上ケイのケイは、たしかに縮まない。
◇
「言うとくけど、外では言わへんからな」
ケイは進行表を取り返した。
「番組と、現場だけや。それ以外では高町でいく」
「なぜだ」
「なんとなくや」
ケイは進行表を丸めて、また広げた。広げたやつは、机の上で端が浮いた。
◇
前室の机には、弁当が積んであった。
二種類ある。ふたを開けなくても、シールの色で違うのがわかる。俺は赤いほうを取った。ケイは緑のほうを取って、開けて、閉じて、赤いほうと取り替えた。
「なんで取り替えた」
「お前が取ったほうが正解に決まってるやろ」
「根拠は」
「お前、飯だけは外さんもん」
外していない。
◇
溝口さんが入ってきた。
鞄を肩にかけたまま、紙の束を両腕で持っている。持ったまま、机の空いているところへ置いた。置いた束は、上の三枚だけが横にずれた。
「高町くん、日曜に出るバンジー、まだ放送してないんですけど」
「はい」
「もう局の中で回ってます。編集前のやつが」
「はい」
「うちの番組の作家会議でも流れました。誰も一言も喋らなかったです」
溝口さんは紙の束の上から二枚を取った。
「で、今日のコーナー、それ見て作りました」
「早いですね」
「早くしないと、他の局が先にやるので」
溝口さんは笑わなかった。笑わないで、二枚をこっちに寄越した。
◇
「あのね、高町くん」
溝口さんは椅子に浅く座った。
「今日のコーナー、名前に君の名前を入れました」
「はい」
「番組の中に、君を置いておくための枠を作ったんです。枠に名前が付いたら、それはもう、うちだけの物じゃないです」
「うちだけの物」
「よその局も、同じ枠を作ります。来月には出てきます。この商売では、それをジャンルと言います」
「俺は何もしてないです」
「僕もです。僕は枠を作っただけです」
わからん。
ケイが横で弁当のふたを開けた。開けて、こっちを見ないで言った。
「溝口さん、俺のは、なんて枠なんですか」
「鴻上くんのは、枠じゃないです。芸です」
「芸のほうが下みたいな言い方やめてください」
「上ですよ。上だから、努力すれば伸びるんです」
ケイは弁当のふたを閉じた。閉じて、また開けた。
◇
第7スタジオは、前の収録と同じ並びだった。
ひな壇は三段で、俺は二段目の右から二番目に座る。観覧は無い。客席のあるところには機材が積んである。
スタッフが椅子の位置を直していた。一つずつ、床のテープに合わせて置き直している。
俺の椅子の足元には、テープが二重に貼ってあった。下の一枚は古くて、上の一枚は白い。上の一枚のほうが、少し前に出ている。
◇
番場さんがフロアに入ってきた。
入ってきて、いちばん前の芸人の頭を軽く叩いて、そのまま自分の位置に立った。立ってから、ひな壇のほうを見上げた。
「今日、変なコーナーあるらしいな」
「あります」
ディレクターの人が答えた。
「誰が考えたんや」
「僕です」
「ようやるわ」
番場さんは手元の紙を見た。見て、二段目の右のほうへ目を上げた。
「高町、聞いてるか」
「聞いてます」
「なんて聞いてる」
「座っててくださいと聞いてます」
「合ってる」
◇
収録が始まる前に、ADの人がひな壇を上がってきた。
俺の椅子の前でしゃがんで、床のテープを指で押さえた。押さえてから、こっちを見上げた。
「高町さん、椅子、白いほうのテープに合わせてください」
「合わせます」
「合ってます。もう合ってます」
ADの人は自分の持っていた紙を見た。見て、もう一度床を見た。
「……すみません。僕が確認したかっただけです」
その人は立ち上がって、階段を下りていった。下りる途中で、一度だけ振り返った。
◇
コーナーの名前は、フリップに書いてあった。
〈笑ったら負け 高町灯真〉
俺が負けるらしい。
いま帰れば、二十一時前の電車に乗れる。乗ったところで、家の飯は二十時に終わっている。
◇
やることは、単純だった。
芸人が順番に前に出てきて、俺の前で何かをやる。俺が笑ったら、その人の勝ちになる。
一人目は、鼻に割り箸を挟んで顔を近づけてきた。
二人目は、上着を裏返しに着て、逆立ちしようとして失敗した。
三人目は、何もやらないで、俺の隣に座って、俺と同じ姿勢で前を見た。
そこでフロアの声が一段大きくなった。カメラの後ろにいたスタッフが二人、しゃがみこんだ。
四人目は、その二人の後ろに立って、同じ姿勢で前を見た。
五人目は、来なかった。来る前にフロアが止まらなくなって、ディレクターの人が頭の上で手を回した。回したのに、止まらなかった。
◇
傍から見ると、ひな壇の二段目で、椅子に座ったまま何もしていない男だ。
◇
「おい、待て待て」
番場さんがフロアの真ん中で手を上げた。
「今の、何がおもろいねん。二人並んで座っとるだけやぞ」
「二人並んで座ってるだけです」
「せやろ」
「はい」
「なんでみんな笑うねん」
「わかりません」
番場さんは自分の頭を一度掻いた。掻いた手を、そのまま腰に当てた。
「三十年やってて、腹の立つのがこれや。こっちは振りを組んで、順番を組んで、間を計って、ようやく一個笑いを起こすやろ。そこへ何もせん男が座ってて、そっちのほうがでかい」
フロアの後ろで、また笑いが起きた。
番場さんは、その笑いのほうへ手を振った。
「ほら見てみ。俺がぼやいたら笑うねん。ぼやくのは仕事ちゃうぞ」
番場さんは笑っていた。声は大きかったが、目は笑っていなかった。目だけがフロアの隅のモニターを見ていた。
◇
ケイのコーナーは、そのあとだった。
ケイは前に出て、五分喋った。
五分のあいだに、笑いは八回起きた。数えたのは俺ではない。俺の隣の芸人が、指を折って数えていた。
ケイは弟の話をした。金を貸した話で、金額が七千円になっていた。俺が聞いたときは三千円で、そのあと四千円になった。今日は七千円だった。
増えている。
◇
ケイは喋りながら、二回だけ俺のほうを見た。
見て、そのたびに何かを言って、そのたびにフロアが笑った。何を言ったのかは、俺の位置からはよく聞こえなかった。
ケイが下がるとき、番場さんが手を叩いた。
「うまいなあ、こいつ」
番場さんはそう言った。
言ってから、二段目の右のほうを見た。
「で、こっちは何もせえへん」
番場さんはそのまま三秒、俺のほうを向いていた。向いたまま、手元の紙を一度も見なかった。
笑いが長く続いた。ケーブルを巻いていたスタッフが、巻く手を止めたまま下を向いていた。
◇
収録は二十時前に終わった。
スタジオの明かりが半分落ちて、床のテープが見えなくなった。ケーブルを巻く音が、あちこちで同じ速さで鳴っていた。
俺は椅子から立った。
立つときに、ひな壇の板が鳴った。二段目の板は、右の端だけ音が違う。
立ったら、隣の芸人が俺の肩を叩いた。
「ええなあ、それ。俺もそれやりたいわ」
その人はそう言って、階段を下りていった。
◇
袖に犬飼さんが立っていた。
モニターのほうを向いている。俺が出てきても、こっちを見なかった。
モニターの中では、まだ音が鳴っていた。二段目の右から二番目に、俺が映っている。
犬飼さんは口を一度だけ横に動かした。動かして、元に戻した。
「高町」
「はい」
「終わったな」
「はい」
「来月、ドラマの話が二つ来てる」
「はい」
「二つとも、笑わない役だ」
犬飼さんは上着のポケットから小さい箱を出した。出して、開けないで、そのまま戻した。
◇
「犬飼さん」
「なんだ」
「今日のは、よかったんですか」
「よかった」
「はい」
「よかった」
犬飼さんは二回言った。
二回目のほうが短かった。
◇
楽屋に戻る途中で、廊下の角を曲がった。
曲がった先の、非常階段のドアの前に、ケイが座っていた。
膝を立てて、その上に腕を置いて、床の一点を見ている。膝の上の指が、一本も動いていない。喋る相手もいない。
俺が近づいたら、ケイは顔を上げた。
上げた瞬間に、いつものケイになった。
「おー、トーマ。腹減ったな」
「減った」
「せやろ」
ケイは立ち上がって、ズボンの尻をはたいた。
◇
地下の駐車場は、寒かった。
夏でも寒い。天井が低くて、蛍光灯が等間隔に並んでいて、その一本が切れかけている。切れかけているやつは、二秒に一度だけ暗くなる。
犬飼さんは先に車のほうへ行った。
行く前に、一度だけ振り返って言った。
「送るぞ」
「鴻上と飯を食います」
「そうか」
犬飼さんはそれ以上聞かないで、車のドアを開けた。開けて、乗る前に、上着のポケットにもう一度手を入れた。
俺とケイは、エレベーターの前に残った。
◇
「なあ、トーマ。お前、今日、何もせんかったよな」
「していない」
「……せやんな」
ケイは鞄の持ち手を握り直した。握り直して、上を見た。天井の隅に、非常口の緑の光があった。
「俺、今日、七回喋ったで」
「そうか」
「七回や。用意してきたやつ、全部いった。家で三日かけて考えたやつ、一個も余らせんかった」
「そうか」
ケイは持ち手をもう一度握り直した。切れかけの蛍光灯が、また暗くなった。
「で、腹減った。ラーメン行こや」
「行く」
「行くんかい」
ケイは笑った。笑い方は、いつものケイだった。
◇
ラーメン屋は局を出て五分のところにあった。
ケイは大盛りを頼んだ。
俺は壁の紙を見た。大盛りと、替え玉と、その両方を頼んでいる人が横にいる場合の三つを、順番に考えた。
大盛りにすると、替え玉のときの新しい麺の熱さが手に入らない。替え玉にすると、最初の一杯を早く食べ切る必要がある。早く食べ切ると、汁が減る。汁が減ってから来る麺は、味が薄い。
両方頼むという手もあるが、それをやると、たぶん、写真を撮られる。
「大盛りで」
俺は大盛りにした。
ケイは食べながら喋った。弟の話をもう一度した。二回目は八千円になっていた。
「なあ、来月からお前、どんくらい入ってんの」
「知らん」
「知らんのかい」
「有本さんが持ってる」
「お前、ほんまそういうとこやで」
何がそういうところなのかは、今日も教えてもらえなかった。
◇
ケイは丼を持ち上げて、汁を三口飲んだ。
飲んで、置いた。置いてから、カウンターの上のメニューを見た。見ているだけで、何も頼まなかった。
「トーマ」
「外だぞ」
ケイはコップを持ち上げて、そのまま置いた。
「……高町。なんもない」
ケイは水を飲んだ。飲んで、コップを置いて、置いたコップの位置を、指で五センチだけ動かした。
去年、レッスン室Bの床でも同じことをしていた。
「なあ、二日、事務所やろ。お前も」
「そうだ」
「なんの話か聞いてる?」
「聞いてない」
「俺もや」
ケイは丼の底に残った汁を、もう一口飲んだ。
◇
電車を降りたのは二十二時半だった。
最後の乗り換えで、向かいのホームに立っていた三人組のうち、二人がこっちを見た。見て、片方がもう片方の腕を叩いた。叩かれたほうは、叩いたほうの手を払った。
電車が入ってきて、三人は乗った。俺は乗らなかった。俺が乗るのは反対側だ。
◇
桜坂駅の階段を上がる。二十七段ある。上から九段目は欠けているが、上りのときは踏まない。
駅前のパン屋は閉まっていた。コロッケパンは朝からしか無い。
いま走れば、なんとかなるものが一つも無い。俺は普通に歩いた。
家までの道は、街灯が三本切れている。切れているところだけ、足元の砂利の音が大きく聞こえる。
◇
俺は机の上の明かりを灯した。
部屋の明かりは点けなかった。机の上だけが明るい。
ドアを閉めて、鞄からカップ麺を出した。局を出るときにケイが二つ買って、片方を押しつけてきたやつである。ラーメンを食った直後に渡してくる男だった。
湯を入れて、蓋の上に辞書を載せた。
◇
携帯が震えた。有本さんの名前が出ていた。
〈九月二日(火)十六時 事務所 4F 会議室1です〉
会議室1。
二十人入る部屋である。
俺は湯気の上から、その一行をもう一度読んだ。読んでも、二十人が何をしに来るのかは書いていなかった。
◇
湯気の向こうに、赤いものがあった。
「あんた、二食目でしょう」
「一食目はケイが払った」
「そういう話じゃないわよ」
人形は机の端に立っていた。立って、湯気を避けるみたいに一歩下がった。
「今日、何をしたの」
「座ってた」
「それだけ?」
「それだけだ」
「それでお金が出るの」
「出るらしい」
人形は腰に手を当てた。当てたまま、しばらく何も言わなかった。
「……あんたね」
俺は蓋を押さえたまま、次を待った。
「世の中には、座っているだけの人が何百万人もいるのよ。そのうちの一人にだけお金が出るなら、それはもう、座っているだけじゃないの」
「じゃあ何だ」
「知らないわよ。わたしが知ってたら、いま台の上に立ってないわ」
◇
俺は辞書をどけて、蓋を開けた。
三分は経っていた。経っていたが、麺は少し固かった。固いほうがうまい。
食べているあいだ、人形は机の端に立ったままだった。立ったまま、湯気の動くほうを目で追っていた。
俺は汁を飲み干した。飲み干してから、容器を机の上に置いた。置いた場所が、人形の立っているところから近かった。
「離しなさいよ」
俺は離した。
◇
「あの子は、どうだったの」
「ケイか」
「他に誰がいるのよ」
「七回喋ったと言ってた」
「言ってた?」
「言ってた」
人形は湯気のほうを見た。湯気は、もう上がっていなかった。
「あんた、それ、何のために言われたと思ってるの」
「わからん」
「そうでしょうね」
◇
俺は床に座った。
椅子より床のほうが、腹が落ち着く。膝を立てて、腕をその上に置いた。
指は、動かさなかった。
人形は机の端から見下ろしていた。見下ろしたまま、何も言わない。
言わないので、俺は待った。




