第98話 無表情で飛んだ
ワゴンのドアは、外から開いた。
有本さんが片手でドアを押さえていた。もう片方の手に鍵を持っていて、街灯の下で鍵の輪が光った。
俺は二列目に乗った。乗って、鞄を置こうとして、置く場所が無かった。
赤いものが、俺の隣に座っていた。座って、足を組んでいる。
「四時半って、正気なの」
(俺が決めたわけじゃない)
「起きてる人間の顔じゃないわよ、あんた」
(もともとこの顔だ)
◇
運転席で有本さんが振り返った。
「高町さん、シート、倒していいですよ。二時間半くらいかかります。着いたら起こします」
俺は背もたれを一段だけ倒した。倒したら、後ろの荷物に当たって止まった。
有本さんはタブレットを助手席に置いて、車を出した。
窓の外はまだ暗くて、街灯だけが等間隔で流れていった。信号は全部青だった。四時半の道は空いている。
◇
「あんた、朝ごはん食べたの」
(食うなと言われた)
「誰に」
(犬飼さんに)
「なんで」
俺は答えなかった。答えなかったのは、俺も知らないからだ。
「……あんた、それ、聞かないの?」
(聞いても言わないだろ)
「そういうところが、いちばん腹が立つのよ」
(寝る)
「寝なさいよ」
俺は目を閉じた。
閉じる直前に、隣で足の組み替える音がした。人形の足の音は、思ったより大きい。
◇
着いたのは七時前だった。
山だった。道が細くなって、木が両側に立って、そのあいだを二十分くらい上がって、開けたところに車が七台停まっていた。
空気が冷たい。八月なのに、腕に鳥肌が立った。
車を降りて、少し歩くと、谷があった。
谷の上に、橋が架かっていた。
◇
テントが二つ張ってあって、片方の下に折りたたみの椅子が並べてあった。
俺は端に座った。座ったら、机の上に紙コップとポットが置いてあるのが見えた。ポットの横に、菓子パンの袋が三つあった。
俺は袋を見た。見ただけで、取らなかった。
朝に食うなと言われている。理由は聞いていない。
◇
室伏さんは、橋の真ん中で座り込んでいた。
まだ何も始まっていない。
両手で欄干を掴んで、額を鉄にくっつけて、そのまま動かない。スタッフが二人、両脇にしゃがんで背中をさすっていた。
「室伏さん、まだ準備中ですから」
「わかってる」
「立ちましょうか」
「立ったら見えるだろ」
室伏さんは五十を超えたくらいに見える人で、テレビではいつも大きい声で喋っている。今は喋っていない。
◇
番場さんは橋のたもとに立っていた。
紙コップを持って、湯気を上に逃がしながら、室伏さんのほうを見ている。
「おう、高町」
「おはようございます」
「早いな」
「四時半に出ました」
「そら早いわ」
番場さんは紙コップを持ち替えた。
「高町、あれ見てみ」
番場さんは顎で橋の真ん中を指した。室伏さんが欄干にくっついている。
「あれ、朝からずっとや」
「はい」
「怖がるのが仕事の人やねん、あの人は」
◇
番場さんは紙コップの中身を飲み切って、コップを畳んだ。
「高町、こういうのは初めてか」
「はい」
「今日はな、あれや、企画の趣旨としては、うちら二人が死ぬほど怖がって、それを見て茶の間が笑うっちゅうやつやねん。せやから、まあ、頑張って怖がってくれ」
「頑張ります」
「頑張るもんちゃうけどな」
番場さんは畳んだコップをポケットに入れた。入れて、橋のほうへ歩いていった。
◇
ディレクターの人が紙を持って走ってきた。
「高町さん、段取り説明します」
「はい」
「今日はリアクション企画なので、素直に出してもらって大丈夫です」
「リアクション」
「驚いたり、叫んだり、そういうやつです」
「わかりません」
ディレクターの人は紙を持つ手を下ろした。
「……あの、驚くって、わかります?」
「わかります」
「よかった」
「出るかどうかは、わかりません」
ディレクターの人は紙をもう一度持ち上げた。持ち上げて、そのまま何も見ないで、走って戻っていった。
◇
犬飼さんは、車の横に立っていた。
こっちには来ない。腕を組んで、橋のほうを見ている。時々、上着のポケットに手を入れて、出す。何も持たないで出す。
俺が近くを通ったとき、一度だけ言った。
「高町」
「はい」
「無理はするな」
「はい」
「いや、無理はしろ。仕事だ」
犬飼さんは腕を組み直した。
◇
ベルトを着けるのに、十分かかった。
太腿に二本、腰に一本、肩に二本。全部を通してから、上の金具に留める。着けてくれたのは若いスタッフの人で、手が震えていた。
「すみません、緊張しちゃって」
「はい」
「僕、まだ二年目なんで」
「はい」
「あの、痛くないですか」
「痛くないです」
その人は同じ金具を三度確認した。三度目のとき、後ろから別の人が来て、上から順に指で押さえていった。四人目が来て、また同じところを押さえた。
俺のベルトの上に、大人の手が四人ぶん乗った。
◇
橋の真ん中まで歩いた。
欄干の一部が外れるようになっていて、そこに板が渡してある。板の先は何も無い。
下は木だった。木が重なっていて、その下は見えない。
風が上がってくる。上がってくる風は、下から来るのに冷たい。
カメラは三台あった。橋の上に一台、向かいの斜面に一台、それから、板の先に細いのが一台くくりつけてある。
◇
「高町ー」
番場さんの声が、拡声器から出た。
「怖ないんか」
「はい」
「はい、て」
笑い声が、スタッフのほうから起きた。
「なんか言うことないんか」
「腹が減りました」
「知らんがな」
また笑い声が起きた。俺は本当のことを言っただけだ。
◇
室伏さんが橋の端から叫んだ。
「先に行っていいから! 俺、絶対あとだから! 順番だけは譲らないからな!」
譲るのか譲らないのか、よくわからなかった。
◇
犬飼さんは、まだ車の横にいた。
橋の上からは遠い。遠いが、腕を組んでいるのはわかった。組んだまま、動いていない。
その横に有本さんが立って、タブレットを胸の前に持っている。持ったまま、画面を一度も見ていない。
◇
「じゃあ、いきまーす」
誰かが言った。
「五、四、三——」
俺は板の先に立っていた。
板は思ったより狭い。靴の幅より少し広いだけで、端が少し反っている。
足の裏に、板の木目が感じられた。
橋の上には人が十人以上いたが、ほとんどが自分の手元を見ていた。モニター、ケーブル、無線機、それから紙。こっちを向いているのはカメラの三台だけだった。
俺は前を向いた。
向かいの斜面の木が、風で一斉に同じ方向へ傾いた。傾いて、戻った。
◇
落ちた。
風が耳の横を通っていった。音が全部、上のほうへ抜けていった。
腹の中のものが、上に来た。
朝に何も食っていなくてよかった。
◇
ロープが伸びきって、体が止まって、また下がって、また止まった。
俺は逆さになっていた。
逆さのまま、三回か四回、揺れた。木の先が近い。葉が一枚、目の前を横切っていった。
◇
谷の上で逆さに揺れているのは、顔だけが一ミリも動いていない男だった。
◇
引き上げられた。
橋の上に戻されて、板の上に立たされて、ベルトを外された。外すのに、着けるときの半分もかからなかった。
橋の上は静かだった。
カメラマンの人が、モニターから顔を上げた。
上げて、俺を見て、それからもう一度モニターを見た。三度目に、また顔を上げた。
その人は何も言わないで、モニターの向きだけ隣の人のほうへ回した。隣の人は画面を見て、口の前に手を当てた。当てたまま、しばらく下ろさなかった。
橋の反対側で、ケーブルを巻いていた人の手が止まっていた。
◇
番場さんが拡声器を置いて、歩いてきた。
橋の板が、番場さんの足の下で二回鳴った。
「高町、途中でなんか思たか」
「腹が減ってました」
「落ちてる最中もか」
「落ちてる最中は、上に来ました」
「何が」
「腹の中のものです」
番場さんは二秒黙って、それから、俺の肩を叩いて向こうへ行った。
叩き方が犬飼さんより強かった。
◇
室伏さんが飛んだのは、その四十分あとだった。
四十分のうち、三十分は室伏さんが板の前で止まっていた時間である。
飛んだときの声は、谷の向こうの斜面から返ってきた。返ってきた声のほうが小さかったが、長さは同じだった。
引き上げられた室伏さんは、板の上に座り込んで、両手で顔を覆った。覆ったまま、三十秒くらい何も言わなかった。
言ってから、俺のほうを見た。
「高町くん。君、人間か」
「人間です」
「そうか」
室伏さんはもう一度顔を覆った。
◇
ディレクターの人が、モニターの前でしゃがんでいた。
しゃがんだまま、隣の人と何か話している。二人とも同じ画面を見ていて、二人とも同じところで顔を上げた。
「もう一本、いけます?」
俺のところへ来て、そう言った。
「いけます」
「……いけるんですか」
「いけます」
「いや、あの、すみません、いま僕、いけるって言われると思ってなかったので、次の言葉を用意してなかったです」
ディレクターの人は、そのままモニターのほうへ戻っていった。二本目は無かった。
◇
昼は弁当だった。
スタッフのテントの下に並べてあって、俺は一つ取った。取ったら、後ろから若いスタッフの人が来て、もう一つ渡してきた。
「あの、これも」
「二つですか」
「高町さん、たぶん、足りないと思うので」
その人は、俺が飛ぶ前にベルトを三回確認した人だった。
俺は二つとも食べた。米は冷たかったが、唐揚げは片方に四つずつ入っていた。合わせて八つある。
八つ目を食べているとき、テントの中の話し声が止まった。
止まってから、また始まった。始まったときには、話の中身が変わっていた。
◇
テントの端で、室伏さんがうどんを食べていた。
箸を持つ手がまだ少し震えていて、汁が一度、膝に落ちた。落ちたところをスタッフが拭きにきて、室伏さんは拭かせるあいだも箸を離さなかった。
室伏さんは食べながら、誰にともなく言った。
「俺、来年五十四なんだよ。五十四の男が、朝から山で吊るされて、それでも仕事なんだよ。おかしいだろ」
誰も返事をしなかった。
番場さんが、テントの外から返した。
「おかしないやろ。俺は五十一や」
「番場さんは飛んでないでしょ」
「俺はMCや」
「毎回それだ。この人、去年の川のときも、雪のときも、岸で腕組んで見てただけなんですよ」
室伏さんは箸で番場さんのほうを指した。指した箸から、汁がもう一滴落ちた。
番場さんはそれを見て、テントの中に入ってきた。入ってきて、室伏さんの隣の椅子に座った。座っただけで、何も言わなかった。
◇
撤収は十五時に始まった。
スタッフがカメラを畳んで、板を外して、欄干を戻した。戻した欄干は、はじめからそこにあったみたいに元通りになった。
室伏さんは車に乗る前に、橋のほうを一度も見なかった。見ないで、下を向いたまま、後部座席のドアを二回引いて開けた。一回目は開かなかった。
俺は谷を一度見た。
見ただけである。
◇
俺はワゴンの二列目に乗った。
隣は空いている。空いた席に鞄を置いた。今度は置けた。
有本さんが車を出した。出してすぐ、俺は目を閉じた。
「高町さん、今日、電話が九本ありました」
「はい」
「九本です」
「はい」
有本さんは、そこで話を終わりにした。
◇
途中で一度、犬飼さんから電話が来た。有本さんが取って、そのまま俺に渡した。
「二十九日、第7スタジオだ」
「はい」
「鴻上も入る」
「はい」
「今日のは、九月の頭の日曜に出る」
「はい」
「高町」
「はい」
「風呂に、湯を張って入れ」
電話は切れた。
有本さんが、前を向いたまま言った。
「張ったほうがいいですよ。明日、たぶん、太腿にきます」
「はい」
「わたしも去年、社内の運動会で、次の日に階段が下りられなくなりました」
◇
家に着いたのは十九時過ぎだった。
玄関で靴を脱いでいたら、妹が二階から下りてきて、階段の途中で止まった。
「兄ちゃん、なんか山のにおいする」
「山にいた」
「なにしてたの」
「落ちた」
「は?」
妹は階段を二段下りて、また止まった。
「落ちたって、どこから」
「橋だ」
「橋?」
「ロープが付いてた」
「付いてたからいいって話じゃないでしょ」
妹はそのまま下まで下りてきて、俺の腕を掴んで、両側から見た。見て、離した。
「ちゃんとくっついてる」
「くっついてる」
「兄ちゃん、そういうのやる前に家で言ってよ。わたし、学校でいきなり友達から聞かされるの、けっこう嫌なんだけど」
「まだ放送してない」
「してなくても言って」
妹は台所のほうへ行った。行って、途中で戻ってきた。
「怖かった?」
「腹が減った」
「それ、答えになってないから」
◇
風呂の湯を張った。
張っているあいだ、俺は洗面台の縁に座って、湯の音を聞いていた。脱衣所の窓が細く開いていて、そこから外の虫の音が入ってきていた。
水位が上がるにつれて、音が低くなっていく。低くなりきったところで止めた。
湯に入ったら、太腿の内側に線が二本あった。ベルトの跡である。
押しても痛くない。
◇
部屋に戻って、ドアを閉めた。
人形が棚の上にいた。
「あんた、飛んだんですって」
「飛んだ」
「どうだった」
「上に来た」
「何が」
「腹の中のものだ」
「あんた、それ、番場さんにも言ったでしょう」
「言った」
人形は棚の上で腰に手を当てた。
「同じことを二回言ってる時点で、あんた、それしか無いのよ」
「それしか無い」
◇
「あんた、下を見た?」
「見た。木が重なってた」
「その下は」
「見えなかった」
「見えないほうがいいのよ、そういうのは。見えたら人間は足が動かなくなるの。あんたは動く前に落とされたから、関係ないけど」
「落とされたんじゃない。自分で出た」
「出たの?」
「出た」
人形は棚の上で足を組み替えた。組み替えて、こっちを見た。見たまま、しばらく何も言わなかった。
「……ふうん」
◇
俺は鞄のベルトを締めた。
中身は、朝と同じだった。入れたものも、出したものも無い。
金具を押し込むとき、太腿の内側が一度だけ引きつった。
◇
携帯が震えた。
溝口さんからだった。今日は現場にいなかった人である。
〈今日のバンジー、局の編集の人からもう話が来てます。あの現場で何をやったんですか〉
何もやっていない。
落ちただけだ。




