第97話 面白いことは何もしていない
熊沢が、俺の顔をやっていた。
黒板の前に立って、両手を膝に置いて、顎を少し引いて、目だけを左右に動かしている。前のほうに座っていた女子が三人、机に伏せて笑っていた。
「似てない」
俺は言った。
熊沢が黒板のほうを向いたまま止まった。止まってから、首だけをこっちに回した。
「お前、いつからいた」
「最初からいた」
「うわ」
熊沢は両手を膝から離した。離すと、ただの熊沢に戻った。
◇
夏期補習の最終日で、教室には十九人しかいない。全員が前の三列に固まっていて、後ろは空いている。俺の席は窓側のいちばん後ろで、そこだけ日が当たっていた。
熊沢が戻ってきて、俺の前の席に後ろ向きに座った。
「見たで、こないだの水曜」
「そうか」
「お前、番場さんに振られて、二秒くらい黙ってたやろ。あれで、その日いちばんでかい笑い起きてたぞ」
「黙っていただけだ」
「だからそれがおもろいんやって」
わからん。
熊沢は夏休みに一度、事務所の前でケイと十分くらい喋っている。それ以来、語尾がときどき向こうのものになる。
「なあ、あれ、家でやっとんの」
「やっていない」
「嘘やろ」
「やっていない」
「じゃあなんであんな顔できんの」
「この顔しか無い」
熊沢は五秒くらい黙った。黙ってから、自分の顔を両手で挟んで、下に引っぱった。
◇
二時間目の補習は数学だった。
先生が黒板に問題を三つ書いて、出席番号で当てた。俺の番号だった。
俺は立った。
立って、黙った。
教室が静かになった。先生も黙った。窓の外で、体育館のほうから誰かがボールを突く音が、一定の間隔でずっと鳴っていた。
十秒くらい経った。
「高町、わからないか」
「わかりません」
「座っていい」
俺は座った。
誰も笑わなかった。
◇
「お前、今の何」
熊沢が小さい声で言った。
「黙った」
「それ、いつもやん」
そうかもしれん。
◇
補習は十二時に終わった。
黒板の横に貼ってあった五日ぶんの日程表を、日直が剥がして丸めた。丸めたやつをゴミ箱の横に置いて、そのまま帰っていった。ゴミ箱の中には入らなかった。
廊下に出たら、美咲がいた。
「高町くん、二学期の行事の紙、机に入れておいたから」
「わかった」
「九月は大きい行事が無いから、そんなに無いと思う」
「そうか」
美咲は俺の返事を待たないで、階段のほうへ歩いていった。
教室に戻って机の中を見たら、紙が二枚入っていた。一枚は行事の予定で、もう一枚は、九月の授業のうち三日ぶんに丸が付いた表だった。
丸は赤いボールペンで付けてあった。
◇
昇降口で靴を履き替えていたら、早坂が横に来た。
「高町くん、あの、水曜の」
「見たのか」
「うちのお母さんが録ってて」
「そうか」
「……その、面白かったです」
早坂は敬語になった。なってから、自分でそれに気づいた顔をして、下駄箱の扉を二回開け閉めした。
◇
駅前のコンビニに寄った。
肉まんは無かった。八月だから無い。代わりにおにぎりを二つ買った。
レジの人は、俺のおにぎりを持ったまま袋を取りに行った。行ってから、おにぎりを持ったままなのに気づいて、戻ってきた。
「……あの、袋、いります?」
「いります」
「はい」
その人はおにぎりに貼るシールの位置を、三回変えた。三回目でようやく貼った。
◇
桜坂駅の階段を下りているとき、上から来た二人組が俺の横で止まった。
止まって、通り過ぎて、そのあとでもう一度こっちを見た。二人とも見た。片方が携帯を出して、出したまま、何もしないでしまった。
俺は階段を下り続けた。九段目は雨の日に滑るが、今日は晴れている。
◇
十四時に事務所に着いた。
一階で有本さんに会った。有本さんは紙の束を左手に持って、右手でタブレットを触っていた。
「高町さん、今日、四階です」
「はい」
「昨日から、電話が十二本ありました」
「はい」
「十二本です」
有本さんは、本数のあとに何も付けなかった。付けないで、エレベーターの上のボタンを押した。押したことを忘れたみたいな手つきで、もう一度押した。
「有本さん、十二本というのは、多いんですか」
「わたしは、本数しか数えていません」
「はい」
扉が開いた。有本さんは先に乗らないで、紙の束を持ち直した。
◇
四階の会議室2に通された。
六人でいっぱいになる狭いほうの部屋で、机が一つと、椅子が六つある。壁には何も貼っていない。
俺は、何か怒られるのだと思った。
心当たりは無い。無いが、たぶん、ある。
窓は無い。あったら見ていた。いま出れば、夕飯の一回目に間に合う時間だった。
◇
ドアが開いて、犬飼さんと溝口さんが入ってきた。
溝口さんは、局の外でも首にヘッドホンを提げていた。上着は着ていない。シャツの袖を二回折っている。座る前に、椅子の位置を五センチだけ手前に引いた。
「高町くん、今日は僕から二つあります」
「はい」
「一つは来週の収録の話で、もう一つは、うちの会社が作ってる別の番組の話です」
「うちの会社というのは」
「カンパネラです。番組を作る会社です。局は場所と金を出して、中身は僕らが作ります」
「テレビは局が作るんじゃないんですか」
「よく言われます」
わからん。
「フリって、わかります?」
「わかりません」
「振ることです。番場さんが高町くんに話を振る。あれがフリで、そのあとに来るのがオチです」
「オチが来なかった場合は」
「来なかったのが、オチです」
やっぱりわからん。
◇
「高町くん、水曜のオンエア、見た?」
「見ました」
「番場さんが振ったとこ、覚えてる?」
「覚えてます」
「あれ、狙ってた?」
「狙ってないです」
「ですよねえ」
溝口さんは机に肘をついて、両手を組んだ。組んでから、指を一本だけ立てた。
「あの感じ、来週の収録でもらえたりします?」
◇
「あの感じというのは」
「間。あの、二秒くらいの」
「わかりません」
「わからない?」
「はい」
溝口さんは指を下ろした。
犬飼さんは黙っていた。黙って、机の上に置いた自分の手帳を、閉じたまま横にずらした。
「じゃあ、やってみてもらっていいですか。いま」
「ここでですか」
「ここで」
◇
俺は座り直した。
背もたれから背中を離して、両手を膝に置いた。目は、机の向こうの壁のあたりに置いた。
黙った。
溝口さんが俺を見ている。犬飼さんも見ている。部屋の空調が一度、大きい音を立てて、そのあと静かになった。
十秒経った。
俺は座り方を変えた。両手を机の上に置いて、少し前に出した。
黙った。
二十秒経った。
俺は目線を下げた。机の木目のところに置いた。木目は、右の端で一度だけ曲がっている。
黙った。
息を止めてみた。止めても、たぶん、外からは何も変わらない。
三十秒経った。
溝口さんが鞄からペンを出した。出したまま、何も書かないで、机の上に置いた。
◇
「……いま、何もしてないですよね」
溝口さんが言った。
「してないです」
「そうなんですよ」
溝口さんは椅子の背にもたれた。もたれたまま、天井のほうへ顔を上げた。
「そうなんだよなあ」
◇
犬飼さんが、テーブルの上で指を一度だけ鳴らした。
「高町」
「はい」
「やらんでいい」
「はい」
犬飼さんは溝口さんのほうを向いた。
「本人にやらせると、たぶん、無くなります」
「わかってます。わかってるんですけど、いちおう確かめておかないと、あとで僕が怒られるので」
溝口さんは笑った。笑いながら、鞄から紙を出して、机の上を滑らせて寄越した。
紙には、来週の金曜の収録の並びが書いてあった。俺の名前は下から三番目にあった。上から二番目のところに、知っている芸人の名前があった。テレビでしか見たことがない人である。
◇
「あと、これ、別件なんですけど」
溝口さんが二枚目を出した。
「二十六日、火曜、あいてます?」
「あいてます」
「体当たりです」
「体当たり」
「番組の名前です。体当たりニッポン。番場さんと室伏さんのやつ」
「わかりません」
「まあ、見なくていいです」
見なくていいらしい。
「服、汚れてもいいやつで来てください」
「はい」
「あと、朝ごはんは、まあ、ほどほどに」
溝口さんは紙をもう一枚めくって、そのまま鞄に戻した。戻すときに、こっちを見ないで言った。
「高町くん、体、丈夫?」
「丈夫です」
「よかった」
◇
部屋を出たら、廊下で犬飼さんが一度止まった。
「高町」
「はい」
「今日のは、忘れていい」
「はい」
「わかったと言うな。忘れろ」
「はい」
犬飼さんは階段のほうへ歩いていった。三段目で一度止まって、手すりに手を置いて、そのまま下りていった。
上着のポケットの中で、小さいものが二回鳴った。
◇
帰りに二階の自販機で、微糖の缶コーヒーを買った。
三列目の右にある。十九時を過ぎると売り切れているが、いまは十六時前なので、四本残っていた。
俺は一本を開けて、廊下で飲んだ。飲みながらレッスン室Aの前を通ったら、中から床板の鳴る音がした。入口から三枚目のところである。
誰が踏んだのかは見ていない。
◇
家に着いたら、妹が玄関に座っていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「学校でみんな兄ちゃんの真似するの、やめさせて」
「無理だ」
「なんで」
「俺がやってるわけじゃないからだ」
「兄ちゃんが元だもん」
妹は立ち上がって、靴を履いた。履きながら、こっちを見ないで言った。
「昨日なんか、部活の休憩に三人並んでやってたんだから。並んで。無表情で。全員こっち見てくるの」
妹はドアを開けて出ていった。どこへ行くのかは言わなかった。
◇
夕飯は、豚のしょうが焼きと、キャベツと、味噌汁だった。
父さんが二十時前に帰ってきて、上着を椅子の背にかけて、しょうが焼きを二枚取った。
「山梨、行くんだって?」
「行くらしい」
「何しに」
「聞いてない」
母さんが茶碗を置いた。
「聞いてないの」
「高いところに行くとだけ」
「高いところ」
父さんはキャベツを箸で寄せた。寄せてから、しょうが焼きをもう一枚取った。
「まあ、なんとかなるだろ」
父さんは、鯖のときも同じことを言った。あのときも、なんとかなった。
「二学期、いつから」
「一日だ」
「再来週の月曜か」
「そうだ」
「学校は行くんだな」
「行く」
母さんが立ち上がって、炊飯器のほうへ行った。行って、しゃもじを持ったまま、こっちを向いた。
「高いところって、どのくらいの高さなの」
「聞いてない」
「聞きなさいよ」
俺は聞かなかった。
◇
妹が向かいで箸を止めた。
「兄ちゃん、あれやってよ」
「あれとは」
「テレビのやつ」
俺は箸を置いた。置いて、両手を膝に置いた。
黙った。
妹は五秒くらい俺を見ていた。見てから、味噌汁を飲んだ。
「ぜんぜん」
「そうか」
「ぜんぜんだった」
妹は味噌汁の椀を置いた。置いて、箸で俺のほうを指した。行儀が悪い。
「もういい。ごちそうさま」
「まだ食ってるやつがいる」
「知らない」
妹は自分の茶碗だけ流しに持っていった。俺の茶碗は、置いていったところにそのまま残った。父さんが俺の顔を見て、それから、しょうが焼きの最後の一枚を取った。
◇
夕飯のあと、台所へ麦茶を取りにいった。
冷蔵庫の横の壁に、カレンダーが掛かっている。八月の紙に、母さんの字で予定が三つ書いてあった。
俺は端をつまんで、十二月まで送った。三十一日のところに、赤い丸が一つ付いている。
俺は八月に戻した。
換気扇の音が、途中で途切れた。
冷蔵庫の上に、赤いものが立っていた。
「あんた、今日、何回黙ったの」
(数えていない)
「数えなさいよ」
(数えない)
「あんたね」
人形は冷蔵庫の上で腰に手を当てた。当ててから、片方の足を半歩だけ前に出した。
「あんた、今日、面白いことをしようとしたでしょう」
(していない)
「したのよ。狭い部屋で、座り方を三回変えたでしょう。妹の前でもやったでしょう。だから今日は、どこも面白くなかったの」
(黙っていただけだ)
「その黙り方が違うのよ」
(黙り方に種類があるのか)
「あるわよ。山ほどあるわよ。あんたが今日やったのは、いちばん退屈なやつ」
人形は冷蔵庫の上を三歩だけ歩いた。歩いて、端で止まって、下を見た。高さを測っている顔だった。
「あんた、明日は何もしないでいなさい」
(明日は土曜だ。何もない)
「それでいいのよ」
◇
俺は麦茶のコップを持ったまま、台所に立っていた。
立っているだけである。
後ろで足音がして、妹が入ってきた。
「兄ちゃん、なにしてんの」
「麦茶だ」
「持ってるじゃん」
「持ってる」
妹は俺の横を通って、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の上の赤いものには、目もくれなかった。
開いた扉の内側から、白い光が床に伸びていた。
「そこ、邪魔」
俺はどいた。
◇
風呂から上がって、部屋に戻った。
机の上に、溝口さんからもらった紙が二枚並べてある。一枚は水曜の並びで、もう一枚は二十六日のぶんだった。二十六日のほうには、時刻と場所しか書いていない。
集合、四時三十分。移動、二時間半。現場、山梨県。
何をするかの欄が無い。欄が無いので、空欄にもならない。
俺は紙を裏返した。裏は白かった。
◇
俺は天井の補修のテープの端を剥がした。
去年の夏に貼ったやつで、片方の端がめくれてきていた。椅子の上に立って、指をかけて、下に引いた。
思ったより長く取れた。取れたぶんだけ、天井の板の色が違っていた。
携帯が鳴った。犬飼さんだった。
「二十六日、朝が早い」
「はい」
「四時半に家の前だ」
「はい」
「山梨だ」
「何をするんですか」
「高いところに行くらしい」
高いところ。
「飯は、朝に食うな」
「食わないんですか」
「食うな」
電話は切れた。
◇
携帯がもう一度震えた。今度は有本さんだった。
〈二十六日 四時三十分 ご自宅前です。動きやすい服装でお願いします〉
動きやすい服装。
俺は手に残ったテープを丸めて、机の端に置いた。丸めたやつは、置いたところから少しずつ広がって、机の上で勝手に形を変えていった。




