第96話 二人で呼ばれるようになった
畳んだ制服の上に、手が置かれていた。
白い手である。指が細くて、爪のところだけ色が違う。手の主は椅子の背に腰かけていて、足を組んでいた。
ドアは閉めたままだ。内側のフックに、洗濯した体操着が掛かっている。
「あんた、これ着るの」
「補習だ」
「夏休みでしょう」
「夏休みだ」
「意味がわからないわね」
俺も、そこは同じ意見だった。
人形は制服の上から手をどけて、その手で自分の膝を払った。払うほどの埃は、ついていなかった。
「あんた、今日は何時に帰るの」
「わからん」
「わからないのに出ていくのね」
「そうだな」
「昔の子はね、出ていく時間と帰る時間を、家の人に紙で置いていったのよ」
「今は電話がある」
「電話に出ないでしょう、あんた」
鞄の底で鳴っているのに気づかなかったことが、先週、二回あった。
◇
補習は午前だけである。
二時間目まで数学をやって、三時間目に現代文をやる。それで終わりだ。四時間目は無い。
教室は半分も埋まっていなかった。窓が全部開いていて、扇風機が二台、首を振っている。二台の首の向きは、たまにしか合わなかった。
教室に入ったら、前のほうに人が集まっていた。
集まっている真ん中に、熊沢がいた。携帯を持った手を、三人のほうへ向けている。
俺が入っていったら、三人が同時に振り返って、そのうちの一人が肘で熊沢の背中を突いた。突かれた熊沢は、振り返らないまま携帯を伏せた。
「おい高町。お前、昨日うちで観てたんだけどな、うちの母親が、あの子は疲れてるんじゃないのって言い出して、それで親父と二十分もめたからな」
「もめたのか」
「お前のせいだからな」
「そうか」
「そうかじゃねえよ」
熊沢は携帯をポケットに入れて、俺の肩を叩いた。
◇
自分の席に着いたら、机の上にプリントが一枚置いてあった。
数学のプリントだった。昨日、終わったあとに配られたらしい。そのとき俺は、もう校門の外にいた。
プリントの端に、細い字で日付が書いてある。俺の字ではなかった。
二つ前の席に、美咲が座っていた。座って、前を向いている。
こっちを見なかったので、俺も何も言わなかった。
◇
二時間目が終わったところで、美咲が席を立った。
立って、俺の机の横を通った。通るときに、机の上のプリントを指で軽く叩いた。
「そのプリント、木曜までだって」
「知ってる」
「先生が二回言ってたから」
「二回聞いた」
「じゃあ、いい」
美咲は前の席へ戻った。戻って、また前を向いた。
窓のほうの扇風機が、こっちに首を向けて、それからまた向こうを向いた。
◇
三時間目の途中で、宮坂先生が出席簿を閉じた。
閉じて、教室の後ろのほうを見た。後ろのほうで、二人が携帯を机の下に隠していた。
先生はそれを見てから、俺のほうへ視線を移した。
「高町。課題、木曜まで」
「はい」
先生は出席簿を教卓に置いた。
「テレビは見てません。出席簿は見てます」
教室が少し笑った。
先生は笑わないで、教科書を開いた。
◇
十二時十分に、有本さんの車が校門の外にいた。
車に乗ったら、後ろの席に弁当が置いてあった。
「食べてください」
「はい」
「食べてから着きます」
「はい」
俺は蓋を開けた。
中身は、鶏と、卵と、緑のものが三種類だった。緑のものの名前は、二つまでわかった。
食っているあいだ、有本さんは前を向いて運転していた。
途中で一度だけ、信号で止まったときに、こっちを向いた。
「高町さん、今日、鴻上さんも一緒です」
「聞きました」
「わたし、今朝、鴻上さんのマネージャーさんと二回電話しました」
俺は緑のものを一つ食った。名前がわかるほうだった。
◇
局の通用口を入ったところで、警備の人が俺の顔を見た。
見て、名簿に指を置いて、そのまま少し止まった。
「高町さん、ですよね」
「はい」
「昨日、うちの息子がやってました」
警備の人は、そこで自分の顔を無表情にしてみせた。
二秒で戻した。
◇
第7スタジオの前の廊下で、ケイが立っていた。
立っていたというより、跳ねていた。壁に手をついて、片足で二回跳ねて、それから両足で降りた。
「おー、高町」
「ケイ」
「なんで先おらんの。俺、二十分前におったで」
「学校だった」
「学校? お前まだ行ってんの」
「行ってる」
「えらいなあ」
ケイは俺の肩を叩いた。強い。
叩いてから、俺の制服を上から下まで見た。
「お前、それで来たん」
「着替える」
「着替えるんかい」
◇
楽屋は、前と同じ、廊下のいちばん奥だった。
ドアの紙に、俺の名前とケイの名前が並んでいる。
中に入ったら、ケイが先に上着を脱いで、鏡の前に立って、前髪を三回いじった。三回いじって、最初と同じ形に戻した。
「なあ高町。今日、俺、四十個ネタ持ってきてん。昨日の夜に三十個足した」
「四十個か」
「使うんは三個くらいやけどな」
「なぜ四十個いる」
「わからんけど、無いと不安やねん。使わんかったやつは、帰りの電車でぜんぶ読み返すねん」
ケイは鞄を開けて、中から折り畳んだ紙を出した。
紙は膨らんでいた。何度も開いて閉じたやつの膨らみ方だった。
「見せろ」
「あかん」
「なぜだ」
「見られたら恥ずかしいやつが十個くらい混ざってんねん」
「残りの三十個は」
「それも恥ずかしいわ」
ケイは紙をズボンの後ろのポケットに突っ込んだ。突っ込んでから、鏡の前に戻って、前髪をもう一度いじった。
いじる前と、いじったあとの形が、俺には同じに見えた。
◇
スタッフの人が、香盤を二枚持ってきた。
「高町さんと鴻上さん、今日は真ん中の段でお願いします」
「上じゃないんですか」
「真ん中です。並びでお願いします」
紙を見たら、真ん中の段の左から三番目と四番目に、名前が並んでいた。
俺が三番目で、ケイが四番目だった。
ケイは自分の名前のところを指で叩いて、そのまま俺の名前のところも叩いた。
「なあ、これ、俺らセットで呼ばれてんちゃう?」
「わからん」
「わからんて。名前くっついてるやん」
◇
真ん中の段は、上の段より足元が低い。
低いので、降りるのが楽である。かわりに、正面の机が近い。番場さんの顔が、机の向こうにはっきり見えた。
番場さんは机の向こうに座って、台本を横に置いた。開かなかった。
置いてから、こっちを見た。
「おー。二週間ぶりやな」
「はい」
「高町、あれ、うちのカミさんが十七回観たで。俺の出てる回は一回も巻き戻さへんのにな」
ケイが横で吹き出した。
「番場さん、十七回て」
「数えてんねん。あいつが」
◇
収録が始まった。
ケイは、始まって四秒で喋りはじめた。
番場さんが下の段に振っている途中で、真ん中の段から声を被せた。被せたところで番場さんが止まって、ケイのほうを向いた。
「なんや、そこの跳ねてるやつ」
「鴻上です。跳ねてません」
「跳ねてたやろ、さっき廊下で」
「あれは準備運動です」
「収録前に何の準備すんねん」
下の段から笑いが起きた。
俺は隣で正面を見ていた。
◇
ケイは、三十分のあいだに七回喋った。
七回のうち、五回は番場さんに拾われた。二回は流れた。流れた二回のあと、ケイは足を組み替えて、また同じ勢いで八回目を出した。
喋りながら、ケイは何度か俺のほうを見た。
見るたびに、俺は正面を見ていた。
◇
二本目の企画で、ケイが下の段まで降りていった。
降りて、烏丸さんの横に立った。立って、烏丸さんが立ち上がって走るところを、走らずにやってみせた。
烏丸さんが本人として立ち上がって、本当に走った。
スタジオが揺れた。筒井さんが上の段で足を踏み鳴らして、秋月さんが両手で顔を覆った。
ケイは自分の席へ戻ってきて、座って、俺のほうへ体を倒した。
「今の、ウケた?」
「ウケてた」
「せやろ」
◇
「俺な、こいつと同じ事務所やねん。二年おって、笑たとこ一回も見たことないですよ」
ケイが俺を指した。
番場さんが机に肘を置いた。
「一回もか」
「一回もです」
「気ぃ悪ならんの?」
「なりますよ。めちゃくちゃなります」
筒井さんが上の段で手を叩いた。
俺は横を見た。ケイは笑いながら、こっちを見ていた。
◇
「なあ番場さん。こいつ、さっきから一回も喋ってへんのですけど」
番場さんは手のひらを上に向けた。
「振ってへんもん」
「振ってくださいよ」
「振ったら止まるやんけ」
ひな壇が笑った。
ケイは俺の腕を掴んで、こっちへ引き寄せた。引き寄せられたので、体が少し傾いた。
「高町、なんか喋れ」
「何を」
「なんでもええわ」
「弁当が旨かった」
「弁当?」
◇
番場さんが手を止めた。
止めて、ゆっくり体を前に出した。
「弁当。今日の?」
「はい」
「どこの」
「わかりません」
「わからんのに旨かったんかい」
ケイが横で床を踏み鳴らした。
下の段の烏丸さんが立ち上がって、走ってきて、また戻っていった。筒井さんが天井を向いた。秋月さんが口を押さえた。
番場さんは、それを全部見てから、もう一度こっちを向いた。
「高町。もういっぺん言うてみ。ゆっくりな」
俺は言った。
「弁当が、旨かったです」
◇
――机の向こうと、ひな壇の十六人と、暗いところのカメラが、全部いっぺんにこちらを向いている、その真ん中に座っている二人の、片方。
◇
俺は、腹の話をしただけだった。
◇
番場さんは、そのあと台本を一度だけ持ち上げた。
持ち上げて、俺とケイのあいだを指でなぞった。なぞって、そのまま机に戻した。
戻した台本の角が、机の縁から二センチ出ている。番場さんは指の腹でそれを押して、縁とまっすぐになるところまで入れて、それから両手を机の上で組んだ。
ケイは椅子の上で背筋を伸ばした。伸ばしてから、俺の肩を叩いた。
叩く力が、廊下のときより強かった。
◇
三本目の企画で、番場さんが俺とケイを二人まとめて立たせた。
立たせて、机の前まで呼んだ。呼んでから、二人の位置を手で直した。ケイが右で、俺が左になった。
「ほな、そこで二人でやってみ」
「何をですか」
「なんでもええわ。三十秒やる」
ケイが喋りはじめた。
ケイは三十秒のあいだに、弟の話と、事務所の階段の話と、俺が学校へ行っている話をした。全部つながっていなかったが、つながっていないまま笑いが起きた。
俺は横に立っていた。
三十秒が終わったところで、番場さんが手を叩いた。
叩いて、フロアの人のほうへ指を二本立てた。フロアの人はうなずいて、手元の紙に何か書き足すと、そのまま香盤のいちばん下まで指を下ろして、離れた二か所を線でつないだ。
◇
収録は、四時間かかった。
前の企画が押したらしい。押した理由は、三つ目のフリップが差し替えになったからだと、あとから隣で聞こえてきた。
終わったのは二十一時を過ぎていた。
ひな壇の全員が、順番に降りていく。真ん中の段は、上の段より早く降りられる。
ケイは降りるときに、段の上から飛んだ。
スタッフの人に注意されていた。
注意されているあいだ、ケイは両手を膝に置いて、頭を下げていた。下げたまま、こっちを向いて片目をつぶった。
◇
スタジオを出るところで、秋月さんに呼び止められた。
「高町さん、今日、わたし、息、止めませんでした」
「そうですか」
「慣れました」
秋月さんは鏡を出して、口の端を指で押さえた。押さえてから、鏡を閉じた。
閉じる手が、前の収録のときのようには震えていなかった。
「でも、鴻上さんが止めてました」
「そうですか」
「本人は、たぶん気づいてないです」
◇
廊下に出たところで、二人が話していた。
ADの人と、もう一人だ。壁に台車を寄せて、そこにケーブルを巻きつけている。
通りかかったので、聞こえた。
「さっきの、弁当のとこ」
「うん」
「あの間、誰も被せられへんかったな」
「番場さんも待ってましたよね」
「あの人が待つの、珍しいで」
「鴻上さんも黙ってましたよ。あの人が黙ってるの、今日初めて見ましたけど」
俺は通り過ぎた。
弁当は旨かった。それだけの話をしたのに、二人が台車の横で立ち止まっている。
◇
スタジオの出口で、溝口さんとすれ違った。
溝口さんは台本を丸めて持っていた。丸めた台本で、自分の肩を二回叩いた。番場さんと同じ叩き方だった。
「高町くん、今日、笑わなかったですね」
「言われたので」
「助かりました」
溝口さんは、そのまま行こうとして、二歩で戻ってきた。
「鴻上くん、あれ、ずっと合わせてました」
「合わせる」
「あの子、自分が喋る量を、途中から半分にしてます。気づいてました?」
「気づいてないです」
「そうですか」
溝口さんは笑って、今度こそ行った。
◇
楽屋で着替えた。
制服に戻したら、ズボンの膝のところが少し伸びていた。四時間、そこに座っていた。
鞄を持ったら、思ったより重かった。
中身は朝と同じだ。教科書と、課題のプリントと、財布が入っている。増えたものは無い。
◇
ケイが楽屋のドアを開けた。
開けて、半分だけ体を入れて、こっちを見た。
「高町、俺もう出るわ。下で人待たせてんねん」
「そうか」
「お前、迎え何時」
「有本さんが車を回してる」
「ほな先行くわ」
ケイはドアを閉めようとして、途中で止めた。
止めて、もう一度顔を出した。
「なあ、今日、楽しかったな」
俺は鞄の持ち手を握り直した。
「そうか」
「そうかて。おい」
ケイは笑って、今度こそドアを閉めた。
閉まったあと、廊下を走る音が聞こえた。走る音は、階段のところで一度大きくなって、それから消えた。
◇
俺は椅子に腰を下ろした。
下ろしたら、思ったより深く沈んだ。座面の布は薄くて、下の板が膝の裏に当たった。
膝の上に鞄を置いた。置いたまま、しばらく持ち上げなかった。
鏡の周りの電球は、今日も半分がついていなかった。ついていないほうの並びを、左から順に見ていった。
◇
スタジオの前を通ったら、中の明かりがまだついていた。
ドアが開いている。
スタッフが、ひな壇の椅子を並べ直していた。
三段ぶんの椅子を全部いったん降ろして、下の段から順に並べ直している。数えると、下に六脚、真ん中に六脚、上に五脚だった。
背に貼ってあった紙は、全部剥がしてある。剥がしたテープが、床の隅にまとめてあった。
真ん中の段の左から三番目と四番目のところで、一人が手を止めた。
止めて、そこだけ二脚を少し離して、それから、また元の間隔に戻した。
戻してから、こっちに気づいた。
「あ、高町さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「来週も、ここ、二つ空けておきますね」
俺は、その二脚を見た。
背に紙は無かった。二脚とも、白いままだった。




