第95話 なぜかウケていた
居間のテレビの前に、妹が座布団を二枚重ねて座っていた。
二枚重ねると、テレビの高さと目の高さが合うらしい。膝の上にノートが載っている。表紙は無地で、角が丸くなっていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「そこ、立たないで」
「立ってない」
「立ってるの。画面の下が見えないの」
俺は座った。
母さんが台所から出てきて、エプロンを外さないまま、俺の隣に座った。
外さない理由は、たぶん、途中で立つからだ。
父さんは残業で、まだ帰っていなかった。
◇
妹はノートを開いて、鉛筆を握った。
開いたページは白い。左の端に、定規で引いたらしい縦の線が一本だけあって、そこから右は、番組が始まるまで白いままだった。
鉛筆の先は、テレビを向いていた。
テレビの下の録画の機械は、赤い光がついている。妹が三十分前に予約を確かめて、五分前にもう一度確かめた。
◇
二十一時になった。
音楽が鳴って、番組の題が画面に出た。出たあと、ひな壇が映った。
十六人が並んでいる。上の段の端に、俺がいた。
自分の顔が、画面の隅にあった。
親指の爪くらいの大きさだった。探さないと、どこにいるのかがわからなかった。
◇
「兄ちゃん、ちっちゃ」
「そうだな」
「探さないと見つからないよ」
「そうだな」
妹はノートに何か書いた。書いてから、鉛筆の尻でテレビを指した。
「あ、また出た」
番場さんが喋っているあいだ、画面の右下に小さい四角が出て、その中に俺の顔が映っていた。
番場さんが手を叩く。ひな壇が笑う。四角の中の俺は、動かない。
◇
番組の前半は、烏丸さんの話だった。
烏丸さんが立ち上がって走るところが、二回とも使われていた。走るところで、画面の下に太い字が出る。字が出ると、母さんが笑った。
筒井さんの話も一つ入った。若い頃に番組が無くなった話ではなく、飼っている犬の話だった。
秋月さんは、二回映って、一回喋った。
喋ったのは「かわいい」だけだった。その三文字に、画面の下で太い字がついた。
◇
四角が消えて、また出た。
消えて、また出た。
三度目に出たとき、画面の下のほうに白い文字が出た。
〈一切笑わない男〉
母さんが、俺のほうを見た。
「あんた、これ」
「そう出てる」
「そうじゃなくて」
母さんはそれ以上言わないで、テレビに向き直った。
◇
俺が「有本さんが、道を間違えたので」と言うところが、そのまま入っていた。
入っていて、そのあとの間も、切られていなかった。
番場さんが「有本さん誰やねん」と言うまでのあいだに、画面が二回、俺の顔に戻った。
二回目のとき、下の段の烏丸さんが口を開けたまま止まっているところが、隅に小さく映っていた。
妹が「これ、ぜんぶ映すんだ」と言った。
◇
箱の場面が来た。
番場さんが箱を持ち上げて、こっちに見せる。中に白い塊が入っている。俺がそれを見る。
俺が見たあと、画面が止まった。
止まって、俺の顔だけが大きくなった。大きくなったところに、音が入った。
風の音だった。
どこか寒いところで鳴っているような音が、二秒だけ入って、それから消えた。
消えたあとに、番場さんの声が乗った。
「今の間、俺が悪いんちゃうぞ」
◇
そこで番組が切り替わって、別の映像が入った。
妹が立ち上がって、台所へ走っていって、麦茶を持って戻ってきた。戻ってきて、また座布団に座り直した。
「今の、間に合った?」
「間に合ってる」
「よかった」
妹はコップを両手で持って、画面を見ていた。持ったまま、一口も飲まなかった。
◇
妹が座布団から落ちた。
落ちて、床の上で丸くなって、そのまましばらく起き上がらなかった。肩が動いている。声は出ていない。
母さんは口を押さえていた。押さえた手の下から、変な音が漏れていた。
俺はテレビを見ていた。
テレビの中の男は、白い塊を見たまま、何も言わないでいる。
◇
画面に映っているのは、白い塊を見て黙っている男と、その男が考えている煮物である。
◇
番組は二十一時五十四分に終わった。
終わる前の、最後の三十秒に、また俺が出た。番場さんが「なんか言うて」と言って、俺が「白いです」と言った。
それだけの場面が、そのまま入っていた。
入ったあとに、番組の題がもう一度出て、その下に細い字が出た。
〈来週も出ます〉
俺は、その字を二回読んだ。
◇
妹がノートを閉じた。
「兄ちゃん、十二秒」
「なんの話だ」
「映ってた時間」
「そうか」
妹はノートを持って、二階へ上がっていった。
上がる途中で一度止まって、こっちを向いた。
「明日、友達が来るから、兄ちゃんは部屋にいて」
「なぜだ」
「うるさいから」
◇
妹の携帯が、二階で鳴っていた。
鳴りやんで、また鳴った。三度目で妹が階段を駆け降りてきて、居間の隅で電話に出た。
「見た」
「見た見た」
「うん、本物」
「そんな面白くないよ。家だとぜんぜん喋らないし、ごはんのときも黙って食べてるもん」
妹は俺のほうを一度見て、それから壁のほうを向いた。
向いてから、声を小さくした。何を言っているのかは聞き取れなかった。
◇
電話が鳴った。
家の電話である。母さんが出て、二分喋って、切って、また鳴って、また出た。
三本目のときには、エプロンを外していた。
俺は台所に行って、鍋の蓋を開けた。
中に煮物が残っていた。皿に取って、居間に戻って、食った。
母さんは電話の向こうの人に、俺が食っているものの説明をしていた。
四本目の電話は、母さんの職場の人だった。母さんは「うちの子です」と三回言った。三回とも、同じ言い方だった。
◇
妹が二階から降りてきた。
降りてきて、居間の隅の電話台の上に、自分の携帯を置いた。置いて、俺の隣に座った。
「兄ちゃん、明日、学校のグループで話すの、何にもないんだけど」
「そうか」
「兄ちゃんが白いですって言っただけだから」
「言っただけだ」
「それでみんな言ってるの。おかしくない?」
おかしいのかどうかは、俺にはわからない話だった。
妹は俺の返事を待たないで、立ち上がって、二階へ戻った。
◇
風呂に入って、二階に上がった。
ドアを閉めて、部屋の明かりを落とした。
落としたあとで、部屋がまだ明るかった。
棚の上が光っている。人形が、腕を組んでこっちを見ていた。
「あんた、あれ、テレビで観たわよ」
「うちのテレビは一台だ」
「わたし、下に降りられるとでも思ってるの?」
「思ってない」
「じゃあ聞かないで」
俺は布団の上に座った。
人形は棚の上で、少しだけ体の向きを変えた。
「あんた、あの部屋で何にも思わなかったでしょう」
「思わん」
「そうでしょうね」
「なんだ」
「別に」
人形は腕を組み直した。
組み直してから、天井のほうを見た。
「あんた、笑おうとしたわね。一回だけ」
「言われたからだ」
「知ってるわ。ひどい顔だったわよ」
「そうか」
「おやすみ」
人形は、それきり喋らなかった。
俺は明かりをつけないで寝た。
◇
翌朝、玄関に新聞が二部あった。
一部は、うちが取っているやつだ。もう一部は、母さんが買ってきたやつらしい。台所の机の上で、母さんが下のほうの小さい欄を指でなぞっていた。
俺は覗かなかった。覗かないで、食パンを二枚焼いた。
焼き上がりを待つあいだ、玄関のほうで新聞の一部が滑って落ちた。拾いに行ったら、落ちたのは母さんが買ってきたほうだった。俺はそれを机の上に戻した。
妹が起きてきて、俺の焼いたやつを一枚取って、そのまま二階へ持って上がった。
俺はもう二枚焼いた。
焼いているあいだに、母さんが職場へ出ていった。出ていく前に、玄関で三回、髪を直していた。
「あんた、今日は出かけるの」
「事務所に行く」
「そう」
母さんは靴を履いて、ドアを開けて、そこで一度止まった。
「昨日のあれ、面白かったわよ」
「そうか」
「面白かったっていうか、なんて言うのかしらね」
言わないで、出ていった。
◇
昼、コンビニに行った。
ハミングマート桜坂店である。アイスの棚の前で、どれにするか決めるのに時間がかかった。
決めてレジに行ったら、店員が俺の顔を見た。
見て、いったんバーコードのほうへ目を戻して、それから、もう一度こっちを見た。
二回目のほうが長かった。
「昨日の、テレビの人ですよね」
「はい」
「あ、いえ。すみません。百三十円です」
俺は金を払った。
払って、外に出て、袋を開けて、アイスを食った。暑い。
店の前の日陰は、自転車置き場の屋根の下だけだった。屋根の下に立って食っていたら、アイスの棒が半分溶けたところで折れた。折れたほうは、俺の靴の上に落ちた。
店の自動ドアが二回開いて、二回とも、中の人がこっちを見た。
三回目に開いたとき、中学生が三人出てきた。三人のうち一人が、俺の前で立ち止まって、何も言わないで、また歩き出した。
◇
午後、事務所に行った。
一階の受付を通ったところで、受付の人が立ち上がった。座り直して、また立ち上がった。
階段を上がる途中で、レッスン生が三人降りてきた。三人とも壁側に寄って、俺が通り過ぎるまで動かなかった。
二階の廊下に、レッスン室Aのドアが開いていた。中で誰かが同じ小節を繰り返し弾いている。入口から三枚目の床板が、通るときに「ぎ」と鳴った。
◇
四階の小部屋ではなく、二階の廊下の椅子に座らされた。犬飼さんが向かいに立っている。
「見たか」
「見ました」
「どう思った」
「白かったです」
「そうか」
犬飼さんは、そこで話をやめた。
やめて、廊下の窓のほうへ二歩歩いて、また戻ってきた。
戻ってきて、上着の内ポケットから胃薬の箱を出した。出して、そのままポケットに戻した。
◇
有本さんが階段を上がってきた。
上がってきた勢いで、途中の段を一段飛ばして、手すりを掴んだ。
「犬飼さん、今日、十一本です」
「そうか」
「昨日の夜からだと、十九本です」
「そうか」
「そのうち一本は、神楽坂さんのところのマネージャーさんからでした」
有本さんはそこで口を閉じて、タブレットを両手で持ったまま、しばらく息を整えていた。
整えてから、俺のほうを見た。
「高町さん、水、飲みますか」
「飲みます」
「わたしも飲みます」
有本さんは自販機で二本買って、一本を俺に渡して、一本を自分で開けた。
開けて、半分飲んだ。
◇
溝口さんが来たのは、十五時だった。
番組の人が事務所に来るのは珍しいらしい。有本さんが二階の会議室を押さえるのに走り回っていた。
話は、廊下の椅子のままになった。溝口さんが「ここでいいです」と言ったからだ。
「高町くん、昨日のオンエア、観ました?」
「観ました」
「あれね、僕が編集したんですけど」
「はい」
「三時間ぶん見返して、いちばん使えたのが、君が黙ってるところでした」
俺は水のペットボトルの蓋を閉めた。
閉めてから、聞いた。
「黙ってるところは、なぜ使えるんですか」
溝口さんは首のヘッドホンを外して、膝の上に置いた。
置いてから、両手で膝を叩いた。
「君が黙ってる二秒のあいだに、まわりの十五人が全員動くんですよ。全員です」
◇
俺は、水のボトルを持ち直した。
返事は思いつかなかった。
溝口さんは続けた。
「番場さんが手を上げる。烏丸くんが体を折る。筒井さんが天井を向く。秋月さんが口を押さえる。それが全部、同じ二秒に起きてるんです」
「はい」
「編集で足したんじゃないですよ。撮れてたんです」
「はい」
「二秒って、テレビだと長いんですよ。ふつうは怖くて切ります」
「はい」
「切らないと決めるまでに、僕はあの二秒を三十回は再生しました」
「僕らはね、笑いを足す仕事なんです。音を入れて、字を出して、間を詰める。それを昨日は、一つもやらなくてよかった」
犬飼さんが、窓のほうを向いたまま聞いていた。
向いたまま、一言だけ言った。
「うちの人間は、何もしていません」
「そうなんですよ」
溝口さんは笑った。
笑って、ヘッドホンを首に戻した。
「それが、いちばんややこしいところです」
◇
犬飼さんが、窓から離れてこっちへ来た。
来て、俺の隣の椅子に座った。座って、膝の上で手を組んだ。
「溝口さん、うちは、あれを狙って作れません」
「知ってます」
「同じことを来週やれと言われても、無理です」
「言いません」
溝口さんは首を横に振った。振ってから、片手で自分の後ろ髪を掴んだ。
「狙われたら、僕が困るんですよ」
◇
溝口さんは、鞄から紙を一枚出した。
紙には、時間と、番号と、短い言葉が並んでいる。前に見たものと同じ形だった。
「来週の火曜、また来てください」
「はい」
「番場さんが、名指しで言ってきました」
「はい」
「あと、これは僕からのお願いなんですけど」
溝口さんは、紙の下のほうを指で押さえた。
「笑わなくていいです。頼むから、笑わないでください」
◇
溝口さんが帰ったあと、犬飼さんは椅子に座った。
座って、両手を膝の上で組んだ。組んだまま、床を見ていた。
俺は立って帰ろうとした。
「高町」
「はい」
「来週の火曜、同じ番組だ」
「はい」
「二回目がある番組は、そんなに多くない。三回目があるやつは、もっと少ない」
犬飼さんはそこで、少しだけ顔を上げた。
「それと、鴻上も呼ばれてる」
◇
帰りは、有本さんが駅まで送ってくれた。
車を降りる前に、有本さんが助手席の袋から紙を一枚出して、俺に渡した。来週の火曜の段取りが、上から順に並んでいる紙だった。
「入り、十五時です」
「はい」
「終わりは書いてありません」
「はい」
「終わりが書いてない日は、たいてい遅いです。前に一度、日付が変わってから局を出ました」
有本さんはそこまで言って、口を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
「あの、わたし、来週は道を間違えません」
「はい」
「あれ、放送に入ってたので」
◇
家に帰ったら、居間で妹が録画を巻き戻していた。
同じところを、何度も戻している。番場さんが箱を持ち上げるところと、風の音が入るところのあいだだ。
友達が二人いた。二人とも床に座っていて、俺が入っていったら、両方とも固まった。
「あ、本物」
「本物だ」
「兄ちゃん、部屋にいてって言ったでしょ」
妹はリモコンを持ったまま、俺を見上げた。
見上げて、それから、また巻き戻した。




