第94話 スタジオが静まり返った
「上の段の、端の子」
番場さんが机を指で二回叩いた。
カメラが一台、こっちへ寄ってきた。台の下に車輪が付いていて、床の上を滑ってくる。滑る音は、思ったより大きい。
俺の椅子の背の紙が、また端からめくれていた。押さえに行きたかったが、両手は膝の上に置いたままにした。
カメラの上に赤い光がついた。ついたところで、筒井さんが背筋を伸ばした。
「高町。今日、ここ来るまで何しとった」
「車に乗ってました」
「何時間」
「一時間半です」
「寝たやろ」
「寝てないです」
「なんで」
俺は答えた。
「有本さんが、道を間違えたので」
どこかで笑いが起きた。番場さんが「有本さん誰やねん」と言って、笑いがもう一段大きくなった。
俺は正面を見ていた。
◇
番場さんの目が、少し細くなった。
細くなったが、声の大きさは変わらなかった。
「高町、ええな。素材や」
筒井さんが横で手を叩いた。下の段の烏丸さんが「先輩、いま素材って言いましたよ」と言って、また笑いが起きた。
俺は、素材というのが何のことなのかがわからなかった。
スーパーで肉を買うときの札に書いてある字だと思ったが、たぶん違う。
わからないまま、次の振りが来た。
◇
「ほな高町、ちょっと立って」
俺は立った。
「そのまま、こっち向いて」
俺は向いた。
「ほんで、俺のことめっちゃ好きな顔して」
俺は番場さんを見た。
番場さんを見て、そのまま立っていた。
◇
スタジオが静まり返った。
◇
音が無いわけではなかった。
空調が回っている。カメラの台が床でわずかに軋む。上のほうのどこかで、金属が一度だけ鳴った。
人の声だけが無い。
番場さんの口が、少し開いたまま止まっている。
筒井さんの手が、叩こうとした形のまま、膝の上で止まっている。
下の段の烏丸さんが、口を開けて、何も言わないで閉じた。
秋月さんが、鏡を握ったまま俺を見上げていた。
◇
俺は段の上に立っていた。
立ったまま、番場さんを見ていた。言われたとおりにしているつもりだった。
◇
「怖い怖い怖い」
番場さんが両手を上げた。
「今、俺のこと嫌い?」
「いえ」
「嫌いじゃないんかい」
笑いが戻ってきた。
戻ってきた笑いは、さっきまでのものより大きかった。烏丸さんが下の段で床を叩いている。筒井さんは椅子の背にもたれて、天井を向いていた。
番場さんは、笑いが引くのを待ってから、もう一度こっちを見た。
「座って」
俺は座った。
◇
一本目の企画は、途中で二回止まった。
一回目は、下の段の人が名前を言い間違えたからだった。フロアの人が手を上げて、番場さんが「今の、無しな」と言って、同じところからやり直した。
二回目は、上のほうで何かが落ちた音がしたからだった。落ちたものは見つからなかった。
止まるたびに、ひな壇の全員が姿勢を崩して、また戻す。崩して戻すのが、二回とも同じ速さだった。
俺は崩さなかった。崩す前に、戻す合図が来ると思ったからだ。
◇
三十分ほど、俺のところに振りは来なかった。
来ないので、俺は正面を見ていた。
番場さんは下の段を回して、そこから真ん中へ上げて、真ん中で二つ話を作って、また下へ降ろした。烏丸さんが二回立ち上がって、二回とも走って戻ってきた。
上の段の四人のうち、三人は同じ拍で笑っていた。
俺は膝の上の手を見ていた。
左手の人差し指の爪の横が、少し欠けている。いつ欠けたのかは思い出せなかった。
◇
二本目の企画に入った。
フリップが変わって、机の上に箱が置かれた。中身は見えない。番場さんが箱に手を入れて、何かを取り出すたびに、ひな壇が声を上げる。
一つ目は、赤くて長いものだった。二つ目は、丸くて黒いものだった。どちらも、烏丸さんが名前を当てた。
三つ目を取り出したところで、番場さんの目がこっちへ来た。
「高町。これ、なんやと思う」
「わからんです」
「当てるとこやで」
「見えてないです」
「見えてへんのかい」
笑いが起きた。
番場さんは箱を持ち上げて、こっちへ見せた。
「ほな見せたる。……はい、どうぞ」
俺は箱の中を見た。
中に、白い塊が入っていた。何かの食べ物だと思ったが、名前がわからなかった。
俺は、それを見た。
◇
二度目の沈黙は、一度目より長かった。
◇
番場さんは、箱を持ち上げたまま動かなかった。
持ち上げた腕が、そのまま二秒、空中にあった。
「……高町。なんか言うて」
「白いです」
◇
烏丸さんが何か言おうとした。言おうとして、言葉が出る前に、番場さんが手で止めた。
止めて、番場さんはカメラのほうを向いた。
「今の間、俺が悪いんちゃうぞ」
◇
スタジオに二十人以上いて、顔が動いていないのは俺だけである。
◇
「はい、止めます」
フロアの人が手を上げた。
照明が半分落ちて、音楽が切れた。ひな壇の全員が、同時に姿勢を崩した。
崩したが、誰も喋らなかった。
◇
スタジオの奥から、白いシャツの人が出てきた。
髪が短くて、首からヘッドホンを提げている。歩くのが速い。机の横まで来て、番場さんに何か言って、それから上の段のほうへ顔を上げた。
「高町くん、ちょっといい?」
「はい」
「溝口です。今日の演出です」
「高町です」
溝口さんは、上の段の下まで来て、俺を見上げた。
「さっきのところ、頭から録り直します。カメラの位置も、さっきと同じに戻します」
「はい」
「同じことを聞くので、同じように答えてください」
「はい」
「あと、ちょっとだけ、笑ってもらっていいですか」
俺は口の端を上げた。
溝口さんは俺の顔を三秒見て、それから、ヘッドホンを首から外して、手に持ち替えた。
「……今のは、無しで」
◇
録り直した。
番場さんが同じことを聞いて、俺が同じように答えて、番場さんが箱を持ち上げた。
中身は、さっきと同じ白い塊だった。
俺は、それを見た。
◇
三度目の沈黙のあと、溝口さんが自分の手元の台本で、自分の額を一回叩いた。
叩いてから、フロアの人に何か言った。フロアの人がうなずいて、ひな壇に向かって手を回した。
「次、いきます」
◇
袖のほうで、人が動いた。
犬飼さんが、機材の箱の陰から一歩、明るいところへ出てきていた。
出てきて、そこで止まっている。腕は組んでいない。両手が体の横に垂れていた。
スタッフの人が「そこ、映ります」と言った。犬飼さんは黙って一歩下がって、また箱の陰に戻った。
◇
筒井さんが、俺の膝を叩いた。
「なあ、今の、なんやったん」
「白かったです」
「そうやなくてな」
筒井さんは、しばらく俺の横顔を見ていた。
見てから、正面に向き直って、両手で自分の顔を一度こすった。
「……天才か、事故か、どっちかやわ」
事故と言われたので、俺は袖のほうを見た。
誰も倒れていなかった。
袖の壁際に、機材の箱が積んである。積んである箱の横に立っているのが、俺のマネージャーである。
立ち方は、さっきと同じだった。
◇
三本目の企画は、下の段が中心だった。
俺のところに振りは来なかった。来ないあいだ、ひな壇の空気は元に戻っていた。烏丸さんが立ち上がって走って、筒井さんがそれにツッコみ、秋月さんが手を叩く。
その順番が、二回とも同じだった。
二回目の途中で、俺の左隣の人が、椅子を五センチだけ左へずらした。
ずらしてから、そのまま戻さなかった。
◇
烏丸さんが、下の段から振り返った。
振り返って、上の段の俺を見上げて、それから番場さんのほうへ手を上げた。
「番場さん、俺、上の段の高町くんに一個だけ聞いてええですか」
「聞き」
「高町くん、好きな食べ物なに?」
「カレーです」
「あー、はい、カレー。カレーな。……カレーか」
烏丸さんは前を向いた。
向いて、そのまま何も続けなかった。続けようとした形の手が、途中で止まって、膝に落ちた。
番場さんが、その手を指した。
「おい、置いていくなや」
「置いていってないですよ」
「置いていっとるわ。カレー拾えや」
烏丸さんは、両手で顔を覆った。
◇
四本目に入る前に、番場さんが手を上げて止めた。
止めて、机の向こうから、上の段のほうへ体を向けた。
「高町。ちょっと、こっち来て座り」
「どこですか」
「ここ。俺の横」
スタッフが動いて、机の横に椅子を一脚置いた。
俺は上の段から降りた。後ろ向きに降りた。降りるのに、思ったより時間がかかった。
◇
番場さんの横に座ると、ひな壇が正面に見えた。
十六人が三段に並んでいる。並んでいる全員が、こっちを見ていた。
番場さんは俺のほうへ椅子を寄せた。寄せてから、肘で俺の腕を突いた。
「あんな、俺はこの椅子に座って、目の前の人間が喋りだすのを待つのが仕事やねん。待っても喋らんかったんは、今日で二回目や」
「一回目はいつですか」
「俺がまだこの席やなかった頃や。そいつは次の日、事務所辞めたわ」
上の段で、筒井さんが足を踏み鳴らした。
俺は笑わなかった。番場さんは、笑わない俺の顔をしばらく見てから、カメラのほうを向いた。
「な? こういうことやねん」
◇
番場さんは、それから五分ほど、俺の隣で喋り続けた。
喋りながら、俺のほうを何度も向いた。向かれるたびに、俺は番場さんを見た。見るだけで、何も言わなかった。
番場さんは、俺が何も言わないところで一度笑いを取り、俺が「はい」と言ったところでもう一度取った。
取り方は、見ていても掴めなかった。
◇
「はい、休憩五分でーす」
照明が落ちた。
番場さんは椅子から立って、机の上の水を飲んだ。飲んで、コップを置いて、俺の肩を一回叩いた。
叩いて、そのままスタジオを出ていった。
俺は上の段へ戻ろうとして、途中で止められた。
「高町さん、そこ、そのままで」
◇
そのままで、と言われたので、俺は机の横の椅子に座っていた。
座っていると、ひな壇の十六人が正面に見える。
休憩のあいだ、十六人のうち、こっちを見た人は四人だった。四人とも、目が合うとすぐに逸らした。
筒井さんだけが、上の段から手を上げた。
上げただけで、何も言わなかった。
◇
昼になっても弁当は来なかった。
来なかったが、休憩のときにおにぎりが配られた。俺は二つもらった。筒井さんが上から一つ投げてよこしたので、三つになった。
三つ目を食っているときに、秋月さんが机の横まで来た。
「あの、高町さん」
「はい」
「わたし、さっき、途中で息を止めてました」
「そうですか」
「はい」
秋月さんは、そこで話を切って、ひな壇へ戻っていった。
戻るときに、上の段を後ろ向きに登っていた。
◇
収録は、そのあと二時間続いた。
俺は途中で上の段へ帰された。帰されたのは、番場さんが「近すぎて笑えん」と言ったからだ。
俺のところに振りは、二回来た。二回とも、俺は聞かれたことに答えた。二回とも、答えたあとに間ができた。
その間を、番場さんが毎回拾った。
拾い方は毎回違った。一度は自分でツッコみ、一度は烏丸さんに振り直し、一度はカメラに向かって手を合わせた。
拾われるたびに、ひな壇が笑った。
◇
終わったのは、二十時を過ぎていた。
三時間の予定が、押していた。押した理由は、誰も言わなかった。
ひな壇の十六人が、順番に降りていく。降りる順番は決まっているらしく、上の段が最後だった。
俺が最後に降りた。
降りたところで、床の黒いテープを一本、靴の裏で剥がしてしまった。スタッフの人が来て、貼り直した。
◇
最後の企画は、全員で一枚の紙に字を書くやつだった。
ひな壇の十六人が順番に立って、机の上の大きい紙に一文字ずつ書いていく。書いた字は、全部つながって一つの文になるらしい。
俺の番が来た。
前の人が書いた字の隣に、言われた字を書いた。書いてから、席に戻った。
戻ったあと、番場さんが紙を持ち上げて、読み上げた。
読み上げた途中で止まって、俺のほうを見た。
「高町の字だけ、めっちゃ小さいねん」
「そうですか」
「見えへんて。ここだけ、紙の上に虫が一匹止まってるみたいになっとるやんけ」
筒井さんが上の段から身を乗り出して、紙を見た。
「ほんまや。丁寧やけど小さい」
「丁寧やから小さいんちゃう」
◇
番場さんが、机の向こうで水を飲んでいた。
飲んで、コップを置いて、こっちを見た。
「高町。今日、しゃべった時間、全部で四十秒ぐらいちゃうか」
「そうですか」
「三時間おって四十秒や。俺、三時間しゃべりっぱなしやぞ」
番場さんは笑った。
笑って、台本を丸めて、それで自分の肩を叩いた。
「まあ、ええわ。今日のぶんを繋ぐ人間が、あとで一人で泣くだけの話や」
◇
衣装を返しに行くのに、廊下を三つ曲がった。
曲がるたびに、壁の色が変わった。白から、灰色から、また白になった。案内の紙が壁に貼ってあるが、矢印の向きが二枚で食い違っている。
衣装の部屋の前で、上着を脱いだ。
脱いだら、シャツの背中が濡れていた。三時間、と言われたとおりの暑さだった。
衣装の人は上着を受け取って、袖口の折り返しを元に戻した。
「お疲れさまでした」
「はい」
「来週の火曜も、同じ上着でお願いすることになると思います」
「来週ですか」
「そう聞いてます」
俺は聞いていなかった。
◇
袖に戻ったところで、有本さんが息を呑んだ。
呑んだ音が、はっきり聞こえた。有本さんは口を押さえて、それから、慌ててタブレットを両手で持ち直した。
「すみません」
「なんですか」
「なんでもないです」
有本さんの後ろに、犬飼さんが立っていた。
立って、俺の顔を上から下まで見た。それから、俺の後ろのスタジオのほうを見た。
「歩けるか」
「歩けます」
「そうか」
犬飼さんは先に歩き出した。
歩き出して、三歩でこっちを向いた。
「腹は」
「減ってます」
「そうか」
◇
廊下の突き当たりで、溝口さんが誰かと立ち話をしていた。
若い人が、紙の束を胸に抱いて、溝口さんに何か言っている。声が高い。
「三時間撮って、あの人のところだけ、どこも切れないんですけど」
「切らなくていい」
「尺、入らないですよ」
「入れる」
俺が通りかかったので、若い人は口を閉じた。
溝口さんはこっちに気づいて、片手を上げた。
「高町くん、オンエア、来週の水曜です」
「はい」
「編集、しっかりやりますので」
溝口さんはそう言って、ヘッドホンを首に掛け直した。
掛け直してから、もう一言だけ足した。
「……たぶん、いい形で出ます」
犬飼さんが、その言葉を聞いて足を止めた。
止めて、溝口さんの顔を見た。溝口さんは目を合わせなかった。




