第93話 ひな壇の端
ひな壇は、本当に段になっていた。
三段ある。下に六人、真ん中に六人、上に五人。俺は上の段の、いちばん右の端だった。
椅子の背に紙が貼ってある。白い紙に黒い字で名前が書いてあって、四隅がテープで留めてある。自分の名前を探すところから始まるらしい。
俺の紙は、端が少しめくれていた。指で押さえた。指を離したら、また同じところが起き上がった。
上の段は足元が高い。座ると、真ん中の段の人の後頭部が、自分の膝より少し下にある。
◇
東都テレビの第7スタジオは、Gスタジオより天井が低かった。
客席が無い。ひな壇の正面に机が一つ置いてあって、その向こうに椅子が一脚ある。あとは全部、カメラと機材と人だった。
カメラは三台見えた。四台目が、上のほうの暗いところで動いている。
床には黒いテープが何本も貼ってあって、その上をケーブルが走っている。ケーブルは束ねられて、壁際まで行って、そこで太い一本になっていた。
人が二十人以上いるのに、誰も俺のほうを見ていなかった。
◇
「高町さん、こちらです」
ADの人が俺の椅子の横に来て、細長い紙を渡してきた。
時間と、番号と、短い言葉が縦に並んでいる。字はどれも読めるのに、並んでいる意味だけが抜けていた。
「香盤です」
「はい」
「上から順にやります。押したら全部、後ろにずれます」
「押す」
「前の企画が延びることです。延びたぶんは、後ろの企画を短くして吸収します」
「はい」
「あと、たぶん押します」
押したら後ろにずれる。終わる時間が遅くなる、ということだと思う。
俺は紙のいちばん下を見た。
いちばん下には、時間が書いていなかった。空欄のまま、線だけが引いてある。
◇
カメラリハーサルというものをやった。
全員が座って、フロアの人が指を振って、カメラが順番にひな壇の前を通る。通るあいだ、こっちは座っているだけでいい。
「顔、上げてくださーい」
言われたので、上げた。
「もうちょっと右見てくださーい」
言われたので、右を見た。右には壁しかない。
カメラが行ってしまってからも、俺は右を見ていた。戻していいという合図が無かったからだ。
隣に座っている人が、俺のほうへ体を倒してきた。
「若いの、もう終わっとるで」
「そうですか」
「首、痛ならへん?」
「なります」
◇
「筒井です。よろしく」
「高町です」
筒井さんは四十くらいに見えた。髪を後ろでまとめていて、シャツの一番上まで留めている。
「若いの、初めてやろ」
「初めてです」
「顔でわかるわ」
「動いてないと思いますけど」
「そこがわかるんや」
筒井さんは俺の香盤を横から覗いて、指で下のほうを叩いた。
「ここ、三時間かかるやつやから。腹減るで」
「もう減ってます」
「早いな」
筒井さんはポケットから飴を出して、一つ俺にくれた。包み紙が古い。
「上の段はな、いっぺん座ったら降りられへんねん。トイレは今のうち行っとき」
「行ってきました」
「早いな」
二回言われた。
◇
下の段のいちばん左に座っている人が、立ち上がって、また座った。
立ち上がった拍子に、隣の人のマイクの線を膝で引っかけて、そのまま少し引っぱった。スタッフが二人走ってきて、線を椅子の脚に留め直した。
「烏丸、ほんまに毎回それやるな」
「毎回ちゃいますよ。三回に一回です」
烏丸という人は、俺より少し年上に見えた。喋る速さが、ケイの一・五倍くらいある。
立ち上がっては座り、座っては立ち上がる男である。
真ん中の段の女の人が、鏡を出して、口の端を指で押さえた。
押さえてから、鏡を閉じて、膝に置いた。膝の上で、鏡の角が細かく動いている。手が震えているのだと思った。
あとで名前を聞いた。秋月さんという。
◇
いったんスタジオを出た。
本番まで四十分あるらしい。ひな壇の全員が、上の段から順に降りて、廊下へ出て、それぞれの部屋へ散っていった。
俺の楽屋は、廊下のいちばん奥だった。
ドアに紙が貼ってある。俺の名前と、もう一人の名前が並んでいる。相部屋らしい。
中に入ったら、もう一人はいなかった。
部屋の真ん中に長机があって、その上にペットボトルが四本と、紙のおしぼりが置いてある。壁際にハンガーが二本。鏡の周りに電球が並んでいて、その半分がついていない。
俺は鏡の前の椅子を引いて、そこに座った。
座って、香盤をもう一度、上から下まで読んだ。
二回読んでも、やはり意味はわからなかった。
◇
衣装の人が来て、上着を持ってきた。
黒い上着だった。俺が着てきたシャツの上から羽織らされて、袖の長さを見られて、袖口を一センチ折られた。
「高町さん、これ、暑いですけど、収録のあいだは脱がないでお願いします」
「はい」
「三時間です」
「はい」
三時間、と言われたのは今日で三回目だった。言った三人とも、同じ言い方だった。
◇
メイクの人が来た。
紙のエプロンを首に巻かれて、顔を触られた。触られているあいだ、俺は目を閉じていた。
「高町さん、汗かきやすいですか」
「かきません」
「今日、暑いので、あとでもう一度来ますね」
「はい」
「動かないでくださいね」
動いていないつもりだったが、動いていたらしい。
メイクの人は、俺の顎を指で押さえて、位置を三ミリ動かした。
終わったあと、鏡を見た。鏡の中の顔は、朝と同じ顔だった。どこを変えられたのかがわからなかった。
わからないので、そのままにした。
◇
犬飼さんが入ってきた。
入ってきて、ドアを閉めないで、そのままドアの内側に立った。
「何か聞かれたか」
「初めてかと聞かれました」
「なんて答えた」
「初めてですと」
「それでいい」
犬飼さんは長机の上のペットボトルを一本取って、俺の前に置いた。置いてから、自分は取らなかった。
「今日は、喋らなくていい」
「はい」
「喋れと言われたら喋れ。それだけだ」
「はい」
犬飼さんはそこで、上着の内ポケットに手を入れた。
入れて、何も出さないで、手を出した。
◇
スタジオに戻った。
戻ったら、床のテープが増えていた。さっきまで無かったところに、黄色いテープが二本、追加されている。
俺は上の段の右端に座った。
座ってから、袖のほうを見た。
◇
袖に、犬飼さんが立っていた。
壁際の、機材の箱が積んであるあたりだ。腕を組んで、ひな壇のほうを見ている。
目が合った。合ったが、犬飼さんは何も言わなかった。
言わないで、上着の内ポケットから胃薬の箱を出した。出して、一粒、口に入れた。水は飲まなかった。
◇
スタジオの奥のドアが開いた。
人が入ってきた瞬間に、部屋の温度が変わった、というのは言い過ぎだと思うが、音は確かに変わった。
ひな壇の十六人が、いっせいに立ち上がった。
俺は座ったままだった。筒井さんが俺の膝を叩いたので、そこで立った。
「おはようございます」
番場マサルは、机の向こうの椅子に座って、そのまま台本を横に置いた。開かなかった。
「座って座って。今日は長なるで。四本撮って、押したらもう一本足す言われてんねん」
全員が座った。
◇
番場さんは、机の上に肘を置いて、ひな壇を左から右へ順番に見た。
見る速さが、一人につき一秒くらいだった。俺のところで止まらなかった。止まらないで、右の端まで行って、それから左へ戻った。
「今日、新顔おるらしいな」
「上の右です」
スタッフの人が言った。
番場さんは、もう一度こっちを見た。
「あー、はいはい。歌の人な」
「高町です」
「知ってるがな。うちのカミさんが録画してんねん。俺の番組は録らんのに」
どこかで、笑いが起きた。
俺は、笑いがどこから出たのかを探した。探しているうちに、笑いは三秒で消えた。
◇
収録が始まった。
始まった、という合図は無かった。フロアの人が指を回して、それで音楽が鳴って、番場さんが喋りはじめた。
番場さんの声は、さっきまでより二段階大きい。
ひな壇の十六人が、同じ拍で笑った。
俺は笑わなかった。
◇
一枚目のフリップが出た。
白い板に、太い字で短い文が書いてある。番場さんがそれを読んで、下の段の人が何か言って、上の段の人が被せて、それでまた全員が笑った。
誰かが手を叩いた。手を叩くと、他の人も叩いた。
俺は自分の手を見た。
膝の上に置いたままだった。動かす理由が、特に無かった。
◇
筒井さんが横から俺を肘で突いた。
「若いの、笑ろとき」
「はい」
「顔、動かんな」
「はい」
「はい、ちゃうがな」
俺は口の端を上げようとした。
上げたつもりだった。筒井さんは俺の顔を二秒見て、それから正面に向き直った。
「……そのままでええわ」
◇
二枚目のフリップが出た。
烏丸さんが立ち上がって、机のところまで走っていって、番場さんに何か言われて、走って戻ってきた。
戻ってくるときに、上の段の俺の前を通った。通るときに、俺の膝を軽く叩いた。
叩かれる理由は無かったと思う。
烏丸さんは自分の席に戻って、座って、それからもう一度立ち上がって、また走っていった。
二回目は、番場さんが何も言わないうちに戻ってきた。
◇
三枚目のフリップは、下の段の人が読んだ。
読んでいる途中で、番場さんが「読むな」と言った。読んでいた人が止まって、フリップを裏返した。裏にも字が書いてあった。
裏の字を読んだところで、全員が笑った。
俺はフリップの角を見ていた。四つの角のうち、右の下だけが少し潰れている。誰かが一度、床に落としたのだと思う。
◇
時計が見えないので、いま何時なのかは見当がつかなかった。
スタジオの壁には時計が無い。カメラの下に数字の出る箱があって、そこに数字が並んでいるが、あれは時刻ではないらしい。
腹は、朝から減っている。
家を出る前に飯を食った。八時半だ。それから車で一時間半かかって、局に入って、衣装を着て、ここに座った。
弁当が出るのかどうかは、聞いていなかった。
筒井さんにもらった飴は、包み紙を開けるところを誰かに見られそうだったので、まだポケットの中にある。
◇
フロアの人が、ひな壇の前で紙を上げた。
大きい紙に、太い字が書いてある。カメラの横に立って、ひな壇の全員に見えるように持っている。
〈わらう〉
紙が上がったところで、下の段と真ん中の段が笑った。上の段の三人も笑った。
俺は紙を見ていた。
紙は三秒で下ろされた。下ろされたあと、フロアの人が俺のほうを見た。見て、紙をもう一度上げた。
俺は口の端を上げた。
フロアの人は紙を下ろして、それきり上げなかった。
◇
「はい、いったん止めます」
フロアの人が手を上げた。
音楽が止まって、照明が半分落ちた。ひな壇の全員が、同時に姿勢を崩した。
背中が丸くなる。足を組む。誰かがペットボトルを取り出す。秋月さんが鏡を開けた。
番場さんは机の向こうで、台本の端を指で押さえて、そこに何か短い言葉を足した。
足すのに三秒かかっていた。
◇
袖を見た。
犬飼さんが、さっきと同じ場所に立っている。腕を組んだままだった。
組んだまま、片手を外して、内ポケットから箱を出した。
二粒目である。
腹でも痛いのかもしれない。あとで薬を飲むかと聞いてみようと思ったが、俺の手元には水しか無い。
◇
有本さんが、袖の暗いところから小走りで出てきた。
俺のところまでは来ないで、犬飼さんの横で止まって、タブレットを見せた。
「犬飼さん、局から三本です」
「そうか」
「あと、事務所から一本」
犬飼さんは画面を見なかった。
見ないで、ひな壇のほうを見たままうなずいた。
有本さんは、それ以上何も言わないで戻っていった。戻るときに、俺のほうを一度見た。目が合うと、頭を下げて、そのまま袖に消えた。
◇
筒井さんが、椅子の上で伸びをした。
「なあ、あんな怖い顔しとる人、誰?」
「マネージャーです」
「なんであんな顔してんの」
「わからんです」
「わからんのかい」
筒井さんは笑った。笑って、ペットボトルの蓋を開けた。
「俺な、若い頃に一回だけ、あんな顔してマネージャーが袖に立ってるのを見たことあんねん。あのときは、次の日に番組が一本消えたわ」
「番組が」
「消えたで。まるごと」
「そうですか」
「若いの、いま平気な顔したやろ」
「してます」
◇
休憩は五分だった。
五分のあいだに、秋月さんが二回、鏡を開けて閉じた。烏丸さんは下の段で三人を相手に喋り続けていて、その三人のうち二人は聞いていなかった。
俺は自分の香盤を見た。
紙は汗で少し波打っていた。膝の上に置いていたからだと思う。指で伸ばしたら、伸びたところがまた元に戻った。
上から三つ目までに、赤いペンで線が引いてある。線を引いたのは俺ではなかった。座る前から引いてあった。
線の下に、細い字で何か書き足してある。読もうとしたら、上下がさかさまだった。
◇
筒井さんにもらった飴を、口に入れた。
包み紙を開ける音が、思ったより大きかった。真ん中の段の二人が振り返った。
飴は、みかんの味だった。
舐めているうちに、照明が戻る合図が出た。合図が出てから、飴が口の中にあることに気がついた。
俺は飴を左の頬に寄せた。寄せて、そのまま正面を見た。
筒井さんが横から俺の顔を見て、口の形だけで何か言った。読めなかった。
◇
「席、詰めてください」
フロアの人が、上の段の端に立って言った。
上の段の五人のうち、いちばん左の人が下の段へ降りることになったらしい。降りるのに時間がかかっていた。足元が高いので、後ろ向きに降りている。
残った四人が、左へ一つずつ動いた。
俺も動いた。動いたら、右の端に椅子が一つ空いた。
空いた椅子の背には、まだ紙が貼ってある。名前が書いてあるが、そこに座る人はもういない。
俺の紙は、スタッフの人の手で新しい椅子の背に貼り直された。テープは同じものが使われた。
貼り直したあと、その人は少し離れて、まっすぐになっているかを確かめた。
◇
照明が戻った。
ひな壇の全員が、同時に背筋を戻した。足を組んでいた人が組み直して、ペットボトルが一斉に床へ消えた。
秋月さんが鏡を閉じた。閉じる音が、思ったより大きかった。
番場さんが、机の向こうで台本を閉じた。
閉じて、こっちを見た。
今度は、止まった。
「ほな、次いこか」
番場さんは俺の顔を見たまま、机を指で二回叩いた。
「上の段の、端の子」




