第92話 歌の次に来たのは、笑いだった
傘立てが、足りていなかった。
一階の自動ドアの内側に、二十四本ぶんの穴が開いた傘立てがある。今日は穴が全部埋まっていて、その周りの床に、七本が直に立てかけてあった。穴は四列に並んでいて、いちばん手前の列だけ、縁が黒く擦れて丸くなっている。
俺は八本目を立てかけた。
立てかけたら、隣の一本が滑って倒れた。倒れたやつを起こしたら、今度は自分のが倒れた。
二度やり直して、両方立った。
「高町くん、それ、諦めていいですよ」
受付の人が言った。
諦めていいものだったらしい。
傘立ての二十四本は、朝からずっと満員だったそうだ。何本かは昨日から刺さったままだと、受付の人が言った。
「今日は、人が多いんですか」
「多いです」
「何かあるんですか」
「高町くん、それ、本気で聞いてます?」
本気で聞いていた。
受付の人は、返事の代わりに、受付台の下から紙を一枚出して、そのまま裏返しに置いた。
◇
月曜の昼の一階は、いつもより人がいた。
スーツの人が三人、ソファのところで立ったまま喋っている。そのうち二人は事務所の人ではない。持っている紙袋に、知らない会社の名前が入っていた。
俺が通ったら、三人とも喋るのをやめた。
やめて、頭を下げた。俺も下げた。下げてから、階段を上がった。
◇
四階の会議室2は、六人しか入らない。
通称は小部屋で、この部屋に呼ばれるときは、だいたい良くない話だった。窓から隣のビルの非常階段の踊り場が見える。今日は雨なので、鳩はいない。
犬飼さんが先に座っていた。
机の上に、封筒が二つ置いてある。角は、両方とも折れていなかった。
「座れ」
「はい」
「傘、どうした」
「下に立てました」
「そうか」
俺は座った。
◇
「話が二つある」
犬飼さんは、封筒の一つを俺のほうへ滑らせた。
「一つ目だ。十二月三十一日」
「はい」
「東都テレビの年末の特番だ。『ミュージックゲート カウントダウン』。十八時から二十三時四十五分まで」
「長いですね」
「長い」
「終わったら、年が変わってますね」
「変わる」
犬飼さんは封筒の口を指で開けて、中の紙の頭だけを出した。
「会場はドームだ。東京セントラルドーム」
「ドーム」
「野球をやるところだ」
「わかります」
「わかってないと思うぞ」
犬飼さんは机の上を指でなぞった。なぞって、四角を描いた。
「ホールは、この会議室の何倍だと思った」
「四十倍くらいです」
「ドームは、そのホールの何倍だと思う」
「わかりません」
「俺もわからん。数えたことがない」
犬飼さんは指を止めた。
「そういう場所だ。行けば、わかる」
「はい」
「MCは、二十五日と同じ人だ」
「都築さんですか」
「そうだ。局が、続けて出したいらしい」
◇
犬飼さんは、紙を封筒の中に戻した。
「内定だ。まだ正式じゃない。だが局が枠を押さえた」
「はい」
「押さえたということは、そういうことだ」
俺は封筒を見た。
封筒の宛名のところに、事務所の名前と、俺の名前が書いてある。俺の名前のほうが、字が大きかった。
◇
十二月三十一日は、何曜日なのかがわからない。
わからないので、頭の中で数えた。今日が七月二十八日の月曜だ。八月の頭までが四日で、そこから八月が三十一日、九月が三十日。
三十日と三十一日が交互に来る並びを、俺は正確に覚えていない。
覚えていないところで数えても、答えは出ない。
大晦日は、家にいない。
◇
「顔が止まってるぞ」
机の向こうから、そう言われた。
「そばの話を考えていました」
「そばか」
「大晦日です」
「出る」
「出るんですか」
「ドームの中に、いくらでも出る」
それなら問題は無い。
◇
「二つ目だ」
犬飼さんは、もう一つの封筒を出した。
こっちのほうが薄い。
「東都テレビの『ひな壇ジャック』。水曜の二十一時から。収録だ」
「歌の番組ですか」
「違う」
「じゃあ、なんですか」
「バラエティだ」
窓の外で、非常階段の踊り場に雨が溜まっているのが見えた。溜まった水は、端のほうから細く落ちている。落ちた先は、下の階の踊り場だ。そこにも同じように溜まっていく。落ちるところの手すりの下だけ塗装が縦に長く剥げていて、出ている鉄が、雨で黒く濡れて見えた。
「レギュラーの話が来ている」
「レギュラー」
「毎週出るということだ」
「毎週ですか」
「毎週だ」
◇
犬飼さんは胃薬の箱を出して、口に入れた。今日は水も飲まなかった。
「制作はカンパネラという会社だ。うちとは初めてになる」
「はい」
「向こうの言い方をそのまま言うぞ。『歌の人が、喋らないままひな壇に座っているところが見たい』だそうだ」
「喋らないままですか」
「そう言っている」
「喋らなくていいなら、楽です」
「楽ではない」
犬飼さんは、そこで少し黙った。
「向こうは、喋らないところが見たいと言っているが、番組というのは、そういう約束を守らん」
「守らないんですか」
「守らん。三回目くらいで、必ず振ってくる」
「振るというのは」
「話を回すということだ。高町くんはどうですか、と急に聞かれる」
「そのときは、どうすればいいですか」
「知らん」
犬飼さんは封筒の角を、机の上でそろえた。
「俺は歌のほうも知らんし、笑いのほうも知らん。だから、今回は口を出さん」
「はい」
「出さんが、現場には行く」
「来るんですか」
「行く」
「六月に入ってから、歌のほうには来ませんでした」
「歌は、俺が口を出しても何も良くならん。笑いも同じだ」
犬飼さんは椅子の背にもたれた。もたれてから、また前に戻った。
「だが、袖に立っている人間が要る」
「なぜですか」
「終わったあと、君を運ぶ人間だ」
運ぶという言葉は、少し大げさである。
大げさだが、二十五日の通路のことを考えると、言い返しにくかった。
◇
「やるか」
言ったのは犬飼さんだった。
◇
俺の返事より先に、返事が来た。
「やるに決まってるでしょう」
鞄の中からだった。今朝、妹が机の上のやつを勝手に鞄へ入れたので、そのまま持ってきていた。妹は、入れた理由を言わないで学校の宿題に戻った。
(勝手に決めるな)
「決めてないわよ。当たり前のことを言っただけ」
(当たり前じゃない)
「あんた、いま封筒を二つ出されたでしょう。二つよ。片方だけでも、人生が一回ぶん変わる話なの」
(意味がわからん)
「わからなくていいから、返事しなさい」
◇
「やります」
俺は言った。
「即答だな」
「はい」
「理由を聞いていいか」
「特にないです」
犬飼さんは俺の顔を三秒くらい見た。
それから、封筒を二つとも机の真ん中に寄せて、両方の角を揃えた。
揃えてから、こう言った。
「……歌の次に来たのが、笑いか」
封筒は二つとも、机の真ん中で重なっていた。上が薄いほうで、下が厚いほうだ。
「順番が逆だと思っていた」
「逆というのは」
「笑いのほうが先に来て、歌はもっとあとだと思っていた。うちは、ずっとその順番でやってきた」
犬飼さんは上の封筒を、下の封筒の横へずらした。
ずらしたら、二つが並んだ。
◇
――事務所の小部屋で、年末の特番と毎週の番組を同じ日に受け取っている当人。
実際には、この部屋を出たら次はどこへ行くのかを考えていた。まっすぐ帰れるなら、駅前のパン屋がまだ開いている。
◇
小部屋を出たら、廊下に人が集まっていた。
四人いた。四人とも、俺のほうを見ていない。犬飼さんのほうを見ていた。
「決まりですか」
「内定だ」
「二つともですか」
「二つともだ」
廊下の四人が、同時に息を吸った。
吸って、そのうち一人が、両手で自分の顔を押さえた。押さえたまま、しゃがんだ。
しゃがんだ人のところへ、別の一人が寄っていって、肩を叩いた。叩いたほうも、目のあたりが濡れていた。
俺は壁際に寄って、通れるようにした。
通る人はいなかった。四人とも動かなかったので、廊下はしばらくそのままだった。
◇
四階の会議室1のドアが開いていた。
中で、大人が七人か八人、机の同じ一辺に集まって立っていた。全員が同じ紙を覗き込んでいる。覗き込みながら、誰も座っていない。
俺が通ったのに、誰も気づかなかった。
気づかれないほうが、歩きやすい。
階段を下りる途中で、上から声が降ってきた。声の中身はわからない。わかったのは、笑い声が二つ混ざっていたことだけだ。
二階まで下りたら、それも聞こえなくなった。
◇
三階の階段のところで、社長とすれ違った。
社長は上着を着ていなかった。手に湯呑みを持っていて、中身がこぼれそうになっている。
「高町、大晦日は空けとけ」
「空いてます」
「そうか」
社長は三段上がって、そこで止まった。
止まって、こっちを振り返らないで言った。
「うちからドームに出るのは、十四年ぶりだ」
「そうですか」
「十四年前は、俺がまだ現場に出ていた」
社長は湯呑みを持ち直して、そのまま上がっていった。
判断が五秒で終わる人である。
五秒で決めた人が、階段の途中で三段ぶん止まるのは、めずらしい。
◇
二階の廊下で、ケイが待っていた。
待っていたというより、自販機の前に立っていた。手には何も持っていない。
「聞いたで」
「早いな」
「事務所、下から上まで全部その話やもん。俺、レッスン室でストレッチしとっただけやのに、三人来た」
ケイは自販機のボタンを押した。押したが、金を入れていなかった。
「押しても出ないぞ」
「知っとるわ」
ケイは財布を出して、金を入れて、もう一度押した。
出てきたのを取って、俺に渡してきた。
微糖だった。
「ひな壇、やるんやろ」
「やる」
「お前、ひな壇で何すんの」
「知らん」
「知らんのかい」
ケイは自分のぶんを買わなかった。買わないで、二歩歩いて、戻ってきた。
「なあ、高町」
「なんだ」
「ひな壇って、あれやろ。段になってるとこに、芸人がずらっと座ってるやつ」
「そうらしい」
「あそこ、地獄やで」
「地獄か」
「面白いこと言えん人間から順番に、カメラが来んようになんねん。三回目には、もう映らへん」
ケイは自販機の横の壁に、背中をつけた。
「でも、お前は映るやろな」
「なぜだ」
「知らん。なんとなく」
ケイは壁から離れて、そのまま廊下を歩いていった。
歩きながら、片手を上げた。
◇
有本さんが、階段の下で待っていた。
タブレットを持っていて、画面をこっちへ向けた。
「今日、朝から十九本です」
「はい」
「折り返しは、明日にまとめます」
有本さんは画面を戻した。
「あと、お母さまから事務所に電話がありました」
「うちの母がですか」
「はい。近所の方が家の前まで来ているので、しばらく帰りは裏からにしてほしい、と」
「裏から」
「そう言われました。わたしは、そのままお伝えするだけです」
有本さんはタブレットを鞄に入れた。
「お母さまは、そのあとも、しばらく話していかれました」
「電話でですか」
「はい」
「何の話ですか」
「わたしは、内容までは書いていません」
有本さんは、そこで一度だけ、口の端を動かした。
家の前の道は、車一台ぶんの幅しかない。
そこに人が来ているらしい。
◇
外は、まだ降っていた。
俺は傘立てのところで、自分のやつを探した。八本のうち、どれが自分のかがわからない。
全部、黒だった。
柄のところに、赤い糸が巻いてあるのが一本あった。それが俺のやつだ。妹が去年、勝手に巻いた。
◇
乗った車両に、人は片側で四人だった。
月曜の昼過ぎで、雨で、夏休みだ。座れる席が両側に並んでいた。
俺は座らないで、ドアの横に立った。
三つ目の駅で、前の席に座っていた人が立ち上がって、降りていった。降りぎわに、俺の顔を見た。
見たが、何も言わなかった。
その隣に座っていた人も、こっちを見た。年は、母さんと同じくらいに見えた。
その人は、隣の人の肘を二回つついた。つつかれたほうは寝ていて、起きなかった。
◇
桜坂で降りた。
階段は二十七段ある。上から九段目は、雨の日に滑る。今日は雨だ。
俺は九段目を踏まないで下りた。
下りきったところで、傘を開いた。開いた傘に、屋根から落ちてきた水がまとめて当たって、大きい音が鳴った。
◇
俺は傘を畳んだ。
家の玄関の前で畳んで、二回振って、水を落とした。二回では落ちきらなかったので、もう二回振った。
畳んだ傘のとめ具は、去年から片方が外れている。外れているほうを内側にして巻くと、いちおう留まる。
道には、誰もいなかった。裏から帰る必要は無かった。
向かいの家の門のところに、傘が一本立てかけてあった。それだけである。
玄関を開けたら、妹が立っていた。
立っていて、両手に携帯を持っている。画面はこっちへ向いていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「これ、なに」
画面に、番組の名前が出ていた。まだ発表されていないはずのやつだ。
「どこで見た」
「クラスの子が送ってきた。三人から来た」
妹は画面を消して、そのまま俺の顔を見た。
「兄ちゃん、笑うの?」
妹の手は、携帯を持ったまま下がっていた。画面はもう消えている。
玄関のタイルに、俺の傘から落ちた水が三滴、並んで残っていた。三滴とも同じくらいの大きさで、いちばん端のやつだけが、タイルの目地のところまで届いて細く伸びていた。
俺は靴を脱いだ。
妹は、聞いてから自分で気づいたらしい。口を閉じた。
閉じてから、もう一度開けた。
「……ごめん。でも、それでいいんだと思う」
妹は携帯を握ったまま、居間のほうへ歩いていった。
歩いて、途中で振り返った。
「収録、いつ?」
「来週の火曜だ」
「八月五日?」
「そうだ」
妹はうなずいた。
うなずいて、それから、こう言った。
「あたし、その日は絶対に家にいるから」
「収録は局だ」
「知ってる」
「家にいても、何も無いぞ」
「あるの」
なぜ家にいる必要があるのかは、教えてもらえなかった。




