第91話 打ち上げで寝た
店の階段は、十四段あった。
途中に踊り場が無くて、一気に二階まで上がる形になっている。手すりは片側だけで、その手すりが少しべたついていた。
俺は一段ずつ上がった。手すりに手を置いたのは、べたついているのを承知のうえである。
「高町」
「はい」
「二段目で止まったぞ」
犬飼さんが後ろから言った。俺は止まっていない。止まっていないが、たぶん遅い。
「歩けます」
「知ってる」
犬飼さんはそれ以上何も言わないで、俺の後ろを同じ速さで上がってきた。
◇
二階は一部屋しか無かった。
丸いテーブルが三つ。真ん中が回るやつである。回る台のふちにはガラスの継ぎ目が三本あって、回すたびに、その継ぎ目が同じところで一度だけ引っかかった。
人が二十人以上いた。局の人と、番組のスタッフと、事務所の人と、レコード会社の人が混ざっている。
誰がどの会社の人なのかは、名札が無いのでわからない。
わからないので、俺は全員に頭を下げた。
下げたら、全員が下げ返してきた。二十回ぶん下げたので、途中から首の後ろが痛くなった。
◇
席は、いちばん奥だった。
奥の壁を背にして、右に澪さん、左にケイが座った。ケイは呼ばれていない。呼ばれていないのに、いちばん先に座っていた。
「俺、ここでええんかな」
「知らん」
「マネージャーに聞いたら、座っとけって言われてん」
「じゃあ座っとけ」
「せやろ?」
ケイはおしぼりで顔を拭いた。拭いてから、そのおしぼりを丁寧にたたんで、皿の横に置いた。
置き方だけが妙に丁寧だった。
◇
乾杯があった。
局の偉い人が短く話して、最後に「お疲れさまでした」と言った。そのあとに、部屋の全員が同じ言葉を言った。
俺も言った。
言ったあとで、目の前に大皿が回ってきた。
◇
最初に来たのは、皮が赤いやつだった。
俺は三つ取った。
次に来たのは、丸いのが並んでいるやつだった。二つ取った。
その次が、細長いのが山になっているやつで、これは箸で持ち上げると崩れる。崩れたので、二回に分けて取った。
「あんた、それ何」
「わからん」
「わからないのに取ったの」
「回ってきた」
澪さんは自分の取り皿に、丸いのを一つだけ載せていた。
載せて、まだ食べていなかった。
テーブルは、四十秒に一周くらいの速さで回っていた。回すのは誰か決まっていない。誰かが自分の欲しいものを取るために回して、そのぶんだけ全員の前の皿が入れ替わる。
入れ替わるたびに、俺の前には別の皿が来る。
来た皿から、俺は取った。
「あんた、全部の皿から取ってるでしょう」
「回ってくるので」
「回ってこなかったら取らないの」
「取れません」
「そういう問題じゃないのよ」
ケイが横から手を伸ばして、細長いのを二本取った。
「こいつ、家でもこうなんですか」
「知らん」
「妹さんに聞いたら教えてくれるやろか」
「やめとけ」
◇
妹が、テーブルの向こうから回ってきた。
双眼鏡はもう首から外れていて、鞄に入っている。鞄の口から、レンズのところだけが出ていた。ストラップの端は鞄の外に垂れたままで、歩くたびに、それが鞄の横で振り子みたいに動いていた。
妹は俺の後ろを通って、澪さんの椅子の横で止まった。
止まって、両手を体の前で組んだ。
「わたし、高町ひなたです。兄の妹です」
言い方が、家で聞いたことのない言い方だった。
「知ってる」
「知ってるんですか」
「顔は知ってる。事務所の人が、写真を見せてくるから」
妹は一度、俺のほうを見た。
俺は何も言わなかった。言うことが無かったし、口の中に細長いのが入っていた。
◇
妹はまた澪さんのほうを向いた。
向いて、そこで少し止まって、それから言った。
「澪さん、二階の右のほうから見てました」
「見えた?」
「見えました。二番のところで、こっちを向いたのも見えました」
澪さんは、取り皿の上の丸いのを箸で二つに割った。
割ってから、片方だけ食べた。
「双眼鏡」
「はい」
「双眼鏡、次も持ってきなさいよ」
妹は返事をしなかった。
返事の代わりに、二回うなずいた。
うなずいてから、鞄の口を押さえた。押さえたのは、たぶんレンズが出ていることに気づいたからだ。
「あの、澪さん」
「なに」
「兄のこと、あんまり真面目に受け取らないでください。家だと、しゃべる内容の九割が飯の話です」
「知ってる」
「知ってるんですか」
「さっきから、皿が来るたびに取ってるでしょう」
妹は俺のほうを見た。
俺の取り皿には、皮の赤いのと、丸いのと、細長いのが載っている。載っているものの種類は、たぶん七つある。
◇
妹はそのあと、澪さんの隣に椅子を持ってきて、そこに座った。
椅子を運んだのは妹自身だ。誰も頼んでいない。
二人は、そこから三十分くらい喋っていた。
俺のところまで聞こえてきたのは、髪の結び方の話と、高校の食堂の話と、電車の乗り換えの話だった。
途中で、妹が一度だけ大きい声で笑った。笑ったら、隣のテーブルの人が三人こっちを見た。
妹は口を押さえて、澪さんのほうへ体を寄せて、そこから小さい声になった。
台帳の話は出なかった。
◇
美咲は、部屋の入口の近くに座っていた。
入口の近くは、人が出入りするたびに椅子の背が押される。美咲は、そこを選んで座る人である。
途中で一度、俺のところへ来た。
来て、コップに水を注いで、置いて、戻っていった。
注いだのは俺のぶんだけではなかった。ケイのぶんと、澪さんのぶんも注いでいた。
「藤堂さん、こういうの、慣れてるん?」
ケイが聞いた。
「慣れてない」
「めっちゃ手ぇ動いてるやん」
「動かしてるだけ」
美咲は水差しを置いて、入口の近くの席に戻っていった。
戻る途中で、床に落ちていた誰かの上着を拾って、椅子の背にかけていた。
◇
ケイは、二十人ぶんの相手をしていた。
局の人に呼ばれると立って、行って、喋って、笑わせて、戻ってくる。戻ってきて、水を飲んで、また呼ばれる。
三往復目で、ケイは俺の耳のところで言った。
「お前、なんもせんでええぞ」
「してない」
「知ってる。だから言うてんねん」
ケイはそのまま四往復目に行った。
◇
途中で、都築ハルカさんが二階に上がってきた。
上がってきて、いちばん近いテーブルの人と一言喋って、それからこっちへ来た。
来て、俺の前の椅子の背に手をかけた。座らなかった。
「高町くん、わたし、今日、生放送で名前を見失ったの」
「はい」
「はい、じゃないのよ。あれ、ぜんぶ手元に書いてあるの。書いてあるものを読むだけの仕事なの」
「はい」
「読むだけの仕事の人間が、紙を三回めくったの」
都築さんはそこで一度、笑った。
「明日、うちのスタッフから謝りの電話が行くと思う。あれ、ぜんぶわたしのミスだから」
「謝られることは何も無いです」
「あるのよ」
都築さんは椅子の背から手を離して、別のテーブルへ行った。
行く途中で、一度だけ振り返った。
◇
傍から見ると、打ち上げの奥の席で腕を組んで目を閉じている、落ち着いた男だった。
◇
目を閉じたのは、まばたきのつもりだった。
まばたきのつもりで閉じて、そのあと開ける段になって、上のまぶたが下りたままになった。
部屋の音は聞こえていた。
箸が皿に当たる音と、誰かの笑い声と、回るテーブルが引っかかる音。全部聞こえていて、全部が少しずつ遠かった。
背中は壁についている。
壁は、店の壁なので固い。固いが、頭を預けても痛くはならなかった。
◇
誰かが俺の名前を呼んだ。
呼ばれたことはわかった。わかったが、返事は口から出なかった。
箸を持っていた手が、いつのまにか膝の上にあった。箸は皿の上に戻っている。戻した記憶は無い。
部屋の音が、一枚ずつ減っていった。
最後に残ったのは、回るテーブルが引っかかる音だった。
それも、途中で聞こえなくなった。
◇
次に見えたのは、天井だった。
天井ではなかった。天井の照明のかさで、そこに小さい虫が一匹止まっていた。
顔を戻した。
目の前に、ケイの顔があった。近い。
「おい。おい、生きとるか」
「生きてる」
「生きとるやん!」
ケイは体を起こして、部屋のほうを向いた。
「生きてました!」
部屋の何人かが笑った。何人かは笑わなかった。
笑わなかったほうの人たちは、俺の顔を見て、それからすぐ目を逸らした。
◇
澪さんが、俺の横に立っていた。
立っていて、手を出していなかった。ただ、そこにいた。
その手が、テーブルの上の照明の下にあった。
指の関節が太い。第二関節のところに、今日は絆創膏が一枚貼ってあった。貼り方が斜めで、端が浮いている。
「あなた、自分が寝てたの、わかってる?」
「わかりません」
「寝てたのよ」
「そうですか」
「その顔のまま寝てたの。腕を組んで、背中を壁につけて、目だけ閉じて。誰も起こせなかったのよ」
「起こしてよかったです」
「起こせなかったの。局の人が、あれは考えごとをしてるんだって言い張るから」
澪さんは絆創膏の端を、親指で押さえ直した。
「途中で、写真を撮ろうとした人がいたの。それは止めた」
「止めたんですか」
「私が止めたんじゃない。鴻上くんが先に立った」
顔は動かない。
寝ているあいだも、たぶん動いていない。
◇
犬飼さんが、上着を持って立っていた。
「帰るぞ」
「はい」
「ひなたちゃんと、藤堂さんも乗せる」
有本さんが階段の下で待っていた。
俺は十四段を下りた。下りるときに、手すりを使った。
◇
車の中では、寝なかった。
寝ようとしたが、目が開いたままになった。窓の外に、閉まったシャッターが順番に流れていった。シャッターは全部同じ色をしている。
妹と美咲は後ろで喋っていた。
喋っている内容は、半分くらいしか耳に入らなかった。入ってきたのは、明日の朝に何時に起きるかという話と、双眼鏡の値段の話だった。
双眼鏡は、去年の誕生日に父さんが買ったやつだった。
値段の話になったところで、美咲が「それ、鳥を見るやつでしょう」と言った。妹が「鳥は見てない」と言った。
鳥の話は、そこで終わった。
◇
信号で止まったとき、犬飼さんが助手席から振り返った。
振り返って、俺の顔を三秒くらい見た。
「月曜、事務所に来い」
「はい」
「昼でいい。学校は休みだろう」
「休みです」
「話が二つある」
犬飼さんは前に向き直った。向き直って、それきり何も言わなかった。
二つの話のどちらも、内容は教えてもらえなかった。車は青に変わって、また走りだした。
◇
二十三時ちょうどに、家に着いた。
玄関の電気がついていた。母さんが起きていた。父さんも起きていた。父さんが二十三時に起きているのは、めずらしい。
「おかえり」
「ただいま」
俺は靴を脱いで、上がって、居間の床に座った。
母さんが台所からお茶を持ってきて、俺の前に置いた。
「今日ね、朝からずっとその話だったの。レジの人も、事務の人も、工場のほうの人まで来たのよ」
「そうか」
「あなたのお母さんですかって、三回も聞かれたわ」
母さんは、そのあと何も言わなかった。
言わないで、台所に戻って、皿を一枚洗った。一枚だけ洗って、また戻ってきた。
◇
父さんは、新聞を持っていた。
二十三時に新聞を読む人ではない。読んでいるふりだけをしていた。ページは一度もめくられなかった。
「見たぞ」
新聞の向こうから、そう聞こえた。
「そうか」
「会社の若いのが、録画を持ってきた」
それだけだった。
父さんは新聞をたたんで、椅子の背にかけて、風呂のほうへ歩いていった。
◇
俺は居間の床に座ったままでいた。
妹が、テーブルの向こうで台帳を開いていた。開いて、今日の日付のところに定規を当てて、そのまま持っていた。
鉛筆は、まだ紙に触れていなかった。
時計の針が動いた。
俺は何も喋らなかった。喋らなかったのではなく、喋る用事が来なかった。
母さんが二回、何か聞いた。俺は二回とも、短く答えた。
一回目は明日の予定の話で、二回目は洗濯物の話だった。どちらも、はい、で済んだ。
テーブルの上に、消しゴムのかすが三つ残っていた。三つとも同じくらいの大きさで、同じ方向を向いていた。
俺はそれを、しばらく見ていた。
手のひらの痺れは、家に着いた時点で残っていた。残っていたが、痛くはない。
風呂には入らなかった。入る順番は回ってきたが、立ち上がる用事のほうが先に無くなった。
◇
零時になった。
台所の電気が消えた。母さんは自分の部屋へ行った。
妹はまだテーブルの向こうにいた。
俺は、湯呑みの底に残っていたお茶を飲んだ。冷めていた。冷めた茶の味は、温かいときと同じ味だった。
「明日の朝、パンあるか」
俺は言った。
妹が顔を上げた。
「あるよ」
「じゃあ、食う」
「食えば」
妹は鉛筆を持ち直して、台帳に数字を書いた。
「七十四分」
「そうか」
妹は定規を筆箱に戻して、台帳を閉じた。
閉じて、それを自分の膝の上に置いた。
◇
妹が毛布をかけた。
いつのまにか、俺は床に横になっていた。横になった記憶が無いので、たぶん座ったまま倒れたのだと思う。
毛布は夏用の薄いやつで、去年から居間のソファの上に置いてある。端のところが一か所ほつれていて、そこだけ糸が長く出ている。
妹はそれを俺の腹のあたりまで引き上げて、そこで手を止めた。
止めて、しばらく動かなかった。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「あたし、明日も見に行っていい?」
毛布の端が、俺の顎の下まで来ていた。妹はそれを、二センチだけ下げた。
「明日も、どっかで歌うんでしょ」
明日は何も無い。
無いはずだが、俺はそれを言わなかった。言う前に、電気が消えた。
消える直前に、テーブルの上に置いてある俺の携帯が、光った。
光って、消えて、また光った。
光ったのは一回ではなかった。




