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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第90話 声が重なる瞬間

 搬入口の前に、白い線で四角が描いてあった。


 その四角の中に、機材の箱が積んであった。箱の側面に番号が書いてあって、いちばん上の箱は二十七番だった。番号は白いテープに書いてあって、二十七番のところだけテープが二枚重なっていて、下の数字が透けている。


 二十七は、桜坂の駅の階段と同じ数だ。


「高町くん、そこ、通らないで」


 台車を押している人が言った。俺は横にどいた。


 どいた先にも線があった。線の中は、たぶんどこかの誰かの場所である。


「そっちも駄目です」

「はい」

「まっすぐ壁沿いに来てください」


 壁沿いに歩いた。壁沿いだけは、誰の場所でもないらしい。


   ◇


 十二時ちょうどに、ホールの中に入った。


 客席は空だった。椅子の背が全部同じ向きに並んでいて、いちばん後ろの列の向こうに、四角い部屋の窓が見える。


 天井が高い。事務所の部屋の、たぶん四つぶんくらいある。


 舞台の床は黒かった。黒い床に、色の違うテープが何本も貼ってある。銀色と、黄色と、蛍光の緑だ。銀色のは端がめくれて下の黒が出ているところが何か所かあって、そこだけ、踏むと靴の底が少し引っかかった。


 緑のテープが二つ、真ん中の少し前に貼ってあった。


「そこが二人の位置です」


 スタッフの人が言った。


「左が高町さん。右が神楽坂さん」

「はい」

「テープの真ん中に、つま先じゃなくて土踏まずを載せてください」


 土踏まずを載せた。


 載せてから、自分の靴を見た。今日おろしたやつだ。甲のところの革が固くて、指を曲げると音が鳴る。


   ◇


 段取りの確認を二回やった。


 一回目は歩くだけだ。袖から出て、テープまで行って、止まって、また戻る。


 二回目は照明が入った。上から白いのが落ちてきて、床の緑のテープが見えなくなった。


「テープが見えません」

「見えなくて大丈夫です。足が覚えてるので」

「覚えてないです」

「じゃあ、袖から数えて七歩です」


 七歩、と俺は覚えた。


   ◇


 都築ハルカさんが、通路のほうから歩いてきた。


 テレビで見るより、背が低かった。手に紙の束を持っていて、その束の角が全部丸くなっている。


「高町くん、今日は三時間あるからね」

「はい」

「長いから、途中で座れるときは座っといて」

「はい」

「あと、うちのスタジオと違って、ここは椅子が少ないの。座れるのは一回だけ」


 都築さんは紙の束をめくって、ページの端を折った。


 折って、また戻した。戻したが、折り目は残っていた。


   ◇


 楽屋は二階だった。


 ドアに紙が貼ってあって、そこに名前が二つ書いてある。俺の名前と、澪さんの名前だ。


 中に入ったら、鏡が二つと、椅子が二つと、長机が一つあった。机の上に、弁当が二つ置いてある。


 俺は座って、弁当の輪ゴムを外した。


「まだ十三時だぞ」


 犬飼さんが後ろから言った。


   ◇


 六月に入ってから、犬飼さんは歌のほうの現場に出てこなかった。自分の畑ではないと言って、事務所にいた。


 今日は上着を着ていて、手に封筒を持っている。角が少し折れていた。


「食うのか」

「食います」

「本番は二十時台だ」

「そのころ、また食います」

「二回食うのか」

「一回では足りません」


 犬飼さんは椅子を引いて、そこに座った。座って、胃薬の箱を出して、口に入れた。水で流し込むことはしなかった。


「高町」

「はい」

「今日は、俺は何もしない」

「はい」

「見に来ただけだ」


 犬飼さんは封筒を机の端に置いた。置いてから、指でその角を伸ばした。


 伸ばしても、折れたところは戻らなかった。


   ◇


 有本さんが入ってきた。


 入ってきて、タブレットを一度触って、それから犬飼さんのほうを見た。


「昨日から、十一本です」

「そうか」

「今日のぶんは、まだ数えていません」


 犬飼さんは椅子から立ち上がった。


「今日は数えなくていい」

「はい」

「今日ぶんは、明日まとめて聞く」


 有本さんはタブレットを閉じた。閉じてから、机の上の弁当を見た。


 俺の弁当は、もう半分無い。


   ◇


 携帯が二回震えた。


 一回目は母さんからだった。


 〈今日、会社の人がみんな見るって〉


 母さんの職場の人が何人いるのかを、俺は知らない。知らないので、返事は〈わかった〉にした。


 二回目は妹からだった。


 〈チケット、二階の右のほう。あたし、双眼鏡持ってきた〉


 双眼鏡の話は初めて聞いた。


   ◇


 十四時に、澪さんが楽屋に入ってきた。


 入ってきて、自分の椅子に鞄を置いて、机の上の弁当を見て、そのまま座らなかった。


「食べないんですか」

「あとで」

「あとって、いつですか」

「終わってから」


 澪さんは鏡の前に立って、髪をほどいて、また結び直した。今度は一回で結べていた。


「あなた、もう食べたの」

「半分食べました」

「残り半分は」

「本番の前に食べます」

「食べるんだ」

「食べないと、途中で腹が鳴ります」


 澪さんは鏡の中の俺を見た。


 目が合って、先に外れたのは澪さんのほうだった。


   ◇


 十八時に、本番が始まった。


 楽屋のモニターに、客席と舞台が映っている。音は小さい。小さいので、廊下を人が走る音のほうが大きい。


 俺は椅子に座って、それを見ていた。


 出番までのあいだに、七組が歌った。七組のうち、二組は俺の知っている歌だった。


 妹が家で流しているやつである。


   ◇


 二十時十分に、廊下へ出た。


 澪さんが先に立っていた。


 衣装は黒だった。俺のも黒で、二人とも黒なので、廊下の壁の白さが余計に目に入った。


 澪さんは壁に手をついて、片方の足首を回していた。回して、もう片方も回した。


 手をついているほうの手が、非常灯の下に出ていた。


 人差し指と中指の付け根の、硬いところ。今日は白い粉のようなものが付いていた。滑り止めか何かだと思う。付け根の皮は、光の下だと余計に厚く見えた。


「靴、それ?」

「今日おろしました」

「滑るわよ」

「はい」

「袖で一回、床をこすっておいて」


 俺は袖で床をこすった。


 こすったら、少し音が鳴った。


   ◇


 廊下の突き当たりに、モニターがもう一台あった。


 画面の中で、誰かが歌っている。音は出ていない。口だけが動いていて、その後ろで客席の光が青く変わった。


「あなた、今、何を考えてるの」


 澪さんが言った。


「弁当の残りを、どこに置いたかを考えていました」

「弁当」

「机の上です。輪ゴムはかけました」

「……そう」


 澪さんは足首を回すのをやめて、壁から手を離した。


「私ね、こういうとき、いつも同じこと考えるの。今からでも熱を出せないかな、って。本当に。七年ずっと、袖でそれを考えてるの」

「熱ですか」

「熱。三十八度くらいの、都合のいいやつ」

「出たことはありますか」

「一回もない」


 澪さんは、そこで一度、下を向いた。


「今日は、それを考えてないの。さっきから一回も」


 俺は返事をしなかった。


 返事の代わりに、腹が鳴った。


 澪さんは俺の腹のあたりを見て、それから前を向いた。


「……行きましょう」


   ◇


 袖に入った。


 袖は暗い。暗いところに、黒い服の人が七人か八人いる。全員、手元の小さい明かりだけを見ていた。明かりは全部同じ色で、その届く範囲だけ、床に寝かせたケーブルの束と、壁に貼ってある紙の端までが見えていた。


 舞台のほうは明るい。明るいところと暗いところの境目が、床にまっすぐ引いてある。


 その線の手前に、緑の紙テープで印が付いていた。ここが袖から七歩の起点らしい。


 フロアディレクターの人が、指を三本立てた。


 立てて、二本にした。


   ◇


 背中が、下から引かれるみたいにまっすぐになった。


 なったのが先だった。俺がやったのではない。


 息が下まで入った。入るときに、腹の横が動いた。動いた場所は、へその横から少し上のあたりである。


 隣で、息を吸う音がした。


 澪さんの息だった。俺の息より先に、そっちが聞こえた。


   ◇


 ホールの音が遠のく。輪郭がはっきりする。背筋が伸びる。


   ◇


 伸びた背中の、シャツの裾がズボンから出ていないか。


 俺はそれを本気で心配した。


 確かめる時間は無かった。足のほうが先に動いていた。


   ◇


 七歩で止まった。


 止まった場所に、床の緑があるはずだった。光の下では見えない。見えないが、足の裏の下に、テープの厚みが一枚ぶんあった。


 顔を上げた。


 客席は、真っ黒だった。


 黒いのに、そこに人がいることは、音でわかる。息の音でも、咳でもない。もっと低いところで、空気そのものが動いている。目が慣れてくると、いちばん前の列のところだけ、椅子の背の形が黒の中に薄く浮いて見えた。


 いちばん後ろの列の向こうの、四角い窓の中で、人が二人立っていた。


   ◇


 一行目に入った。


   ◇


 傍から見ると、袖から数えて七歩の位置にまっすぐ入って、そこで一度も足を直さずに一行目を置いた歌い手だった。顔は、正面より少しだけ上を向いている。


   ◇


 二行目は澪さんだった。


 澪さんの声は、俺の声より前に出る。前に出て、客席の上のほうまで届いてから、落ちてくる。


 三行目から重なった。


 一か所目のハモが来た。


 俺は音を下に置いた。置いたところから、動かさなかった。


 澪さんの音が上へ行った。行っても、体はついていかなかった。


 二つのままだった。


   ◇


 一番が終わった。


 終わったところで、客席の低い音が一段だけ大きくなった。


 大きくなって、すぐ引いた。


 引いたあとの静かさが、始まる前の静かさとは別の種類だった。


   ◇


 二番の頭。


 澪さんが半歩前に出た。出て、そこで体の向きを変えた。


 客席のほうではなく、俺のほうを向いた。


 俺は前を見ていた。約束したので、そっちは見なかった。


 見なかったが、わかった。人の顔がこっちを向いたことは、光の当たり方でわかる。


 澪さんの声が、俺の右の耳のほうから来た。


   ◇


 二か所目。三か所目。


 三か所目で、澪さんの息が一度だけ長くなった。長くなったところで、声が細くなった。


 細くなったが、落ちなかった。


 俺は自分の音を、下に置いたままにしておいた。


 置いておくと、上の音が戻ってくるまでの時間が、そのまま待ち時間になる。


 戻ってきた。


   ◇


 声が、重なった。


 最後の四行の頭である。四か所目だ。


 二つの音が、同じところで鳴って、そこから離れていった。離れていっても、二つとも消えなかった。


 俺の声は下にある。澪さんの声は上にある。あいだに何も無い。


 ホールの空気が、その二つのぶんだけ、押されて動いた。


   ◇


 最後の四行に入った。俺は声を小さくしていった。


 小さくすると、下の音のほうが先に消える。消える手前で、俺は息を足した。


 足したぶんだけ、最後の一行が長く残った。


 澪さんの声は、俺の声が消えるまで、上で鳴っていた。


 鳴っていて、俺のが消えたところで、一緒に切れた。


   ◇


 何も鳴らなかった。


 照明が落ちる音もしなかった。客席の低い音も、一度、完全に消えた。


 消えている時間が、思ったより長かった。


   ◇


 そのあとで、来た。


 音は、後ろのほうから前へ流れてきた。いちばん後ろの列から、順番に、こっちへ寄ってくる形だった。


 寄ってきた音が、床から足の裏に伝わった。


   ◇


 都築さんが、上手のほうから出てきた。


 出てきて、口を開けて、何も言わないで、また閉じた。


 閉じてから、手元の紙を見た。紙を見て、めくって、それから客席のほうを向いた。


 二秒くらい、そのままだった。


 それから、紙を持っていないほうの手を、一度だけ胸のところに当てた。


「……すみません。わたし、今、次に読む名前を見失いました」


 都築さんは紙をもう一度めくった。


「もう一度、探します。少しだけ待ってください」


 客席から、笑いと、それとは別の音が同時に来た。


   ◇


 澪さんは、まだ緑のテープの上にいた。


 俺のほうを向いたままだった。向いたまま、口を閉じて、そこから動かなかった。


 照明が落ちる直前に、澪さんは一度だけ、自分の右手を左手で握った。


 握った手は、そのまま下ろされた。


   ◇


 袖に戻った。


 戻るときの七歩は、行きの七歩より遠かった。


 線を越えて暗いところに入ったら、黒い服の人が四人、道を空けた。


 空けた先に、犬飼さんが立っていた。


 立っていて、何も言わなかった。言わないで、俺の腕を取った。


 取ったところで、膝の裏が抜けた。


   ◇


 通路の壁に、パイプ椅子が一つ出してあった。


 誰が出したのかはわからない。座れるのは一回だけだと、昼に聞いていた。座面には油性の字で番号が書いてあって、その番号の上に、別の番号が線を引かずに重ねて書いてあった。


 俺はそこに座った。


「歩けます」

「歩いてみせろ」


 俺は立たなかった。


「……あとで歩きます」

「そうしろ」


 犬飼さんは俺の前に立って、通路のほうを向いた。背中しか見えなくなった。


 背中の向こうから、人の足音が近づいてきた。


 足音は二つあって、一つは走っていた。


「高町! お前、今の、なんやねん!」


 ケイの声だった。


 犬飼さんの背中が半分ずれて、そこからケイの顔が出た。汗をかいている。今日は仕事ではないはずなのに、前髪がおでこに貼りついていた。


 ケイの後ろに、妹がいた。


 首から双眼鏡を下げたまま、通路の途中で止まっていた。そこから先へは来ないで、壁のほうに背中をつけている。


「兄ちゃん」

「なんだ」

「二階の右から、全部見えた」


 妹は双眼鏡を両手で握った。


 握ったまま、しばらく何も言わなかった。


 ケイが俺の肩を叩こうとして、犬飼さんに手首を掴まれて止められた。


「今日は駄目だ」

「なんでですか」

「倒れる」

「倒れるんですか、こいつ」


 誰も答えなかった。


 答えないまま、通路の向こうから、次の曲の音が壁を通して届いてきた。


 犬飼さんが有本さんのほうを向いた。


「打ち上げは」

「二十一時半からです。駅の向こうの中華の店で、局の方が二十人くらい入ります」

「こいつは連れていくな」

「はい」


 連れていかない、という話が、俺の頭の上で進んでいた。


「行きます」


 言ったのは俺だった。


 全員がこっちを見た。妹が双眼鏡を落としかけて、首の紐で止まった。


 打ち上げには、飯が出る。


 俺の弁当の残り半分は、楽屋の机の上にある。あれは、たぶん、もう回収される。

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