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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第89話 私が見ててあげる

 マイクスタンドが二本、部屋の真ん中に立っていた。


 昨日までは無かったやつだ。倉庫から出してきたらしく、脚のところに埃が残っている。鷲尾さんが片方の高さを回して直していた。埃は拭いた跡が縞になって残っていて、拭ききれなかったぶんが、脚の継ぎ目の溝に細く溜まっていた。


「本番、これに立ちます」

「はい」

「君のほうが高いので、先に合わせます」


 鷲尾さんは俺の顎の下あたりに手を当てて、そこにマイクの頭が来るように回した。回して、二度、上げ下げした。


 高さが決まったところで、鷲尾さんは一歩下がって、二本を見比べた。


「十四センチ違います」

「そうですか」

「本番は当日に合わせ直しますが、覚えておいてください」


 覚えておくのは俺ではなくて、たぶん現場の人だと思う。


   ◇


 十七時から二十時まで、四か所のハモをやった。


 一か所目と二か所目は通った。三か所目は、二回に一回通った。四か所目は、通らなかった。


 通らないたびに、澪さんは同じことを言った。


「下から置いて。置いたら動かさないで」


 言われたとおりにした。したが、澪さんの音が上へ行くと、体のほうが勝手についていった。


 鷲尾さんは、途中から何も言わなくなった。


 言わないで、譜面に印を付けていた。付ける音が、五秒に一回くらい鳴っていた。


   ◇


 十九時に、三分だけ止まった。


 俺は壁際に置いた鞄のところへ行って、水を飲んだ。飲みながら、マイクスタンドの高さのことを考えた。


 二本のスタンドは、支柱の目盛りが違うところで止まっていた。俺のほうの印が、上にあった。


 二人とも立って歌う。だから差が出るのは、身長のところだ。俺は百八十二で、そこから十四を引くと百六十八だった。


 百六十八は、澪さんにしては高い気がする。


 高い気がするので、たぶん靴の底のぶんが入っている。入っているとしたら、本番の靴で測り直さないと合わない。


 合わないなら、今日決めた高さは何だったのか。


「高町くん、顔が止まってます」


 鷲尾さんが言った。


「止まってます」

「止まりすぎです」


   ◇


 澪さんは休憩のあいだ、鏡の前から動かなかった。


 水も飲まなかった。膝を軽く曲げて、体の向きだけを何度か変えていた。変えるたびに、鏡の中の人数が変わる。真ん中の鏡には全身が入るが、左右の鏡は角度のぶんだけ体が細く映って、腕の長さだけが実際より長く見えた。


   ◇


 二十時ちょうどに、鷲尾さんが立ち上がった。


「僕、明日の朝が早いので」

「はい」

「二十五日、当日は昼から入ります。ホールの音は、ここの音とは別物なので、心の準備だけしておいてください」


 鷲尾さんは鞄を持って、ドアのほうへ歩いた。


 歩いて、途中で止まって、澪さんのほうを向いた。


「神楽坂さん、あんまり詰めないでくださいね」

「詰めてません」

「詰めてます」


 鷲尾さんは三枚目の板を踏んで出ていった。


「ぎ」


   ◇


 有本さんが、廊下から顔だけ出した。


「二十一時に下にいます」

「はい」

「二十一時十分までなら待てます」


 顔が引っ込んで、ドアが閉まった。


 部屋には、俺と澪さんと、マイクスタンドが二本残った。


   ◇


 澪さんは壁際の椅子に座った。


 座って、鞄からタオルを出して、膝の上に置いた。それから携帯を出して、画面を伏せて、床に置いた。


 水のボトルも、いつものところに置いた。


「一つだけやってもらう、って言ったでしょう」

「言いました」

「これから、私は何も言わない」

「はい」

「一回、頭から最後まで通して。途中で止めても、私は何も言わないから」

「直すところは、あとで言うんですか」

「言わない」

「言わないんですか」

「今日は一つも言わない。私、昨日の夜、そう決めたの」


 澪さんはタオルの端を膝の上で二回折った。折って、また開いた。


「言われたとおりにやる人に、言い続けたら、その人は言われたとおりのものにしかならないでしょう」

「はい」

「わかってないでしょう」

「わかってません」

「わかってなくていいの。私も、昨日までわかってなかったから」


 俺は譜面台の前に立った。


 立ってから、聞いた。


「澪さんは、歌わないんですか」

「歌わない」

「二人ぶんに直した曲です」

「知ってる。今日は一人でやって」


   ◇


 スピーカーの前に行こうとしたら、止められた。


「音も無し」

「無しですか」

「無し。あなたの声だけ」


 伴奏が無いと、どこから入ればいいのかがわからない。


 わからないので、俺はそう言った。


「頭の中で数えて」

「四つですか」

「四つ」


   ◇


 澪さんは椅子を、鏡の正面まで引きずってきた。


 引きずった音が、床の上を長く鳴った。脚のゴムが一つだけ外れているらしく、四本のうち一本のところだけ、音の高さが違っていた。


 置いた場所は、譜面台から三歩のところである。近い。


 澪さんは座って、膝の上で手を組んだ。組んで、こっちを見た。


 それから、動かなくなった。


   ◇


 天井のほうから声が降ってきた。


「あんた、鞄の口が開いてるわよ」


 鞄は壁際に置いてある。口が開いていて、中の紙が半分外に出ていた。


(あとで閉める)


「あの子、瞬きしてないわよ」


(数えてない)


「わたしが数えてるの。三十秒で一回」


 人形が数えているぶんには、たぶん問題は無い。


「あんた、行きなさいよ。あの子、待ってるわよ」


   ◇


 俺は頭の中で四つ数えた。


 速さがわからなかったので、譜面台の紙の、行の長さから決めた。行が長いところは速く、短いところは遅い。たぶん逆だが、そう決めた。


 一つ目。二つ目。三つ目。四つ目。


 口を開けた。


 最初の行が、狭い部屋の壁で跳ね返って、出したのとほとんど同じ速さで戻ってきた。


   ◇


 部屋の音が遠のいた。


   ◇


 三歩先の椅子の脚が、床の木目の一本にちょうど載っていた。


 行が一つ進んだところで、椅子の上の膝が、組んだ手の下で一度だけ内側に寄った。


 輪郭がはっきりした。


 鏡の枠の角が、四つとも見えていた。澪さんの膝の上で組んだ指が、右の親指だけ上に出ている。それも見えた。


 次の行の頭で、澪さんの肩が、息を吸う形に上がった。上がって、そのまま止まった。


 背筋が伸びた。


   ◇


 伸びた拍子に、腹が鳴った。


 鳴ったのは俺の腹で、音は思ったより大きかった。


 歌の途中だったので、たぶん向こうには聞こえていない。聞こえていたら、それはそれで困る。


   ◇


 四行目。


 伴奏が無いので、自分の声が部屋の壁に当たって返ってくる。返ってくる音は、ヘッドホンの中のやつより遅い。


 遅いぶんだけ、自分の声を後ろから追いかける形になった。


 紙の真ん中に、上がるところがある。そこに入った。


 下から置いて、そこから伸ばした。


 伸ばした先で、椅子が鳴った。


 澪さんが座り直したのだと思う。思ったが、そっちは見なかった。


   ◇


 一番の最後の行を伸ばしきったところで、息が足りなくなった。足りないまま、そこで切った。


 二番は、本当なら澪さんの行から始まる。今日は澪さんが歌わないので、そこは空いたままにした。


 空いたところを、四つ数えて待った。


 待っているあいだ、部屋には何も鳴っていなかった。


 俺の息の音だけがした。


 三つ目のところで、椅子のほうから小さい音がした。息を吸う音だった。


 吸って、そのまま止めていた。


 俺は四つ目まで数えて、二番の二行目から入った。


   ◇


 二番の途中に、三か所目のハモがある。


 今日は上の音が無い。無いので、下の音だけが部屋に残った。


 残った音は、部屋の奥まで行って、鏡に当たって戻ってきた。


 戻ってくるまでに、少し間があった。間のぶんだけ、自分の声が二重に聞こえた。


   ◇


 残りが四行になったところで、俺は声を落としていった。


 落とすと、部屋の中の自分の声が、耳の近くだけで鳴る。


 鳴って、そこで終わった。


   ◇


 澪さんは、椅子から立たなかった。


 立たないで、組んだ手をほどいて、その手を膝の横に置いた。


 置いてから、口を開けた。


「……私、いま」

「はい」

「自分の入るところ、忘れてた」


 澪さんは膝の横の手を、そのまま二回、握って開いた。


「二番の頭。私、今日歌わないって自分で言ったのに、口が動いたの」

「はい」

「動いてから、あ、違う、って思ったの。思ってるあいだに、あなた、四つ数えて待ってたでしょう」

「待ちました」

「待つって、誰が言ったの」

「誰も言ってません」


 澪さんは膝の横の手を、もう一度握った。


 握って、そのまま床のほうを向いた。何も落ちていない場所である。


「私、あそこで入る気だったの。自分でも知らなかったけど、入る気だったのよ」


   ◇


 俺は、立った位置から動かなかった。


 膝が、下から抜けそうになっていた。俺は譜面台の縁に手を置いた。


 澪さんは椅子を立って、こっちへ二歩来た。


 来て、俺の顔を見た。上から下ではなく、顔だけを見た。


 それから、俺の後ろの鏡を見た。


 鏡の中の俺は、俺と同じ顔をしていた。左右の鏡の中の二人も、こっちを見ていない。角度の問題である。


「今の、途中で椅子が鳴ったでしょう」

「鳴りました」

「私が座り直したの。自分では気づかなかった」


 澪さんは、それ以上言わなかった。


   ◇


 聞かないで、マイクスタンドのほうへ歩いていった。


 歩いて、片方の柱に手をかけた。かけた手が、そのまま止まった。


「二十五日ね」

「はい」

「私、カメラのほうを見て歌うつもりだったの。ずっとそうしてきたから」

「はい」

「やめる」


 澪さんは柱から手を離した。


「あなたのほうを見て歌う。二番の頭から最後まで」

「はい」

「あなたは前を見てて。客席のほう。こっちを見なくていい」

「二人で歌う曲です」

「知ってる。それでいいの」


 澪さんはマイクスタンドの柱を、指の背で一度叩いた。金属の音が、短く鳴った。


「合わないのは、あなたが私に合わせようとするからでしょう。私が上に行くと、あなたがついてくる」

「はい」

「なら、私が合わせにいけばいいの。あなたを見ながらやれば、たぶんできる」


 澪さんは自分の胸の下あたりを、指で二回叩いた。二週間前と同じ場所だった。


「私、後輩に合わせにいったこと、一度も無いのよ」

「はい」

「でも、二十五日までにできることが、もう他に無いの」


 俺は、なんと返せばいいのかがわからなかった。


 わからないので、はい、と言った。


「はい、じゃないでしょ」


 澪さんは、少しのあいだ何か言おうとして、やめた。


 やめてから、こう言った。


「……じゃあ、私が見ててあげる」


   ◇


 言ってから、澪さんは自分で笑った。


 口の左のほうが先に上がって、右はそのあとだった。


「変な言い方ね」

「そうですか」

「先輩が後輩に言うことじゃないもの。普通、逆でしょう」

「逆ですか」

「後輩が先輩を見てるものなの。七年、ずっとそうだったの」


 澪さんは水のボトルを取りにいった。取って、こっちへ戻ってきて、俺に差し出した。


 差し出した手が、光の下に出た。


 爪が短い。全部同じ長さに切ってある。切り口が四角い。指の先のほうまで爪が短いので、指先の肉が少し盛り上がっていた。


「飲んで」

「澪さんのです」

「飲んで」


 俺は受け取った。受け取ったが、蓋を回すのに二回かかった。


 一回目は、指が滑った。滑ったのは、ボトルの側面が濡れていたからではない。手のほうが言うことを聞いていなかった。


 二回目で開いた。中身は、半分より少し下まで減っていた。


「全部飲んでいいから」

「はい」

「私、下で買う」


 澪さんはそう言ったが、下へは行かなかった。


   ◇


   ◇


 俺は床に尻をついた。


 座るつもりは無かった。膝が先に下がって、あとから床が来た。


 澪さんが何か言った。何を言ったのかは、耳に入らなかった。


「歩けます」

「歩けって言ってない」


 澪さんは俺の横に立って、そのまま動かなかった。


 しゃがみもしなかったし、手も出さなかった。ただ、立っていた。


 そのあいだに、廊下を人が二回通った。二回目のときに、ドアの下の光が一度切れて、また戻った。


 床は冷たくない。二十畳ぶんの床のうち、俺が座っているところだけ、少しへこんでいる気がした。気がしただけで、手で押しても何も変わらなかった。


 手のひらの、指の付け根のあたりが痺れていた。視界の端のほうが白い。白いのは端だけで、真ん中は普通に見える。


 澪さんは、そのあいだ、一度も携帯を見なかった。


 床に伏せたまま置いてあった携帯は、途中で二回、光った。光っても、澪さんは取らなかった。


   ◇


「あなた、いつもこれなの」

「これとは」

「終わったあと」

「腹が減ります」

「聞いてない」


 腹は減っている。


 澪さんは自分の鞄からゼリー飲料を出した。白いやつだった。


「あげる」

「白ですか」

「白がどうかしたの」

「重いです」

「重いって、なに」

「飲むと、飯が入らなくなります」


 澪さんは白いやつを自分の鞄に戻した。


 戻してから、鞄の口を二回、指で押した。


   ◇


 俺はマイクスタンドを立てた。


 床に座ったときに、片方を膝で倒していたらしい。柱が斜めになって、頭のところが鏡に寄っていた。


 起こして、脚を三本とも開き直して、高さを見た。


 十四センチの差は、そのままだった。


 二本のスタンドは、鏡に映ると四本になる。斜めの鏡のほうでは、二本が重なって、三本に見えた。重なっているところでは、手前の一本の頭が、向こうの一本の柱の途中にちょうど載っているように見えた。


 俺は一歩ずれた。四本に戻った。


 澪さんは鞄を肩にかけて、ドアの前で待っていた。待っているあいだ、床の三枚目のところを、靴の先で二回押していた。


 押しても、鳴らなかった。


「一つだけ、約束して」

「はい」

「本番、私が見てるあいだ、こっちを見ないで。前を見てて」

「はい」

「見たら、たぶん私、歌えなくなるから」


 澪さんは、そこまで言って、手のひらを自分のほうへ向けて振った。


「今のは無し」


 無しになった。


 澪さんはドアを開けて、廊下へ出ていった。


 三枚目が鳴った。


 俺は壁際まで歩いて、鞄の口を閉めた。


 閉める途中で、中から声がした。


「あの子、本番で、あんたの顔を見ながら歌うのよ」


(そう言ってた)


「意味、わかってるの」


(見られるだけだ)


「そうよ。見られるだけよ」


 声は、そこから小さくなった。


 俺は鞄の口を閉めて、肩にかけた。


 かけたところで、中からもう一言だけ聞こえた。


「――あんた、二十五日は、朝からちゃんと食べていきなさい」

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