第88話 聞かないでくれる人
ドアを開けたら、先に座っていた。
俺の椅子の上である。背もたれのところに背中を預けて、脚を組んで、こっちを見ていた。台座は机の上に残っている。
俺は鞄を床に下ろして、後ろ手にドアを閉めた。閉めると、階段の下から上がってくる台所の音が、一枚ぶん遠くなる。
「そこ、俺のだ」
「知ってるわよ」
「どけ」
「今日から夏じゃないの」
人形は椅子の上で腕を組んだ。
「窓、開けなさいよ。この部屋、朝から暑いのよ」
「開いてる」
「開いてないわよ」
俺は窓を見た。開いていた。開いていたが、風は入っていない。カーテンが動いていないので、たぶん外も止まっている。
「網戸だけ閉まってるのよ」
「網戸は閉めるものだ」
「言い方の問題じゃないの。空気が入ってこないでしょう」
空気の話をしているのか、椅子の話をしているのか、途中からわからなくなった。
◇
「あんた、今日、あの子と会うんでしょう」
「会う」
「二週間ぶりね」
「そうだな」
「その二週間で、あんた、何をしたの」
俺は鞄に譜面の紙を入れた。入れてから、机の上の紙をもう一枚取って、それも入れた。
「試験があった」
「試験の話は聞いてないわよ」
「あとは、食って、寝た」
「食って寝ただけの人間が、二週間ぶりに部屋へ入っていくのよ」
「そうだな」
「そうだな、じゃないでしょう」
人形は椅子の背から下りて、机の上の台座に戻った。戻ってから、こっちを向いた。
「向こうは二週間、あんたのために何か考えてたわよ」
「考えてないだろ」
「考えてるわよ。あの子は、二週間まるごと使う人よ」
◇
俺は制服のシャツを着て、下に降りた。
台所で母さんが弁当箱に蓋をしていた。妹はテーブルで、片手にパンを持って、もう片方の手で携帯を見ていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「今日、返ってくるんでしょ」
「何が」
「答案」
妹は携帯から目を離さなかった。
「言わなくていいからね、点数」
「言わん」
「言われても困るし」
「言わん」
「二回言った」
母さんが弁当を俺の鞄の横に置いた。置いてから、台所に戻って、蛇口をひねった。
弁当箱は、蓋が閉まりきっていなかった。母さんは指で二回押して、それから輪ゴムを一本かけた。輪ゴムは、台所の引き出しの中の、輪ゴムだけを入れてある小さい箱から出てくる。今日のは黄色だった。
◇
教室に入ったら、机の上に紙が二枚置いてあった。
置いたのは俺ではない。前の席のやつが、受け取ったぶんを後ろへ順番に流していったやつだ。
一枚目は数学だった。二枚目は現代文だった。
数学のほうを先に見た。赤い数字が、右上に丸で囲んである。
三十一だった。
「高町」
熊沢が後ろから覗き込んだ。
「お前、それ」
「数学だ」
「点数の話をしてんだよ」
「三十一だ」
「言うなよ、そこ堂々と」
熊沢は自分の紙を裏返して、机に伏せた。伏せる速さで、だいたい察しがついた。
「なあ、お前さ」
「なんだ」
「テレビ出てる人間が三十一点って、なんか、逆にすごくない?」
「すごくない」
「いや、俺の中では今、めちゃくちゃ話が繋がったんだよ。歌う人間は勉強しないっていう」
「繋がってない」
熊沢は伏せた紙の角を、指で二回叩いた。
叩いてから、そのまま裏返さずに鞄へ入れた。
◇
二時間目と三時間目のあいだに、廊下へ出た。
自販機は三階の渡り廊下の手前にある。そこまで行くのに、二年の教室の前を通る。
通ったら、教室から二人出てきた。出てきて、壁に寄って、こっちを見ていた。見ているだけで、何も言わない。
自販機で微糖を買って、戻ってきたら、四人になっていた。
四人とも、下級生だった。
廊下は広い。四人が壁に寄っても、まだ二人ぶん空いていた。四人のうち二人はこっちを見ていて、残りの二人は携帯を見ていたが、携帯を見ているほうも、画面には一度も触っていなかった。
教室に戻ったら、熊沢が窓のところに立っていた。
「今の、見えてたぞ」
「何がだ」
「下の階から人が湧いてくるやつ。今週、毎日やってるぞ」
「知らん」
「知らんって、お前のことだぞ」
熊沢は窓の外を見た。外は晴れていて、グラウンドの端で誰かが白い線を引いていた。
「うちの母ちゃん、最近、お前が歌ってるほうしか言わなくなった」
「そうか」
「ドラマの話、一回もしなくなった」
缶を開けた。中身は微糖で、思ったより冷えていた。
◇
宮坂先生が教壇で、赤点の話を三分した。
三分のあいだに、追試の日と、提出物の期限と、夏休みの補習の話が出た。補習は八月の後半で、午前だけらしい。
俺は現代文の紙をめくった。
こっちは四十四だった。数学よりは高い。高いが、線の下であることに変わりはない。
紙の下のほうに、宮坂先生の字で一行あった。
〈設問四、書いたことは合っています〉
合っているのに点が付いていない理由は、書いていなかった。
休み時間に、教壇のところへ紙を持っていった。宮坂先生は出席簿を閉じて、俺の紙の下のところを指で押さえて、こう言った。
「本文の言葉を使いなさい、って書いてあったでしょう。あなたの言葉で正しく書いても、この設問では点が付かないの」
「はい」
「これは、意地悪じゃなくて、そういう決まりなの」
「はい」
先生は紙を返して、出席簿を持って教室を出ていった。
決まりだから点が付かない、というのは、どこかで聞いたことがある話だった。
◇
六時間目の前に、早坂が俺の机の横で止まった。
止まって、何も言わないで、二秒だけ立っていた。
それから、自分の席へ戻っていった。戻る途中で、一度だけ振り返った。
振り返ったが、やはり何も言わなかった。
◇
昼休みに、美咲が来た。
紙を一枚持っていた。追試の申し込み用紙である。名前のところと、科目のところに、もう字が入っていた。
「二科目でいいのね」
「二科目だ」
「日にちは十七日。木曜の放課後」
「はい」
「はい、じゃなくて。その日、仕事は」
俺は考えた。十七日は、たぶん何も無い。
「無いと思う」
「思う、はやめて」
「無い」
「わかった」
美咲は用紙を俺の机に置いて、自分の席に戻っていった。
置かれた紙の、名前の字は俺の字ではない。俺の字より、はねが短い。
◇
放課後、有本さんの車で事務所へ行った。
車の後ろの席は、今日は空いていた。紙束は助手席の足元に移してある。
「二十五日の入り時間、一時間早くなりました」
「はい」
「ホールが、段取りの確認を二回に分けたそうです」
有本さんはタブレットを一度触って、それから前を向いた。
「昼の十二時に、ホールの搬入口です」
「わかりました」
「制服では入らないでください、と言われました」
信号が赤になった。
止まった車の横を、自転車が二台通り過ぎた。二台目のかごに、コンビニの袋が入っていた。袋の口は結んであって、その結び目のところだけが、走るたびに上下に揺れていた。
◇
十七時に、レッスン室Aに入った。
入口から三枚目が、ぎ、と鳴った。
澪さんは先に来ていて、鏡の前で肩を回していた。回すたびに、肩甲骨のあたりが服の上から動くのが見えた。
譜面台は二つとも、二週間前と同じ位置に立っている。床のテープの剥がし跡を目印にすると、脚の位置まで同じところに置いてあることがわかった。
俺の紙も、澪さんの紙も、もう載っていた。
載せたのは俺ではない。
「頭から」
「はい」
◇
通した。
二週間ぶりだった。息を吸うところも、切るところも、言われたとおりの場所に置いた。
一か所目のハモは通った。
二か所目も通った。二か所目は、澪さんが半歩前に出るところの直前にある。出る音がして、それから声が二つになった。
三か所目も通った。
四か所目で、俺の声が上に引っぱられた。引っぱられて、澪さんと同じ高さになった。同じ高さになると、二つあったものが一つに減る。減ったことは、部屋の響き方でわかった。
曲は終わりまで鳴った。
澪さんはスピーカーを止めた。止めて、そこから動かなかった。
◇
もう一度、四か所目だけをやった。
「下から置いて」
「はい」
「置いたら、そこから動かさないで。私が上に行っても、ついてこないで」
「はい」
やった。
二回目は、途中まで下にいた。途中から上に行った。
「もう一度」
三回目は、最初から上にいた。
「……戻った」
澪さんは自分の額に手を当てた。当てて、髪の生え際のあたりで止めた。
止めた手が、そのまま二秒動かなかった。
◇
「高町くん」
澪さんはこっちを向いた。
向いて、俺の顔ではなく、俺の胸のあたりを見ていた。
「あなた、練習したことないでしょ」
◇
部屋の中で、鳴るものは何も無かった。スピーカーは止まっていて、廊下からの音も来ない。エアコンの風だけが、天井の吹き出し口から一定の速さで出ていた。
澪さんは指を一本立てて、それを自分の紙の上に置いた。置いてから、動かさなかった。
「二週間あったの。私、宿題を出したの。全部って言ったの」
「はい」
「今日、あなた、全部やってきたの。息も、切るところも、立ち位置も」
「はい」
「そういうことじゃないの」
俺は口を開けた。
「……いや」
「いや、って」
「家で――」
「そういう話じゃないの」
澪さんは指を紙から離した。離した指の跡が、紙の上に薄く残っていた。汗である。
◇
――先輩に十三回言われて、二週間後に同じ顔で立っている新人。
実際には、昨日の夜、妹の充電器を三十分探した。見つかったのは、俺の机の下だった。
◇
「三か所、直ってた」
澪さんは言った。
「直ってたけど、直したところが、そのまま置いてあるの。私が置いた形のまま。あなたが動かした形になってないの」
「はい」
「わかる?」
「わかりません」
「そうよね」
澪さんはタオルを取って、首にかけた。
かけて、そのまま壁のほうへ二歩歩いて、止まった。
止まって、こっちを向かないで言った。
「聞かないから」
「はい」
「どうしてかとか、家で何してるのかとか、聞かないから」
俺はもう一度、口を開けようとした。
開けようとして、やめた。やめたのは、言うことが思いつかなかったからだ。
澪さんは壁のほうを向いたまま、続けた。
「聞いたら、あなた、たぶん答えるでしょう。答えるだけ答えて、そのとおりにやるでしょう」
「はい」
「それが一番だめなの」
◇
澪さんはボトルの蓋を回した。
回すときの指が、俺の目の高さにあった。
関節が太い。指そのものより、関節のほうが太くて、そこだけが節になっている。第二関節の皮が厚くなっていて、曲げると白い線が三本出た。
蓋は一度で開かなかった。二度目で開いた。
「私、七年で、いろんな人に聞いたの」
澪さんは水を飲んで、蓋を閉めた。
「どうやってるの、って。何時間やってるの、って。全部聞いた」
「はい」
「聞いて、そのとおりにやったのよ。全部。十二人ぶん」
俺は紙の前から動かなかった。
「そのうち、聞くのをやめたの」
「なぜですか」
「聞いた人が、みんな先にいなくなったから」
澪さんはボトルを床に置いた。置いた場所は、いつものところだった。
「三年で全員よ。私が一番下手だったのに、私だけ残ったの」
「はい」
「残ったから、正しかったってことにしてるだけ」
言い方は、俺に説明している言い方ではなかった。紙に書いてあることを、声に出して読んでいるみたいだった。
「私、今でも、あの十二人のやり方を全部覚えてる。誰が何時に来て、誰がどこで休んでたか」
「はい」
「役に立ったことは、一回も無い」
◇
澪さんは壁際に座らなかった。
立ったまま、ボトルを持ったまま、鏡の中の自分を見ていた。三面あるので、鏡の中には三人いる。真ん中の一人だけが、こっちを向いている。左の鏡の中の一人は肩から先が枠の外に出ていて、右の鏡の中の一人は、こっちに背中を向けたままだった。
「だから、あなたにも聞かない」
「はい」
「聞いて、そのとおりにやって、それで届かなかったら、私、たぶん今度は立ち直らないから」
これは、俺に言った言葉ではないと思う。
思ったが、言い返すことも無かったので、俺は黙っていた。
◇
「今日は、ここまでにする」
澪さんは紙を丸めないで、二つに折って鞄に入れた。折り目は、前に付いていたところと同じ場所についた。
「明日も十七時から?」
「そうです」
「そう」
澪さんは鞄の口を閉めて、肩にかけた。かけてから、譜面台のほうへ戻った。
戻って、俺の紙を見た。見ただけで、何も書かなかった。
「あなたの紙、きれいね」
「はい」
「私の、こうなってる」
澪さんは鞄から自分の紙を出して、開いて、こっちへ向けた。
三十三行のうち、白いところがほとんど無かった。字の上にまた字が乗っていて、下のほうは何が書いてあるか読めない。
「読めますか」
「読めない」
澪さんは紙を折り直して、鞄に戻した。
澪さんは先に部屋を出た。
三枚目が鳴った。
◇
俺は靴紐を結んだ。
一階の階段の下に、荷物を置くための台がある。腰くらいの高さで、天板の角が丸く削れている。そこに片足を載せて結ぶと、しゃがまなくて済む。角の削れたところは塗装がはがれていて、下の木が、触っても引っかからないくらいまで丸くなっていた。
右の靴の、甲のところが擦れている。去年の九月からそこだ。結び目を作るときに、そこが指に当たる。
結び目を一度ほどいて、結び直した。一度目のほうが締まっていたので、二度目は少し緩かった。
結び終わったところで、階段が鳴った。
降りてきたのは澪さんだった。鞄を肩にかけて、髪をほどいていた。
俺の横を通り過ぎて、自動ドアの手前で止まった。
止まって、振り返らないで言った。
「明日、何時に終われる?」
「二十時です」
「二十時ね」
「はい」
「じゃあ、二十時から、あと一時間もらえる?」
俺は台から足を下ろした。
「鷲尾さんは」
「呼ばない」
澪さんは自動ドアのほうを向いたままだった。自動ドアは、人が近づくと開く。澪さんは開く線の一歩手前で止まっていて、ドアは閉まったままだった。
「二十時から二十一時。部屋は私が押さえておく」
「はい」
「明日は、私だけでいいの」
澪さんは一歩前に出た。
ドアが開いて、外の音が入ってきた。まだ明るい。夏の七時は、夜の顔をしていない。
澪さんは、開いたドアの先でもう一度止まった。
「聞かない代わりに、明日、一つだけやってもらうから」
何をやるのかは、教えてもらえなかった。




