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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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88/203

第88話 聞かないでくれる人

 ドアを開けたら、先に座っていた。


 俺の椅子の上である。背もたれのところに背中を預けて、脚を組んで、こっちを見ていた。台座は机の上に残っている。


 俺は鞄を床に下ろして、後ろ手にドアを閉めた。閉めると、階段の下から上がってくる台所の音が、一枚ぶん遠くなる。


「そこ、俺のだ」

「知ってるわよ」

「どけ」

「今日から夏じゃないの」


 人形は椅子の上で腕を組んだ。


「窓、開けなさいよ。この部屋、朝から暑いのよ」

「開いてる」

「開いてないわよ」


 俺は窓を見た。開いていた。開いていたが、風は入っていない。カーテンが動いていないので、たぶん外も止まっている。


「網戸だけ閉まってるのよ」

「網戸は閉めるものだ」

「言い方の問題じゃないの。空気が入ってこないでしょう」


 空気の話をしているのか、椅子の話をしているのか、途中からわからなくなった。


   ◇


「あんた、今日、あの子と会うんでしょう」

「会う」

「二週間ぶりね」

「そうだな」

「その二週間で、あんた、何をしたの」


 俺は鞄に譜面の紙を入れた。入れてから、机の上の紙をもう一枚取って、それも入れた。


「試験があった」

「試験の話は聞いてないわよ」

「あとは、食って、寝た」

「食って寝ただけの人間が、二週間ぶりに部屋へ入っていくのよ」

「そうだな」

「そうだな、じゃないでしょう」


 人形は椅子の背から下りて、机の上の台座に戻った。戻ってから、こっちを向いた。


「向こうは二週間、あんたのために何か考えてたわよ」

「考えてないだろ」

「考えてるわよ。あの子は、二週間まるごと使う人よ」


   ◇


 俺は制服のシャツを着て、下に降りた。


 台所で母さんが弁当箱に蓋をしていた。妹はテーブルで、片手にパンを持って、もう片方の手で携帯を見ていた。


「兄ちゃん」

「なんだ」

「今日、返ってくるんでしょ」

「何が」

「答案」


 妹は携帯から目を離さなかった。


「言わなくていいからね、点数」

「言わん」

「言われても困るし」

「言わん」

「二回言った」


 母さんが弁当を俺の鞄の横に置いた。置いてから、台所に戻って、蛇口をひねった。


 弁当箱は、蓋が閉まりきっていなかった。母さんは指で二回押して、それから輪ゴムを一本かけた。輪ゴムは、台所の引き出しの中の、輪ゴムだけを入れてある小さい箱から出てくる。今日のは黄色だった。


   ◇


 教室に入ったら、机の上に紙が二枚置いてあった。


 置いたのは俺ではない。前の席のやつが、受け取ったぶんを後ろへ順番に流していったやつだ。


 一枚目は数学だった。二枚目は現代文だった。


 数学のほうを先に見た。赤い数字が、右上に丸で囲んである。


 三十一だった。


「高町」


 熊沢が後ろから覗き込んだ。


「お前、それ」

「数学だ」

「点数の話をしてんだよ」

「三十一だ」

「言うなよ、そこ堂々と」


 熊沢は自分の紙を裏返して、机に伏せた。伏せる速さで、だいたい察しがついた。


「なあ、お前さ」

「なんだ」

「テレビ出てる人間が三十一点って、なんか、逆にすごくない?」

「すごくない」

「いや、俺の中では今、めちゃくちゃ話が繋がったんだよ。歌う人間は勉強しないっていう」

「繋がってない」


 熊沢は伏せた紙の角を、指で二回叩いた。


 叩いてから、そのまま裏返さずに鞄へ入れた。


   ◇


 二時間目と三時間目のあいだに、廊下へ出た。


 自販機は三階の渡り廊下の手前にある。そこまで行くのに、二年の教室の前を通る。


 通ったら、教室から二人出てきた。出てきて、壁に寄って、こっちを見ていた。見ているだけで、何も言わない。


 自販機で微糖を買って、戻ってきたら、四人になっていた。


 四人とも、下級生だった。


 廊下は広い。四人が壁に寄っても、まだ二人ぶん空いていた。四人のうち二人はこっちを見ていて、残りの二人は携帯を見ていたが、携帯を見ているほうも、画面には一度も触っていなかった。


 教室に戻ったら、熊沢が窓のところに立っていた。


「今の、見えてたぞ」

「何がだ」

「下の階から人が湧いてくるやつ。今週、毎日やってるぞ」

「知らん」

「知らんって、お前のことだぞ」


 熊沢は窓の外を見た。外は晴れていて、グラウンドの端で誰かが白い線を引いていた。


「うちの母ちゃん、最近、お前が歌ってるほうしか言わなくなった」

「そうか」

「ドラマの話、一回もしなくなった」


 缶を開けた。中身は微糖で、思ったより冷えていた。


   ◇


 宮坂先生が教壇で、赤点の話を三分した。


 三分のあいだに、追試の日と、提出物の期限と、夏休みの補習の話が出た。補習は八月の後半で、午前だけらしい。


 俺は現代文の紙をめくった。


 こっちは四十四だった。数学よりは高い。高いが、線の下であることに変わりはない。


 紙の下のほうに、宮坂先生の字で一行あった。


 〈設問四、書いたことは合っています〉


 合っているのに点が付いていない理由は、書いていなかった。


 休み時間に、教壇のところへ紙を持っていった。宮坂先生は出席簿を閉じて、俺の紙の下のところを指で押さえて、こう言った。


「本文の言葉を使いなさい、って書いてあったでしょう。あなたの言葉で正しく書いても、この設問では点が付かないの」

「はい」

「これは、意地悪じゃなくて、そういう決まりなの」

「はい」


 先生は紙を返して、出席簿を持って教室を出ていった。


 決まりだから点が付かない、というのは、どこかで聞いたことがある話だった。


   ◇


 六時間目の前に、早坂が俺の机の横で止まった。


 止まって、何も言わないで、二秒だけ立っていた。


 それから、自分の席へ戻っていった。戻る途中で、一度だけ振り返った。


 振り返ったが、やはり何も言わなかった。


   ◇


 昼休みに、美咲が来た。


 紙を一枚持っていた。追試の申し込み用紙である。名前のところと、科目のところに、もう字が入っていた。


「二科目でいいのね」

「二科目だ」

「日にちは十七日。木曜の放課後」

「はい」

「はい、じゃなくて。その日、仕事は」


 俺は考えた。十七日は、たぶん何も無い。


「無いと思う」

「思う、はやめて」

「無い」

「わかった」


 美咲は用紙を俺の机に置いて、自分の席に戻っていった。


 置かれた紙の、名前の字は俺の字ではない。俺の字より、はねが短い。


   ◇


 放課後、有本さんの車で事務所へ行った。


 車の後ろの席は、今日は空いていた。紙束は助手席の足元に移してある。


「二十五日の入り時間、一時間早くなりました」

「はい」

「ホールが、段取りの確認を二回に分けたそうです」


 有本さんはタブレットを一度触って、それから前を向いた。


「昼の十二時に、ホールの搬入口です」

「わかりました」

「制服では入らないでください、と言われました」


 信号が赤になった。


 止まった車の横を、自転車が二台通り過ぎた。二台目のかごに、コンビニの袋が入っていた。袋の口は結んであって、その結び目のところだけが、走るたびに上下に揺れていた。


   ◇


 十七時に、レッスン室Aに入った。


 入口から三枚目が、ぎ、と鳴った。


 澪さんは先に来ていて、鏡の前で肩を回していた。回すたびに、肩甲骨のあたりが服の上から動くのが見えた。


 譜面台は二つとも、二週間前と同じ位置に立っている。床のテープの剥がし跡を目印にすると、脚の位置まで同じところに置いてあることがわかった。


 俺の紙も、澪さんの紙も、もう載っていた。


 載せたのは俺ではない。


「頭から」

「はい」


   ◇


 通した。


 二週間ぶりだった。息を吸うところも、切るところも、言われたとおりの場所に置いた。


 一か所目のハモは通った。


 二か所目も通った。二か所目は、澪さんが半歩前に出るところの直前にある。出る音がして、それから声が二つになった。


 三か所目も通った。


 四か所目で、俺の声が上に引っぱられた。引っぱられて、澪さんと同じ高さになった。同じ高さになると、二つあったものが一つに減る。減ったことは、部屋の響き方でわかった。


 曲は終わりまで鳴った。


 澪さんはスピーカーを止めた。止めて、そこから動かなかった。


   ◇


 もう一度、四か所目だけをやった。


「下から置いて」

「はい」

「置いたら、そこから動かさないで。私が上に行っても、ついてこないで」

「はい」


 やった。


 二回目は、途中まで下にいた。途中から上に行った。


「もう一度」


 三回目は、最初から上にいた。


「……戻った」


 澪さんは自分の額に手を当てた。当てて、髪の生え際のあたりで止めた。


 止めた手が、そのまま二秒動かなかった。


   ◇


「高町くん」


 澪さんはこっちを向いた。


 向いて、俺の顔ではなく、俺の胸のあたりを見ていた。


「あなた、練習したことないでしょ」


   ◇


 部屋の中で、鳴るものは何も無かった。スピーカーは止まっていて、廊下からの音も来ない。エアコンの風だけが、天井の吹き出し口から一定の速さで出ていた。


 澪さんは指を一本立てて、それを自分の紙の上に置いた。置いてから、動かさなかった。


「二週間あったの。私、宿題を出したの。全部って言ったの」

「はい」

「今日、あなた、全部やってきたの。息も、切るところも、立ち位置も」

「はい」

「そういうことじゃないの」


 俺は口を開けた。


「……いや」

「いや、って」

「家で――」

「そういう話じゃないの」


 澪さんは指を紙から離した。離した指の跡が、紙の上に薄く残っていた。汗である。


   ◇


 ――先輩に十三回言われて、二週間後に同じ顔で立っている新人。


 実際には、昨日の夜、妹の充電器を三十分探した。見つかったのは、俺の机の下だった。


   ◇


「三か所、直ってた」


 澪さんは言った。


「直ってたけど、直したところが、そのまま置いてあるの。私が置いた形のまま。あなたが動かした形になってないの」

「はい」

「わかる?」

「わかりません」

「そうよね」


 澪さんはタオルを取って、首にかけた。


 かけて、そのまま壁のほうへ二歩歩いて、止まった。


 止まって、こっちを向かないで言った。


「聞かないから」

「はい」

「どうしてかとか、家で何してるのかとか、聞かないから」


 俺はもう一度、口を開けようとした。


 開けようとして、やめた。やめたのは、言うことが思いつかなかったからだ。


 澪さんは壁のほうを向いたまま、続けた。


「聞いたら、あなた、たぶん答えるでしょう。答えるだけ答えて、そのとおりにやるでしょう」

「はい」

「それが一番だめなの」


   ◇


 澪さんはボトルの蓋を回した。


 回すときの指が、俺の目の高さにあった。


 関節が太い。指そのものより、関節のほうが太くて、そこだけが節になっている。第二関節の皮が厚くなっていて、曲げると白い線が三本出た。


 蓋は一度で開かなかった。二度目で開いた。


「私、七年で、いろんな人に聞いたの」


 澪さんは水を飲んで、蓋を閉めた。


「どうやってるの、って。何時間やってるの、って。全部聞いた」

「はい」

「聞いて、そのとおりにやったのよ。全部。十二人ぶん」


 俺は紙の前から動かなかった。


「そのうち、聞くのをやめたの」

「なぜですか」

「聞いた人が、みんな先にいなくなったから」


 澪さんはボトルを床に置いた。置いた場所は、いつものところだった。


「三年で全員よ。私が一番下手だったのに、私だけ残ったの」

「はい」

「残ったから、正しかったってことにしてるだけ」


 言い方は、俺に説明している言い方ではなかった。紙に書いてあることを、声に出して読んでいるみたいだった。


「私、今でも、あの十二人のやり方を全部覚えてる。誰が何時に来て、誰がどこで休んでたか」

「はい」

「役に立ったことは、一回も無い」


   ◇


 澪さんは壁際に座らなかった。


 立ったまま、ボトルを持ったまま、鏡の中の自分を見ていた。三面あるので、鏡の中には三人いる。真ん中の一人だけが、こっちを向いている。左の鏡の中の一人は肩から先が枠の外に出ていて、右の鏡の中の一人は、こっちに背中を向けたままだった。


「だから、あなたにも聞かない」

「はい」

「聞いて、そのとおりにやって、それで届かなかったら、私、たぶん今度は立ち直らないから」


 これは、俺に言った言葉ではないと思う。


 思ったが、言い返すことも無かったので、俺は黙っていた。


   ◇


「今日は、ここまでにする」


 澪さんは紙を丸めないで、二つに折って鞄に入れた。折り目は、前に付いていたところと同じ場所についた。


「明日も十七時から?」

「そうです」

「そう」


 澪さんは鞄の口を閉めて、肩にかけた。かけてから、譜面台のほうへ戻った。


 戻って、俺の紙を見た。見ただけで、何も書かなかった。


「あなたの紙、きれいね」

「はい」

「私の、こうなってる」


 澪さんは鞄から自分の紙を出して、開いて、こっちへ向けた。


 三十三行のうち、白いところがほとんど無かった。字の上にまた字が乗っていて、下のほうは何が書いてあるか読めない。


「読めますか」

「読めない」


 澪さんは紙を折り直して、鞄に戻した。


 澪さんは先に部屋を出た。


 三枚目が鳴った。


   ◇


 俺は靴紐を結んだ。


 一階の階段の下に、荷物を置くための台がある。腰くらいの高さで、天板の角が丸く削れている。そこに片足を載せて結ぶと、しゃがまなくて済む。角の削れたところは塗装がはがれていて、下の木が、触っても引っかからないくらいまで丸くなっていた。


 右の靴の、甲のところが擦れている。去年の九月からそこだ。結び目を作るときに、そこが指に当たる。


 結び目を一度ほどいて、結び直した。一度目のほうが締まっていたので、二度目は少し緩かった。


 結び終わったところで、階段が鳴った。


 降りてきたのは澪さんだった。鞄を肩にかけて、髪をほどいていた。


 俺の横を通り過ぎて、自動ドアの手前で止まった。


 止まって、振り返らないで言った。


「明日、何時に終われる?」

「二十時です」

「二十時ね」

「はい」

「じゃあ、二十時から、あと一時間もらえる?」


 俺は台から足を下ろした。


「鷲尾さんは」

「呼ばない」


 澪さんは自動ドアのほうを向いたままだった。自動ドアは、人が近づくと開く。澪さんは開く線の一歩手前で止まっていて、ドアは閉まったままだった。


「二十時から二十一時。部屋は私が押さえておく」

「はい」

「明日は、私だけでいいの」


 澪さんは一歩前に出た。


 ドアが開いて、外の音が入ってきた。まだ明るい。夏の七時は、夜の顔をしていない。


 澪さんは、開いたドアの先でもう一度止まった。


「聞かない代わりに、明日、一つだけやってもらうから」


 何をやるのかは、教えてもらえなかった。

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